チラシ裏文章

「映画天使」山崎幹夫
 森永憲彦が映画を作らなくなって10年になる。いまはコンピュータ関係の会社を作って、社長におさまっている。現役の映画作家ではないので、鑑賞意欲が失せるかもしれないが、今回上映の3本は観ておいたほうがいい。
『爆・BACK』は1982年のぴあフィルムフェス入選作品。女教師を暴行殺害してしまった高校生の、自滅へと向かう暴走を描く。主演は宮沢春之。現在「のなか悟空と人間国宝」というバンドでギターを弾いているハル宮沢の、若き日の姿である。当時は、札幌でパンクバンドをやっていたアンちゃんだった。
『PATINKO』は翌1983年のぴあフィルムフェス入選作品。森永じしんが主演し、彼の短い(2年で中退した)学生生活の記憶を解体・再編している。パンクから一転して、基調にあるのは内ゲバだ。ちょうど『ゴーストタウンの朝』に出演中だった神岡猟がぎこちなく黒ヘルを被るシーンや、亡き犬飼久美子が「恋の季節」を歌うシーンなど、記憶に深く残る。
『RETURN』は1985年、森永が札幌と東京を往還しながら作ったものだ。精神を病んで入院した女を見舞いに行こうとする主人公が、彼女との記憶をたどるうちに、地下鉄をどうどうめぐりし始める。丸ノ内線の血のように赤い車両が鮮烈だ。そして記憶を断ち切るかのように噴出する暴力。
 3本ともにコトバの選択、構成と編集がうまい。森永本人の不器用さは、この映画的才能と引き替えだったのかと思わせるほどだ。 今回、とくに『RETURN』を観てもらいたい。1985年の日本映画史に書き記すべき作品だとワタシは思うのだが、不幸にもこれまで上映の機会に恵まれなかった。ぜんぶ合わせても、せいぜい百人ほどがこの映画を観ただけなのだ。これではいけない。ぜひともこの機会をお見逃しないように願う。

山崎コメント
●vol39 1996 2 イディオットたち
 かつて札幌で映像通り魔として共働した森永憲彦の特集。森永は佐賀の出身で北大に入学。浪人したのでワタシと同学年だが一歳上になる。映研に所属して8mm映画をつくり始めたが、大学内サークルとしての映研にあきたらず、学校の外での上映会をもくろんでいたグループに参加。そこでワタシと出会った。PFFに入選した「爆・BACK」の前には短編ドラマひとつと、学内での政治的問題を扱った中編ドキュメンタリーがひとつある。東京へ出てきてからつくった「RETURN」を最後に映画をつくっていない。現在はコンピュータソフトプログラム会社の社長をしているが、たまに話してみると、まだ映画製作の志を失ったわけではないようだ。
「爆・BACK」 森永憲彦 1981 8mm 45分
 暴走族の少年が主人公。友人とふたりで女教師を強姦するが、車の事故で友人と女教師は死んでしまう。接触してきたルポライターの家に転がり込んで相変わらずの自堕落な生活を続けるが、やがてかつての暴走族仲間に追われることになり、ついには血みどろになって汚れた雪の上に倒れ果てる。暴走族の描写などに稚拙な点が見られるが、出口なしの状況のなかで、どこまでも無軌道に暴れ、あがき、やがては自滅していくある種の青春像はそこそこに描けていたと思う。主人公を演じた宮沢春之は現在「のなか悟空と人間国宝」というバンドでギターを弾いている男で、当時は札幌でパンクバンドをやっていた。彼のキャラクターがなかなか生かされていること、それから真冬の札幌の路地に積もる圧倒的な雪の描写などがPFF入選のワケだったと思われる。
「PATINKO」 森永憲彦 1982 8mm 30分
 この作品は vol1で上映したので参照されたし。この「PATINKO」と「爆・BACK」は、製作年度が1年しか違わないのに、スタッフ・キャストで重複している者が一人もいない。これは森永が当時、いかに人望がなかったかを物語っている。「RETURN」の後、ワタシは森永に対して「あーあ、2回もお前の映画を手伝うとは、俺もとんだお人好しだよな」と悪態をついたのだった。劇映画をひとりでつくるのは困難だ。才能があっても人望がなければ劇映画製作は難しい。
「RETURN」 森永憲彦 1985 8mm 30分
 ほとんど上映されていない作品だが、森永の現在のところのベスト作品であるし、1985年の8mm映画を代表する傑作であることは間違いない。花束を持った男が地下鉄の連絡通路を歩いている。ふと気が遠くなる。俺は何をしている? そうだ女の見舞いに行くところだ。女は精神病院に入っている。いつも水の音が聞こえると言っていたのが発病の徴候だった。なぜ? いや、違う。男の記憶が混乱し始める。記憶の混乱と同時に、男はいつまでたっても地下鉄の中から抜け出られないでいる自分に気づく。片方の目だけで見える「応答せよ」という文字が案内板や洗面所に現れる。葬り去ったはずの記憶が漏れ出てくる。女との記憶。地下鉄工事のバイトで死んだショウという男の記憶。あいまいなくせに切実な記憶は、男の胸に突き刺さり、心の裡で血が流れ出す。とめどなく…。
 必見のシーンが少なくとも2つある。ひとつは狭い浴槽の中で女が全身を水に沈めているところ。その時の不思議な平穏に満たされた表情は、どうしたわけか『裁かるるジャンヌ』や『奇跡』など、ドライヤーの「聖なる映画」を想起してしまう。もうひとつは地下鉄の車内をさまよう男の手のアップが、やがて女の手らしい細くきれいな手に辿り着き、次の瞬間、ふたつの手が握りあうシーン。どちらもドラマの脈絡とは関係なく繰り出されるイメージシーンだが、胸を打つ。映画的リリシズムとでも言うべきものに満ち溢れたシーンだ。果てしなく落ち込んでいくタイプの映画のようでいて、落ちる先で出会った不思議なあたたかさが表現されている。そこに救済がある。人生のつらさを表現しながら、その彼方にほの見える「出口らしきもの」を、押し付けがましくなく見せてくれるところに救いがあるのだ。この作品はワタシの知る限り、東京で4回と札幌、山形で1回しか上映されていない。傑作であることはワタシが保証するので、ぜひ他の地方でも上映されることを願う。