チラシ裏文章

「なんつーか、ツーカイなのである」
島本慶

 『極星』という映画に出会ったのは何年前だったか。確か渋谷のユーロスペースだったと思う。この映画を見終った時、というか見ている間もボクの頭の中に浮かんだのは“ツーカイ”という言葉だった。彼の映像は出来上がりのいい小品とかいったモノじゃなくて明らかに個人映画がかかえているあらゆるものを背おいつつも、その課せられた条件の中で開き直っているのが何ともスガスガシイ。なるほど彼はフィルムをすでに道具として消化し切っている表現者であった。彼の目は常に第三者的だったり、アタリマエだけど当事者だったり、突き離す対象だったりと、意識がまるで人魂のように宙を舞う。そうかやっぱり映画なんだよなあと、妙に納得させられる。手法とか、なんてこたあないワザとか、スルドさや、くわえタバコ的映像が自由気ままに入り交じる。なんてこった、映像ってえものがこれほどまでに解放されているなんて、マジメに驚いてしまう。しかも後半へ向かう映像は彼の手によって解き放たれた糸がたぐり寄せられ、あのまるで声優のような出来すぎの声によって全体を一つの、いやいや一人の、いやいや見る者すべての意識をも抱き込んで終る。まさに“ツーカイ”としか言いようがないじゃないか。
 撮りつづけることと、それら撮りつづけられた目の痕跡であるフィルムの山をつないでいく行為によって作品化された『猫夜』もまた、さらにより自由であり、他者の目をも巻き込んでレッキとした山崎幹夫の世界を成立させている。面白いのは、とにかく彼が手あたりしだいより多くのフィルム群をつなぎ合わせることによって、それは編集という手つづき的な表現を超えて、やっぱモノスゴク現実というかリアリチーをグッサリ感じてしまう。
 ウレシイことに彼の目はかなりエッチだし、だからこそヘタすりゃ死んでしまう人だろうかなんて緊張感も漂わせていて、気におけない作家であることは確かだ。
 ともあれ、ボクは『極星』を見て、映像作家という生き方を知り、『猫夜』を見て映像が生きつづけるということを知らされたのである。

「パンクのDNA」ムエン通信編集部
A:山崎氏から、こんど『極星』と『猫夜』をセットで上映するので、何かコメントせいという要請があったのだけれど、何かあるか?
B:いいんじゃないの。
A:ミもフタもない言い方だな。
B:それより山崎が監督したパルコ製作の劇映画、『プ』がようやく公開されようとしてるだろ。A君はビデオで観たんだっけ。
A:あー、つまんなかったな。
B:コラコラ、それこそミもフタもない言い方してるぞ。俺はさ、この『プ』と『猫夜』こそセットで上映されるべきだと思うのだよ。この2つの作品は、形態は全然違うけれど、表裏一体の関係にあると思うのだ。
A:えー? でもさ、8ミリの個人映画である『猫夜』と35ミリの劇映画『プ』には、ジャンルもスタイルも違うし、何の共通性もないでしょう。
B:甘いなあ。サイズやジャンルの違いを乗り越えて、このふたつの映画にはある重要な共通性があるのだよ。それはな、コトバにするとあんまり面白くないけれど「世界に対してクソッタレと作家がつぶやいて消えてしまった後の映画」ということだよ。
A:わかりまシェーン。
B:山崎は根がパンクスなんだ。奴が高校生のときにセックスピストルズなわけだから。
A:それは僕もB君もだいたい同じだ。
B:それだよ。ならわかるだろ。スタイルだけ猿真似のうわべだけのパンクではなくて、ジャンルのDNAを胚胎しつつ、そのジャンルじたいを壊す癌細胞のような作品、それが語の正確な意味でのパンクな作品だよな。『猫夜』と『プ』はそういった意味で表裏一体なのだ、と俺はみたけどね。
A:確かに最近「インディ映画」なんてもてはやされている中には、B君の言うような「エセパンク映画」がやたら多くって、僕も苦々しく思ってはいたのだけれどね。
B:ちょっと古いけど「毒入りキケンやで」ということ。映像では8ミリ映画とアダルトビデオだけじゃないの、最近。

山崎コメント
vol26 1994 12 山崎幹夫の「夜」
 12月にワタシの作品を上映するというのは、別にさしたる理由はない。「去年もやったから今年も『極星』『猫夜』で」という成り行き的プログラム。
「極星」 山崎幹夫 1987 8mm 75分
「猫夜」 山崎幹夫 1992 8mm 80分