チラシ裏文章

「足の映画」山田勇男
 僕の映画の目覚めは、シュールレアリスム★シネマである。ラ・カメラのプログラムで一度、僕のフェヴァリットな、それら数本とオマージュ的な意味を込めて新作をタイトルマッチでやりたいと思っていた。
 いつだったか? オーナーの島本慶さんとそんな話をしてて、僕は、マン・レイの「ひとで」のシーンを思い浮かべた。ベットから下ろした素足の傍にひとでが一匹いる、といったようなシーンで、何故か、そのシーンが鮮明に忘れられないでいる。何故だろう? 僕たちの日常が何んでもなくあると思うのは、実はとんでもない錯覚で、現実ほどその飛躍によって成立しているというのに。連続である日々ってそんなにあるだろうか? ボルヘスの五ッの銅貨の話だっけ? 昨日、あの道に落ちていた五ッの銅貨が「今、そのまゝこゝにある現実」と云えるだろうか? うまく説明出来ないが、僕が日頃思っていることは、たった今の、この一瞬の現象のかけらに、僕自身という存在がぽっと浮かんで、ぽっと消えているだけだ、ということで、これって、僕の人格であり、僕の理由なんだと思っている。
 さて、「La あんよ」とは、島本さんの付けたタイトルで、僕も山崎君も気に入っている。ずばり「脚」のことである。先程のシュールレアリスム・シネマの上映展開で、どうしても、何故か「脚」にこだわってしまった。
 思春期の頃、「おまえ、まづ女の子の何処をみる?」とか「君の好きな女の子の場所って何処?」とかよく話したのを覚えていて、実際、今でもそんな話題を時々する。ま、結局、上等な発想ではないけれど、これってやっぱりそのひとの人格や存在理由に大きく関わってくる気がする。
 僕は、いままでに何本となく作品を作っていて、自分でもひとつふたつのモチーフやパターン化された演出方法やオブジェについて思い巡らすことがある。そのひとつに「脚」がある。僕自身も解っていて取り上げているわけではないけれど、何故か「脚」への思い入れがある。無意識で、あとで人に云われたりして、はっとするのだが。そこで、今回のプログラムは、「La あんよ」に関するフィルムを集め、山崎君と僕が新作を作る。あんよフィルムについて、一考察しようと試みたわけ。
 これらのフィルムは、ひとつのモチーフとして僕個人の印象にすぎない。あくまで断片であるから、そこからのイメージは観客の心に自由な感知で、もう一本の映画を見いだしてくれたら、と思う。たとえば、映し出されたスクリーンの裏側にまわってみる、むしろ遊戯性に満ちた感覚のシナリオを描くことをーー
 僕のシュールレアリスム★シネマに対する魅力は「意味」のちからではなく、「まだ断片のままの全体」である。僕らの日常生活のなかでの意味さがしとは、たぶんこれらのフィルムの背後にある無意識の視覚だろう。不安に歪み続けた無意識の粒子が視覚の中で見せてくれたものとは、死であり、エロティシズムであり、それらは、ただ「かけらの存在」でしかない。「瞬間」の煌めきでしかない。どうしようもない孤立した、疎外された価値であるけれど、これこそが僕らの美の把握を意味する。
 僕の好きなハンス・ベルメールの「脚」についての引用をしよう。
 「少女たちのあの脚は、触知できないものに包まれていた。ぼくの魔術師である偉大な自我が、かの女らのまりのようにはずみながら、かの女らの触知できないものにぶつかった」と。触知できない視覚とは、未だ何処にも存在しない現実だろう。その現実こそが、映画の百年の歓喜であり「二十世紀の悲哀」と思える。僕のシュールレアリスム★シネマの理由とは、たぶん、このようなことではないか。
 僕はシュールレアリスム・シネマの中で、とりわけ胸に響きたいのは、詩のありか。それも、どこかニヒリスティックなファンタジーがあるところ。いわゆる「物語性」の依存を持たない「かけら」の飛躍が見えてくる、どこかフェティッシュなイメージである。

山崎コメント
vol24 1994 10 Laあんよ
 足をテーマにしたプログラム。変でいいでしょ。マン・レイとモリニエ作品に、ワタシと山田勇男が新作で対抗するという図式。
「エマク・バキア」 マン・レイ 1926(8mm)17分
「ひとで」 マン・レイ 1928(8mm)15分
「私の足」 ピエール・モリニエ 1965(8mm)20分
「VMの歩行」 山崎幹夫 1994 8mm  7分★
「沓下の嘆き」 山田勇男 1994 8mm 20分★