チラシ裏文章

「凶器としての映像」山崎幹夫
 この6月に洋泉社より発売された『ゲバルト人魚〜平野勝之作品集〜』より、今回上映の『雷魚』について僕が解説している部分を引用する。

 ストーリーは、杉山正弘演じる南野陽子ファンの孤独な青年が、ある夜、自販機から一匹の雷魚を入手してしまったことに始まる怪異譚である。雷魚はしだいしだいに巨大化してゆき、それとともに杉山の狂気も膨脹する。
 杉山の目がいい。闇を見つめる目は、ちょっぴりうるんでいて、狂気に満ちあふれている。そして理髪店の椅子にうつろな目をしてぐったりする杉山。しかし、ペニスだけは隆々と勃起している。しかも、緑色に塗りたくられて……。
 ひょんなことから杉山と同棲を始めてしまう女がいる。映像作家でもある小口容子が演じているのだが、これがまた、体当たりというありきたりな形容が恥ずかしくなってしまうほどの怪演を見せる。彼女は映画の中で、髪を切り落として坊主頭になってしまう。そして、下着一枚で夜の街に飛び出し、街を駆け抜けるのだ。
 このふたりに圧倒され、さしもの鈴木豊もここでは印象が薄い。そして、夜の街。川辺にそびえ建つ高層マンションは、遠く79年の山本政志作品『聖テロリズム』と呼応しているかのようだ。『銀河自転車の夜』で獲得した闇の力は、ここで確実にテロルのパッションをも映画に導き入れてしまったのである。
 1989年1月7日、昭和天皇が死んだ時、街では誰が決めたんだか知らないが「歌舞音曲の自粛」ということで、映画館は軒並み上映を「自粛」した。その中で唯一、この『雷魚』のみがパルコ・スペースラボにて上映されたという事実には、何やら象徴的なものを感じる。
 1990年、若干編集し直してイメージフォーラムフェスに『雷魚』は応募され、審査員賞を受賞。ここで平野のフィルモグラフィ(映画作品歴)は途切れる。

 そう、平野勝之はもうすでに映画を作っていない。この『雷魚』以降、アダルトビデオへと活動の場を移してしまった。残念だが、アダルトビデオの世界でものすごい傑作をものにしてくれることを願うしかない。
 フィルムによる映像表現はまだまだ死滅してはいない。けれども、すでに90年代も半ば、そこそこによくできたおりこうさん映画ばかりが多くて、僕は少々うんざりしている。どうか、80年代半ばに生まれた「ポスト・ダイレクトシネマ」を軽く一蹴するような強力な映画が現われますように。
 そのためにも「ポスト・ダイレクトシネマ」の一旗手、平野勝之の現在のところ最後のフィルム作品『雷魚』を観ていただきたいのだ。

山崎コメント
vol22 1994 8 平野勝之FilmShow
 平野勝之は浜松のシネマ・ヴァリエテ出身の映像作家で、PFFに『狂った触角』『砂山銀座』『愛の街角二丁目三番地』が連続入選。浜松から東京に出てきて、浜松で撮影したこの『雷魚』を編集してIFFに入選。商業映画監督を目指して、例えばワタシが当時『プ』の準備で通っていたパルコなんぞにも企画書を送ってきたりしていた。ピンク映画で監督するという話もあったようだが、それも実現せず、アダルトビデオの世界に進んで現在に至る。つまり現状ではフィルムによる平野の最後の作品がこの『雷魚』ということになる。
「雷魚」 平野勝之 1988 8mm 120分
 南野陽子ファンの孤独な青年(杉山正弘)がある夜、自動販売機で雷魚を得てしまい、それを浴槽で飼い始めたところから世界が変容し出す。女(小口容子)と奇妙な同棲生活を始める青年。日常がじょじょに裂け始め、そこから暴力と叫喚が噴出する。雷魚は浴槽のサイズを越えて成長し、青年は小学校のプールに雷魚を放つ。
 平野映画の最高峰はやはり『愛の街角二丁目三番地』だろう。この映画のエネルギーの噴出は、映画の枠組みじたいを壊しかねないほどの凄まじさだ。だが平野には、夜ひとりで冷や汗をタラタラ流し続けるような感触の表現にも優れている。その代表が『銀河自転車の夜』だ。今回『雷魚』を上映作品として選んだのは、その両方の感覚がうまくミックスされている作品だと思ったからだ。また、劇映画的な展開も保たれているので、導入部としてのわかりやすさという点もある。
 フィルムによる映像表現に並外れた感性を発揮した平野が、現在もなおアダルトビデオの世界に鎮座していることは残念きわまりない。それならお前が金を出して平野のフィルム作品をプロデュースせんかい!という声が聞こえてきそうだが、そんな金があるならワタシは自分の作品にまわすし、どうしても誰かをプロデュースしなくてはいけないとしたら、石井秀人や大川戸洋介の方が先だ。平野に限らず日本映画界は貴重な才能をどんどんビデオやゲームの世界に流出させている。なんてこと言い出すとグチがグチグチあふれ出してしまうのでこのへんで。