チラシ裏文章

「べっくん、それからどうしたの?」
山田勇男

 江口幸子さんの『べっくんはくまです。』を観て、即座に思ったことは、あっ、これ、「文体のもつ魅力の映画」だなあ、と。
 僕は文学少女に弱い。もちろん、まだ江口さんに会ってもいないのだから、あまり勝手なことばかり書くと、あとでピリーンとフラグメント切られるかな。
 岩波少年文庫に『クマのプーさん』がある。僕の手元ではなく、少女であったひとのもので、すっかり少年ではなくなった僕がかりて、いま読んでいる。茶色に色褪せた一頁をめくるたびに、小さくなったシャツに手を通すような恥ずかしさを感じる。そして、やたら何か懐しい思いに、ただむずかしく、長びかせた僕の「個性化の過程」って奴を思い巡らせてしまう。これは真面目というより馬鹿だ。
 『べっくんはくまです。』には、選ぼうとした、選びきれない、選ばれた作家の身のおきどころのなさが、切なく伝わってくる。作家と観客である両者が向かいあいながらも、いつの間にか、同じ方向に歩きはじめてくれる映画だ。江口幸子さんの語り口が、僕の声になる。そんな錯覚をおこしてしまった。
 『クマのプーさん』のクリストファー・ロビンとプーの関係のように、『べっくんはくまです。』のべっくんと江口幸子さんは、ともに生きているって感じがする。そこ、ね、「同じ方向を向いて進む行為」としての作家性を認めてしまう。とても真摯な文体だもの。
 江口幸子さん、80分というこの映画は「知覚をむずかしく、長びかせる難渋な形式の方法」でしょう。でも僕は、決してオートマティックにして軽く薄れる文体じゃないのが良かった。江口さん、この映画が作られる過程を、体験するかのように観れたことは、あらためて、お話をせがむ子供になったみたいだ。

「個人映画から物語へと展開せよ」山崎幹夫
 江口幸子さんはイメージフォーラムフェスが公募を始めた1987年、第一回の大賞を『MaMa』という作品で射止めた人だ。今回上映する『べっくんはくまです。』は、彼女の7年ぶりの新作ということになる。
 『MaMa』は、劇映画にしたら嘘くさくて成立しないような、特異な自分の生い立ちを検証する映画だった。いわば、個人映画の王道を行く作品だったと言える。ところが、7年の歳月を経て、彼女はじつに軽やかに個人映画から物語へと通ずる回路を切り拓いてくれた。
 『べっくんはくまです。』はこんな映画だ。 20代後半のひとり暮らしの女性(=作者)がいる。彼女の日常が、個人映画の文法にそってたんたんと語られる。ある日、彼女は衝動的にクマのぬいぐるみを買ってしまう。ぬいぐるみの趣味などこれまで一切なかったのに、である。彼女は自分が愛聴するジェフ・ベックにちなんで、そのクマに「べっくん」と命名する。彼女とクマとの生活。彼女は物語を夢想し始める。やがて、彼女は仕事をやめ、部屋にこもって小説を書き始める。
 そう、ボーヨーとした日常に流されるのは楽なことだが、日常に反抗するには強い感性の体力が必要だ。そして、その時、のっぺらぼうな日常に風穴を開けるのは、物語の力なのである。想像力、あるいは妄想力と言ってもいい。
 この『べっくんはくまです。』は、凛とした姿勢でもって、みごとに、そのことを語り切っている。生きてゆくために必要なのは「自分探し」などというチンケなものではなく、物語を孕み、産むことなのだ。そして、ラストへ向けて、物語を失うことも含めて遠くへ遠くへと広がってゆく物語の研ぎ澄まされた力強さに、僕は思わず涙を禁じ得なかったことも書き添えておきたい。

山崎コメント
vol21 1994 7 江口幸子FILM展
 江口幸子は『MaMa』で1987年、イメージフォーラムフェスの第一回公募の大賞を受賞した人。これは彼女の7年ぶりの新作。ラ・カメラ独占初公開。
「べっくんはくまです」 江口幸子 1994 8mm 80分★
 独身OLのサチコさんは「クマのプーさん」を読んでしまったことで、突然クマに情熱を燃やすようになる。会社を辞める時、同僚が餞別に買ってくれた大きなクマに「べっくん」と名をつけ、再就職口を探すでもなく、でれでれとアパートの部屋に籠っている。ある日、サチコさんは小説を書こうと思い立つ。題名は「クリストファー・ロビンはどこ?」。クリストファー・ロビンとは「クマのプーさん」の主人公の少年の名。その90年後、ぬいぐるみだから年を取らないプーさんが、生きているのかどうかわからないクリストファー・ロビンに語りかけるという出だしだ。ところが、こたつで寝てしまったサチコさんが翌朝起きてみると、ワープロ画面のどこにもその小説はない。物語を喪失してしまったサチコさんは、再び無為な生活を続ける。
 美しい。どんな状態でも生き生きとした表情のサチコさんが美しい。それから、不意に挿入される「かつて行ったことのあるイングランド」の映像が美しい。そして胸を打つ。こたつにぼんやりと座るサチコさんが、半透明になり、ついには消え去ってしまうのが胸を打つ。そこにはこんな字幕が挿入される。
「できれば、死ぬまで持続する情熱が欲しい。これはサチコさんがつね日頃思っていたことです。なぜなら、なにもかもすべて失せてしまうからなのだそうです。あんなに傾けた思いも、次の日の朝日の輝きに負けてしまうからです。いつでもどきどきしていたい。これも、やはりなにもかもすぐに失せてしまうからなのです。
「でも今は、なぜか不思議なくらいこのままがいいのだそうです。例えば冬の日だまりがいいのだそうです。向こう側はもっと寒いのだけど、ここはこんなに気持ちがいい、とサチコさんは言いました。うとうと、ぼんやりとまどろみながら、何もしないでいるのがいい、とも言いました。
「そして、できるなら、不安がらない、こわがらない、くよくよしない、落胆しない、悲しまない、そしてあせらない。そんな心があればもっといいのに、とも言いました。
「ところで、みんなはどうしているでしょう。お母さんや、お友だちは…。でもそれも、いつかは忘れてしまいますね。べっくん、すべての記憶が失われていって、あと最後のひとつとなった時、どんな記憶が残るんでしょうね?」