チラシ裏文章
「星のアルチザン」山田勇男
 なにがパブリックで、なにがプライベートな表現なのか、ぐちゃぐちゃになってよく解らなくなった時期があった。今も変りないが。
 手ざわりが人によっては喜びであり、あるひとには悲しみで、誰かさんには苦しみでもあったりする。そんな、人々の神秘なる遊戯の謎解きは、きっとドキドキしたりハラハラしたなかにみえ隠れしているはずだと思う。
 世の中は、たいへんテクニックが横暴していたりする。エチケットのあるテクニックは十分に好ましいけれど、てれは相互的にしっかりした観察力の軍配か。
 これまで、どれだけの映画を、いや、なにもためらうことなく、なんと無防備なまま映像に溶けていく瞬間があったろうか。そんなことをめぐったのは、自分のビジョンについてデリケートで、しかも徹底した映像手法を持つ居田伊佐雄さんの「映画」に出会った時だった。
 その時、僕には安っぽい理性を越えた「感性の歓喜」のようなものが襲ってきた。
 居田さんのデビュー作は1972年の『Far from the explosive form of fruit 』だから20年以上のキャリアのあるひとだ。
 でも、映像をみてごらん。みずみずしい「映像のうねり」が押し寄せてくるから。そこには見慣れたはずの自然である地球の表情が、ひとたび居田さんのカメラワークにかかると、「こころの表情」となって語りかけてくるのがよく解るから。
 たとえば、よく「息をのむ」って表現があるけれど、何かあたりのすべてがパラパラ崩れる「はかない美」って、あの、もろくて「硬質なロマンティシズムの滴」に支えられた現象の連続なのだ。
 それはどこか虚無的で、人工的な「オブジェ感覚」を感じさせる。
 プライベートなまなざしが、ニヒリズムだというのではなく、あくまで「審美の終電」に乗ったような、はかない、美しさに彩られたデリケートな産物だといえよう。
 いまごろ流行らない「錬金術」という言葉を使ったのは、プライベートな発見性にある。
 居田伊佐雄さんが、ひとり「夜の幻想」(※)をさまよいながら探し求めた、それら映像の真実の珠玉は、日常を越え、あの高みに踏み入れた庭先での素足の跡が、まさに心のなかにみえた光と影のヴィジョンに他ならないからである。
※「生まれつつある映像」西嶋憲生著 146Pから引用・文彩社

山崎コメント
vol17 1994 3 映像の錬金術
 ベテラン映像作家の居田伊佐雄のプログラム。全35本の作品の中から作家みずから選択して組んでもらった。初期のフレーム単位で構成された構造映画や、多くの機会に上映されてきた『オランダ人の写真』のような写真を使った実験映画から、近作の自然を対象とした映画まで、おおまかに流れを辿るプログラム構成になっている。
「オランダ人の写真」 居田伊佐雄 1976 16mm  7分
「Far from the explosive form of fruit」居田伊佐雄 1972 8mm  8分
「子午線通過」 居田伊佐雄 1977 16mm  5分
「マリリン・マクダリーン」 居田伊佐雄 1972 8mm  9分
「気流」 居田伊佐雄 1975 16mm 15分
「鉱物学者」 居田伊佐雄 1977 8mm 13分
「満潮」 居田伊佐雄 1981 16mm  7分
「エコー」 居田伊佐雄 1982 16mm  9分
「星の巣」 居田伊佐雄 1987 16mm 15分
「大きな石小さな夜」 居田伊佐雄 1991 8mm 13分
 はっきりとした境目ではないけれど『エコー』あたりだろうか、一言で自然と言ってしまったが、雲の流れとか、小さな生き物とか、鉱物、ガラスの破片、水滴など、具体的な事物が撮影の対象となってきている。コマ単位の動きの計算によってもたらされたセンス・オヴ・ワンダーの実験から、自然現象の中に遍在する動きを取り込んだセンス・オヴ・ワンダーへの移行。どちらの底に流れているのも、ゆったりと穏やかなユーモアの感覚だ。皮層的にしか映画を見れない想像力の不自由な人は、近作を「自然賛歌だ」と勘違いするだろうが、断じてこれはNHK的な山川地蔵映画の類いではない。なぜならば、ここには「夢のリズム」とでも言うしかない運動が仕込まれているからだ。