チラシ裏文章
「もっとしたたかなアヴァンギャルドのために」山崎幹夫
 アヴァンギャルドなんて、ずいぶんと高慢ちきなコトバであるような気がしていた。これはたぶん《前衛》なんていう変な訳語を当てたからだろう。
 でも、これを語の本来の意味である「既成の概念をぶち壊すこと」ととらえれば、あいまいはあいまいなのだけれど、ちっとばかしは感じがよくなる。
 今回集めた4作家の6作品の映像は、どれも実験映画とか個人映画とかカンフー映画とか銀河画報社映画とかの枠組みを取り込みつつ、その枠じたいをぶちこわすような凶暴さをこころざした映画なのだ。
 血がドバーッと吹き出すだけがヴァイオレンスではないように、時代の先端であるからアヴァンギャルドなのではない、と思う。大切なのは、そこに従来の堅いアタマと閉じたジャンルを解きほぐす手がかりが内蔵されているかどうかなのだ。
 松井絵理世の『STRAWBERRY DREAM』は、個人映画的に撮り溜められた映像を、極端な再撮影をかけることで解体しようとしている。個人の見た世界をほどよくはしょって(編集して)提出しようというのでなく、作家個人の内部でさらにまた複雑骨折させようという試みなのだ、と僕は解釈する。私小説的な袋小路に入りかけている「個人映画」というジャンルが、もうひとつ脱皮するためのけっこう重要な手がかりがここにある。
 野畑貴夫の『紅色夢幻』は銀河画報社の全面協力による作品。山田勇男も美術を担当。撮影は『銀河鉄道の夜』の阿部崇文。湊谷夢吉も出演している。銀河画報社映画ファンは必見の作品なのだが、それだけではない。この映画は新東宝緊縛映画とか、鈴木清順映画とかを志向しているということは一目瞭然なのだけれど、とりわけ感じるのは銀河画報社映画=山田勇男作品へのなみなみならぬ意識だ。当時、PFFで連続入選していた山田勇男作品の猿真似映画がけっこうあったものだけれど、これはスタッフごと銀河画報社を取り込んだうえで、山田勇男や湊谷夢吉にはない資質を開花させようとした試みなのだ。
 小池照男の『生態系−6−菌糸類』は、純然たる実験映画である。菌糸ともロープとも見える何かが、物凄いスピードで画面のなかを跳ね回る。セリフもドラマも人間さえいない世界だ。音さえついていない。そんなストイックな映像にみなぎっているのは、純化された「センス・オブ・ワンダー」の意思である。あの、映画創世期の、こちらに向かってくる汽車の映像に、思わず逃げようとしてしまった頃のような、まぎれもなく映像だけが実現しうる驚きの感覚なのだ。こぎれいな映像手品や、その場しのぎ的チカチカや、技だけ見せればそれでよしという風潮の蔓延している実験映画への鉄槌であるとも言える。のめり込んで観ればナチュラル・ハイ。至福の映画である。
 藤原章の3本はなんと8ミリのシネスコ映画である。それだけでも凄いのだが、もちろんそれだけではない。僕の編著した『大ヤクザ映画読本』でもヴァイオレンス映画を担う期待の若手として絶賛した男なのだ。今回の3本はその初期作品である。カンフー映画スタイルの8ミリ映画は当時けっこう存在したのだけれど、藤原のこれらの作品は、すでにカンフーアクションのジャンルを飛び越えている。悩むよりも行動すること。これが映画の基本だ。肉体でこのことを知っている藤原の映画には『ゆきゆきて神軍』の映画的興奮とまるで同質の痛快さがある。

山崎コメント
vol16 1994 2 アヴァンギャルド雑炊
 上映したい作品があれこれあって、とくにトータルなまとめかたを考えずに組んでみたプログラム。だから「雑炊」というわけ。
「STRAWBERRY DREAM」 松井エリセ 1992 8mm 12分☆
 北海道出身の松井エリセは映像通り魔のもとメンバー。この作品はVIEWフェス軽井沢でのワタシのキュレーションのプログラムで上映された作品。電車の中で眠る人々を執拗に撮るシーンや、指のやけどの水ぶくれを針で刺すシーンなどのイメージ映像で綴られる。ほとんどはサイレントで押し通し、しかもピンボケや再撮映像を好む松井エリセの特異な感性は常々「この人は物凄い映像作品を撮るだろう」と期待させるものがある。ワタシは第一作から観ているが、そして彼女は寡作であるが、一作品ごとにその「他の誰でもない」感覚を映像に定着することができるようになってきている。本誌大谷編集長の言うような「弟子」ではないが、かつて映像通り魔内部で「映像講座」を開いた時にいたのが栗栖さとみと松井エリセだった。栗栖さとみはもう映像をつくっていないようだが、そういう意味でも松井エリセに期待するワタシである。
「紅色夢幻」 野畑貴夫 1981 8mm 33分☆
 チマタでは「銀河画報社映画倶楽部」の作品というと山田勇男と湊谷夢吉の共同演出作品というイメージがあるが、その銀河画報社が全面協力し、山田が美術、湊谷が出演した作品がこれ。撮影も『銀河鉄道の夜』の阿部が担当している。監督の野畑は北大の歯学部の学生で、山田映画では効果音楽を担当したりしている人。大正ロマンの匂いがフンプンと漂うなかでのソフトSMチックな映画。正直言って銀河画報社映画マニア以外にはオススメできない。
「生態系6 菌糸類」 小池照男 1986 8mm 21分
 いわゆるチカチカ映画のほとんどは退屈なものだが、小池さんの作品は別格。画面を観ているだけで幻覚を見せてくれる。これは凄い。タイトルどおり菌糸類のように見えるからみ合ったロープ状のもののスチール写真が、パタパタとコマ撮り状態であらわれるだけなのだが、観ているうちにまったく別のものが見えてきたりして、これはもうクスリや葉っぱやキノコの要らないハイの状態にしてくれる。幸運にして精神状態がGOODな時に観ると、あくまでもワタシの場合だが、ハリウッドで100億円の製作費を投入した作品に負けない大スペクタクル映画が見えてくるのだ。作者の小池さんにとってこういう観かたは本意ではないかもしれないが、ともあれワタシはおおいに楽しくふりまわされた映画体験をしたのだった。
「善悪混乱時代」 藤原章 1981 8mm  5分
「超人」 藤原章 1982 8mm 15分
「昆虫観察日記」 藤原章 1983 8mm 12分
 藤原章はアングラではない。疑似アングラ。定義がムズいが、アングラ入門志願の例えばガロ愛読少女などにとってはアングラと誤解されやすい。それでもブレイクすればいいわけだが、なぜかさっぱりブレイクしない。時代の基調はどうやらまだまだ健全な路線を取るのだろうか。
 藤原は単に映画の女神さまに祝福されてしまった不幸な天才のひとりなのだ。映画の女神さま、その中でもとりわけシネスコの女神さまに…。そう、この3作品は8mmフィルムによるシネスコの映画なのだ。藤原の特異性はここに発揮される。スタンダードの画面よりも、彼の映画はシネスコの画面で生き生きとする。彼の頭の中に展開される理想の映画は、常にシネスコのサイズでで夢想されるのだろう。これは、とてつもなく不幸なことかもしれない。で、出発点はブルース・リー。つまりカンフー映画だ。いったい今までにどれだけのカンフー8mm映画が日本では生産されたことだろう。ちょうど8mm映画の全盛期が、カンフー映画の全盛期と重なる。70年代末から80年代初頭のはなしだ。高校の学園祭で、クラスの出し物として8mm映画が盛んに生産されていた頃のこと。クラスにひとりはいた「うちのクラスのブルース・リー」を主演として、いったい何本のカンフー8mm映画が生産されたのだろう。藤原の映画もそこらへんから出発している。8mmフィルムとカンフー映画と藤原章の幸福な三位一体があったわけだ。