14 夏の部分
 暗い光の泡が右から左へ、ゆっくりと流れていく。夕陽が水平線に消えようとしている。ある夏の風景。波がゆっくり流れていく。水面に陽が反射する。切り取ったままで忘れていた、ある夏の部分。子供が白く輝きながら、波打際で踊っている。歪んだ輪郭に表情は消され、はね上げられた水飛沫が足下で、水晶のように舞っている。
 引き伸ばされた時間の中、太陽はまだ沈みきれずに、じっとしている。少女は浅い波の中、刻まれることのないフォクストロットを刻み続けている。
 部屋が冷えはじめる。映写ランプの温もりだけが、夏の大気の名残りのようだ。いつか少女は海から上がり、静かにこっちを見つめている。彼女はゆっくり手を上げて、どこか遠い場所を指さしていた。
 外は雨が降っている。冷気の中、見えるはずのないものまでが、視界の中に浮かんでくる。部屋の中の夏は、もうどこにも見当らない。暗い波も、海の端に引っかかった太陽も、踊る少女の姿も、秋の夕闇の中に呑み込まれていった。掌の中の温もりもまた、ゆっくりと。秋の夕暮れ。感情の針が大きく揺れる、冷たく透明な時間帯のこと。
(1997・11)

15 翼の内側
 楓、だろうか。水面の一点で雨の匂いをたてる流木。鳥、だろうか。海を撫でながら黒く尖った小さな影がその一点へ、走る。開いた頁に隠されて砂浜が見えない。鳥は舞い上がり降下する。遠い山にあるのだろうその巣へ誰かを連れ去る訓練にいそしむ。これは雨、だろうか。空から落ちてきたたった一粒の水滴は。開いた物語の上をのろまな流れ星のようにゆっくりと落ちてゆく。落ちながら水滴はある言葉を削り、ある言葉を逆転させ、またある言葉を反復していく。やがて物語は水滴に導かれるようにハッピーエンドから悲しく陰鬱な幕切れへその結末を反転させる。鳥は上昇を続け太陽に溶けていく。僕は目をそらし海の向こうを見つめる。濛気に煙る半島で、何かが割れる音がした。太陽を溶かし、いつもの夜空をもうひとつ濃くしたような夜が現れた。雨の匂いに満たされた。砂の上に寝そべった。別の空には星が光った。目を閉じた。鳥が誰を連れ去るために舞い戻ってきたのか、僕にはわかった。
 そういうわけで、僕の真上の夜空はいつも、翼をひろげた鳥のかたちをしている。
(1998・1)

16 唄
 水を掬うように掌を組み、小さな闇を作る。イメージしよう。暗闇に浮かんだ一本の銀色の線を。宇宙船と飛行士を結ぶワイヤーのような、母親と胎児を結ぶへその緒のようなその線は、やがて緩やかな風に、吹かれ始める。

 苛立ちに耐えられず目を覚まし、両手で顔を擦ってみた。殺伐とした気分を唄い始める。使い捨ての唄。この唄にはまだ、メロディが無い。

 銀色の線は揺れ続けた。僕の吐息に合わせて波打つように、あるいは小刻みに。銀色のリズムは吐息と伴走し続ける。まぶたの裏がチクチク痛む。組んだ掌が痺れている。そうしてメロディが生まれて、僕は少し笑う。もう大丈夫だ。もう腹も立たない。もう忘れた。唄は終わりに近づいている。もう大丈夫だ、ともう一度言って、組んだ両手をゆっくりほどく。洗面台の蛇口から水が一滴落ちた時、鼻唄は転調しながら消えていった。僕はほどいた手を眺め、苛立ちと唄の跡に生まれた柔らかい感情を見つめる。
 その感情にはまだ、名前が無い。
(1998・3)

17 今夜を渡って
 聞こえているのに聞こえない。半醒の意識の中で息を継ぐ。漏らした寝言の断片は信号で、頭の骨を軽くノックする。ブラウン管の点滅に瞬きがシンクロを始めると、もう眠りはすぐ近くだ。野晒しのドラム缶に風が吹き込み絡み合い、糸のように固く結ばれるとそれはもうどこへも動かない。
 最後に眠るどこかの誰かが明かりを消して、ひとつパチンと手を叩く。季節の終わり、の始まり。例えば幼児の目の高さ、地上からそう高くない場所に、役目を終えて光が集う。光の帯はスピードをつけて街を過ぎ、海へと流れていく。やがて朝。最初に起きたどこかの誰かが窓を開け、またひとつパチンと手を叩けば、それで儀式は終わり。僕はまだ寝てるだろう。夜明けの景色の中、図らずも逃げ遅れてしまった光たちは再び街へ戻り、接触不良の街灯にその身を潜め、弱々しい光を助けながら、暮らす。次のチャンスを待ちながら…。見えない場所で始まって終わった、ささやかな移動について。

 疑わなかった今夜は、きっといつもより深く眠れるだろう。
(1998・5)

18 夜の瓶の底
 夜から、ゼラチン質の真っ黒い夜の至る所から、硬い雨粒が落ちてくる。
 見上げていると、海の底にいるみたいだ。揺れるビニールの波と、雨粒と、弱いオレンジの灯の中で、小さな虹が生まれて消える。見えない空をなぞるように、僕の指はゆっくり弧を描く。指先が血で濡れている。右…、左…、その繰り返し。放射状に拡がる蜘蛛の巣で、一匹の蛾が死んでいる。硬直した体を掌に包み、僕は灯の方へと歩いていく。時間がないのはわかっていた。光が弱々しく瞬いて、地面に落ちた影を歪ませる。乾かない指先の傷が、痛い。壊れてしまわないようにゆっくりと、僕はその蛾を光の寝台に横たえた。崩れかけのこのビニールハウスの中を、腐り始めた苺の甘く重たい匂いが満たしていた。瞬く電球の熱の中、蛾の体液がいま、霊魂のように蒸発しながら昇っていく。夜が、柔らかく暗い夜の全身が震え、すぐに何も見えなくなった。手探りで外へ這い出すと、乾いた銀色の景色が拡がっていた。ビニールハウスの内で雨が降り出す音がした。ここは町の北はずれだが、今夜は不思議と温かい。傷の乾いた指先で、鱗粉の指輪が輝き始めた。
(1998・7)

19 降る虹
 軽く目を閉じ、目前の風景をマスクする。頭上で聞こえるパーカッションは際限なく、小刻みに、震えるように。湖上のプラットホーム。まばらな乗客、古びたワゴン、穴の開いたシート。目をつむり、すえた匂いの中に横たわり、耳を澄ます。何百人もの侏儒達が頭の上を駆け廻る、血の流れのような、知らない国の歌のような、音。
 それは空から激しく吹きつける、色の、片。
 汽笛と共に目を開き、少し蒼ざめた世界を見る。色が、無数の色が降りしきり、水へと溶けていく。水面に映った、もう一台の列車が柔らかく歪みながら走り出す。窓の外へ顔を出し、僕は見る。陽光に崩れていく巨大な虹と、湖に降り続く色の粒を…。
 突風に吹かれた書きかけの日記が、まだ訪れない日付をめくり続ける。
 僕はといえば、窓を閉めようと慌てた拍子に、溶け残った虹の破片で指を切っている。
 鏡の中、走り去っていく列車の中で、誰かがこっちを見て笑ったような気がした。
(1998・9)

20 月の出、静の海
 嵐が過ぎた日の、ひどい夕暮れだった。強い風に色が散らされ、所々で濁っていた。僕は影を伸びるにまかせ、もう一度煙草に火をつけた。言わずにおいて忘れた言葉が、肺から逃げ出し、消えていく。遠い国から来た空き瓶達が静かに擦れあい、時間と距離にはつわる悲しい響きをたてている。波打際で傾いた、止まったままの砂時計。影が静かに指さす場所。壊れた天蓋の中、過去、未来、そして現在が重なり合って、白く沈黙している場所。影は消えたがっていた。潮は満ちたがっていた。砂は流れたがっていた。冷たく柔らかな刻の砂の底で眠る、名前も知らない小さな桃色の貝。拾い上げれば時間がこぼれ、時計の外へと逃げていく。再び刻が流れ始めた。夜が動きだした。影は夜へ滲んで消え、刻の砂は浜辺へ帰り、もう見えない。
 透明な時の器の中へ、昏い海が満ちてくる。足元を濡らす満ち潮に、海の冷たさを確かめる。僕は掌の貝に名前をつけて、忘れないように呟いた。それは遠い思い出にちなんだ、少し言いづらい名前だった。
(1998・11)

21 おわかれの呪文
 今、目の前にある闇の色、闇の中にあるあらゆる黒の名前を、僕は知らずに来てしまった。言葉が足りない。
 僕には言葉が足りない。
 欠けた月が創る青白くいびつな円錐の中、僕は手紙を書いている。黒い鏡のような湖の水で、手紙を書いている。「さよなら」の言葉から始まって、筆は行き場を失くしてしまった。僕には、言葉が足りない。雲が溶けて落ちていく。欠けた月が細くなる。時間がない。書けない言葉の空白を、月の光でごまかした。感情だけが光に溶けて、青白い紙面に染みていく。僕は最後の句点を打った。蜘蛛の巣の真ん中に手紙を掲げた。いつか誰かが月の下、この虫食いだらけの手紙を読むだろう。今夜みたいな月光にあぶり出された、僕の感情を知るだろう。文字にできなかった、この、わかれの呪文を。

 夜の肌を爪で引っかいたように、彗星がひとつ、落ちていく。傷口から生まれるもうひとつの、闇。
 冬の湖上に訪れた、二回目の夜。
(1999・1)

22 溶景
 大昔に吐き捨てられた幾千もの愚痴の群れが世界の冬という冬を渡り目の前の水辺で羽根を休めている。
 不自然に鋭角的な風景。立ち枯れた葦の林とガラクタの中、揺れながら眠る蜘蛛がいて、昼下がりの退屈と日曜日の沈黙の中、その巣にからめ取られた南回りのヒコーキ雲が間抜けにぶら下がっている。真夜中の雪は浅い川底に降り積もり、溶けることなく水温を下げ続ける。何かに導かれるように僕は手を伸ばす。昏い蒼空の向こうの、不可視の雪原に。揚力を失くしたヒコーキ雲が、糸と糸の間をこぼれて落ちた。光の悪戯で引き伸ばされた指が新雪に触れ、ゆっくりと円を描き始める。水辺に立ち上がる言葉たちの気配。
 結晶が燃え上がる。マグネシウムのような音を立て、光が水面へ駆け昇るのが見える。激しく水を叩くざわめきと、泡ぶく光の澱と明滅する激しい白と…。そうしてもう一つの太陽が投げつける波紋の上、言葉の群れが羽音だけ残し、次の冬へと消えていく。
 僕は寒さの終わりを感じながら、瞼に残った光の疵が消えるのを立ったままじっと待っていた。
(1999・3)

23 北を目指す群れ
 べつに思い出す必要のない後悔をわざわざ思い出してみる。そんな昏い想念で、町内にバリアを張ってみる。
 つく必要のない悪意の嘘をついて、相手の顔と三日ぶりの青い空を曇らせてみる。見てもいない夢の絵を描いて、おまけにタイトルまでつけてみる。
 弾けもしない楽器を弾いて、その気もないのに悦に入ってみる。
 滑走路に咲いた花の列が、絶え間のない熱の噴射で奇妙な色に開いている。飛行場脇の草むらから、最初の一匹が飛び立つ。僕は見ていた。冬の地表が抱えこんでいたあらゆる〃負〃の群れが、北を目指して羽ばたくのを。
 町は見ていた。きらめく光の柱が、人々の頭の上をゆっくりと渡るのを。
 僕は呟いた。あの光の一粒一粒が、あなたたちが忘れたふりをしてきた〃負〃そのものなんだよ、と。その指先の果てにある北限と、鈍い青の中浮かぶ流氷を想え、澄んで輝く無数の〃負〃を想え、と。
 春が運ぶじゃまな暖かさに身を震わせて、僕は冷たく硬い季節に、する気もないお別れを込めて、手を振った。
(1999・5)

24 ある、方法。
 もう一度、夜の闇の中から、やり直そうと思った。
 色という色のとり散らかったパレット、するはずのない花の匂いに顔をしかめる。幾層にも重なった記憶が、日射しに溶け始めている。思い出せない、描きかけていたはずの、何かが。
 僕はもう一度、やり直そうと思った。最後のチューブから絞り出される、黒。昼下がりの浜辺で夜の匂いを嗅ぐための、方法。記憶の断片を塗り潰していく、液体の夜。けたたましく烏が笑う。飛びながら、満ち始めた湾の内径を測りながら。陽光の中で目を閉じて、膝に広げた夜へと手を伸ばす。瞼の裏のシグナル、瞬くパターンの言いなりに、濡れた闇夜を削り取る。目を閉じたまま絵を描くための、方法。やがて訪れるだろう夜の景色を、誰よりも早く手に入れるための、方法。
 花の匂いを錯覚させた色の群れも今は、闇に沈み込み静かに瞬くだけ。月を浮かべた満ち潮に流されていく、描きたて夜を置き去りに、僕は掌に染み込んだ闇の中に雨の匂いを嗅いだ。
 それはまた、ささやかな予言を的中させるための、ある方法なのだ。
(1999・7)

25 あの場所へ
 あらかじめ、〃終り〃は決められていたのだ。多分。それからずっと、〃終り〃は頭上を舞い続けている。時折、肩に手を掛けるように近づいて、去っていく。僕は待つ。痛みと苦しみが通り過ぎるまでの間、じっとしたまま。
 あの場所へ、全ての〃終り〃が始まった零の地点へ、僕はもう一度行かなくてはならない。過去へ、過去へ、過去へ、そうやってただひたすら過去へと。精算とも後悔とも他人の言うこの旅を、黙ってひたすらあの場所へ…。照らす月もない時間軸のハイウェイを、あの柔らかい空気の壁に向って…。
ー古ぼけた一葉の写真。蜜の中に塗り込められたような風景の中、母に手を引かれて立っている僕がいる。じっと前を見て、挑発するように大きく舌を出し、笑っている。ー自分とともに育ちはじめた、〃終り〃の恐怖に向って。僕はもう一度戻らねばならない、と思った。あの、琥珀の中の虫の死骸のような風景の中に、歯のない口で舌を出して笑う自分の笑顔に、黒く深い〃終り〃の予感と対決できる秘密があるなら。
(1999・9)

26 その唄が終わったら
 思い違いと嘲笑と、去年の冬の痛い空気と。名前も知らない北の星と、小さく震える窓の夜露と。胃袋を満たした遠い海岸の夕焼けと、夜の森を渡る蜘蛛の糸と。夏の妄想の中でしか咲くことのできなかった食虫花と、街を包んだ鳥の影と。消えてしまった未来の事と、起こらなかった過去の思い出と。みんな、もう、おしまい。
 列車は小舟。ミルクの上に敷かれた軌道。今ではもう、遠い風のエコーですら目の前にはっきりと見える。長旅の終点には、いつも既視感が待っている。手に入れた秘密もいつの間にか、鞄の中から逃げ出してしまった。忘れた言葉、言わなかった言葉。それももう、おしまい。飲み差しの小瓶が肘掛けの上で踊るのが、最後の合図。見上げれば、月。白い地平に撒き散らした影を集めて、僕は最後の言葉、お別れの一文を書いています。たったひとつの唄さえ満足に歌えなかった僕を、鴉がまた咎めるけれど、それももう、おしまい。夜が明けようとしている。プラットホームに一人立ち、木の枝で天を指せば、またあの月に届きそうなのに…。
「月はまだ、柔らかいだろうか?」
(1999・11)