コラム「缶コーヒーを集め始めた頃」

缶コーヒーの出てくる夢をたまに見ることがあります。とても残念なことに、ワタシ、エッチな夢はあまり見ないのです。見るのは、路地とか映画館とか廃墟とか古道具屋とかが舞台で、そこで見たことのない缶コーヒー、映画、8ミリカメラや映写機に出会うのです。これはいったい何なんだ。何だ俺という人間は、と、目が覚めてからちょっとだけ思います。セクシー女が「うっふん」とお色気光線を発射しているよりも、こんなグッズに出会って「ひゃー、こんなものが、こんなところに」と歓喜にうち震えている方が快楽なのだろうか、俺は、と思ってしまうわけです。

こんなふうな、夢にまであらわれる「こだわり」を、心理学用語ではコンプレックスと言います。コンプレックスというと「劣等感」と同義だと誤解している人が多いかと思いますが、じっさいはもっと広い意味を持っていて、日本語にすると「感情のしこり」といった程度の用語なのです。ワタシは缶コーヒーとか、8ミリ機材とか、路地とか、廃墟とかについて、なぜか「感情のしこり」が形成されているようです。では、それはどうしてそうなったのか、我がことながら興味をそそられます。このWebSite全体が、ワタシの「感情のしこり」をブチまけている場になっているのです。

この文をアップするのは「レトロ缶コーヒー」の項目ですから、缶コーヒーについてわが「感情のしこり」をさぐっていってみましょうか。まずは「缶コーヒーの登場する夢」が、どんな感じのものなのかを記述しましょう。

夢の中で私は、高校生か中学生です。見知らぬ路地をうろついています。「東京いい路地、ソソる路地」の写真のような路地だと思ってください。すると自販機に出くわします。メーカーのロゴが入っているような、今ふうの自販機ではなく、無骨なかんじの昔の自販機です。近付いてウインドウを見ると、まったく知らない缶飲料が並んでいます。「おや、まあ」と心の中でついぶやいて、コインを投入すべく、そわそわと財布を取り出す私。

私は東京の郊外で生まれ、育ちました。高校は家から8キロほど離れていて、駅から遠かったので、自転車通学をしていました。授業が終わると速攻で帰るという、いわゆる「帰宅部」。でも、まっすぐに帰るのもつまらないから、毎日、できるだけ異なったルートをたどって帰るようになりました。のっぺりと広がる、どこを切り取っても特徴のない東京郊外の風景です。何かおもしろいもの、強烈にうち震えるようなものに出会う可能性はありません。それでも切実に、何かを求めていました。何を求めているのか、自分でもよくわからないけれど、待っていても何も起こらない。だからとりあえず、うろつき尽くしてやろう、という気分でした。

そうしてうろつく私の眼に、自販機とそこで売られている缶飲料が飛び込んできたのです。ちょうど70年代後半は、自販機が雨後のタケノコのように街のあちこちに設置されていった時期です。今のように、いくつかの大手メーカーばかりの状態ではなく、聞いたことのないようなメーカーが缶飲料を次々と販売していました。どのジャンルでも創成期は活気があるものでしょうけれど、缶飲料、とりわけ缶コーヒーについては、この時期が一番おもしろかったのではないかと思います。作る方も、見つけて飲む方も。

学校の帰り道だから、いくら帰宅部だと言っても、冬はすぐに日が暮れていきます。「俺はこれからどういうふうに生きていくんだろう」。ちょっとばかり切ない気分に覆われていました。どこでもいいから、この世界から別の場所に行きたい。今、眼の前に別世界への扉が出現したら、俺は迷わず飛び込むだろうなあ。そんなことを考えながら、暮れて行く住宅街を、かったるく自転車を走らせていました。

たぶん、そんな時なんでしょう。ぽつんと設置してある自販機の、明かりのついている商品ウインドウが、いやに魅力的に見えたのです。例えて言うと、ドールハウスみたいなものでしょうか。聞いたことのないメーカーの、見たことのない缶コーヒーが、なぜか「自分のしらない、もうひとつの別の世界」を激しく求める気分と重なりあったのです。

うんざりさせる東京郊外の風景のなかに、穿たれた小さな窓。自販機の商品ウインドウが、そんなふうに見えたのだと思います。鬱屈とした高校生の私にとって、それは「出口へのてがかり」のようなものだったのかもしれません。それで、缶コーヒーをいくつか買ってきて、空き缶を部屋に並べてみました。それは密かに切り取って来た、別の世界の風景を記録したポストカードのようにも見えました。

のっぺりした東京郊外の風景の中に自分が否応なく貼り込まれているのでなく、リンク集のどこかをクリックすると即座にどこか別のサイトに飛ぶことができるように、自分がさまようこの街には、しかとは見えないけれど、もっと多くの世界が組み込まれているのだと思うようになりました。

以上のようなことが、私が缶コーヒーについて持っている「感情のしこり」です。その魔術的ななにものかは、ずいぶん前に消え失せてしまい、もう積極的に缶コーヒーを集めることはしていません。流通経路が整備され、街をあてどなく歩いても、見知らぬ缶コーヒーに出会うことがそれほどなくなってしまった時点で、その魔法のようなものは消え失せてしまったのでしょう。