19950117 (2001,10,6) |
1995年1月15日、わたしは劇団の公演で神戸の三宮にいた。 その時上演していたのは子供のためのミュージカルだったので、客席はもちろん子供ばかり。それも小学校低学年くらい。舞台が始まるまでのうるさいことうるさいこと・・・。子供に落ち着きがないのは当たり前のことなのだが、いつも幕が上がるまではドキドキしていたような気がする。”誰も見てくれなかったらどうしよう” ”喜んでくれなかったらどうしよう”と。子供は正直だ。つまらないときは騒ぐが寝るかのどちらか。出て行ってしまうという最悪なパターンもある。だから、子供が夢中になってくれたときは、それだけで嬉しい。 舞台を終えて、移動中のタクシーの中で運転手のおっちゃんと、ちょっとだけ神戸の話しをした。おっちゃん曰く、「今度観光に来たときには、絶対六甲山からの夜景を見たほうがいいよ(と、関西弁で)」と言うことらしい。 その夜行った串焼き屋さんの兄ちゃんが、次来た時用にとサービス券をくれた。そのときの神戸の印象は、月並みな旅公演の一幕といったとこだろうか。普通ならば、月日がたてば風化してしまうような、そんな記憶だったはずである。 だが、その2日後の1995年1月17日早朝、月並みな旅公演の一幕を、一生忘れられない記憶に変えるような出来事が起こった。阪神大震災である。 パジャマのまま見たテレビに映し出された三宮の風景は、2日前に見た風景とはまるで変わってしまっていた。何気なく、「あ〜このパフェおいしそう」と指差した喫茶店のウィンドウは、ガラスが割れ、2階に押し潰され、ひしゃげてしまっている。宿泊したホテルがあった通りは、電柱が道をふさぎ、ビルが傾き、コンクリートの地面が盛り上がってしまっている。あれからたった2日しか経っていないのに、神戸はすっかり変わってしまった。いや、一瞬にして変わってしまった。 当然、死傷者も出ているはずである。その死傷者の中に、あの子供たちも含まれているのだろうか?あのタクシーの運転手のおっちゃんも、串焼き屋さんのお兄ちゃんも。 毎日、ニュースを見ながらも、わたしはなにもできなかった。なにかに呼びかけることも、ボランティアに参加することも。できたのはせいぜい、コンビニのレジの横に置いてある募金箱に、おつりの10円を入れることぐらいだった。 だけど気になって、ただテレビを見ていた。毎日のようにニュースを見て、記憶の中の神戸と、テレビの中の神戸を見比べていた。そして、当たり前のように聞いていた子供たちの歓声と、タクシーのおっちゃんの話を聞いていた。使うことができなくなったサービス券を眺めた。そのうちに、テレビから神戸の話題は消え、日々の事件に変わっていった。 やがてわたしも、日々の雑事に終われ、テレビのニュースのように神戸のことを頭の片隅に追いやっていった。言い訳のようだが、決して忘れたわけではない。古傷のように、いつもは気にならないはずなのに、何かの拍子にふと疼くような、神戸はそんな存在だった。 いつしかわたしは、神戸に行こうと思い始めた。わたしが行ったからといって、神戸のなにが変わるわけではない。変わるどころか、神戸はわたしの知らないところで着実に復興している。だけど、わたしの中の神戸への思いは膨らむ一方だった。 そして先日、6年半の歳月を経て、わたしはやっと神戸へたどり着いた。 もともと、漠然とした思いだけで大した目的があるわけではないし、このこととはまったく関係ない友人といったので、スケジュール的には普通の観光をするつもりでいた。だけど、やっぱり”神戸の夜景”は見たかった。ミュージカルを上演した劇場も、宿泊したホテルの場所も、串焼き屋さんの場所もまったく覚えていなかったから、せめてあの運転手のおっちゃんの言葉だけは、と密かに思っていたのだ。 六甲山の展望台に、レンタカーを借りて登った。午前中から車でウロウロしていたので、夕方にはやる事がなくなって展望台に着いてしまった。観光客はまだ、わたしたちとカップルが一組しかいなくて、景色は夕焼けだった。しばらくすると、ポッとネオンが灯りはじめる。まだ明るいのでそのネオンはさほど目立ちはしない。だが、時間が経つにつれ、着実にネオンは増え、ゆっくり陽は沈んでゆく。 1時間後、眼下は光の海に変わった。遠くから流れる光の列は、車の流れ。ひときは輝く光の群れは、街の中心地。海と空の境目はすっかり闇の中に吸い込まれて、あのおっちゃんの言う”六甲山からの夜景”が広がった。わたしは心の中で、「おっちゃん、忘れてないでー」とつぶやいた。 わたしの勝手な供養。こんなことしかできない自分が、なんだかとても悲しい。 NEXT→ |
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