□稽古?回目〜神戸から帰って 2003.4.30 豊島区内某所

もういい加減、何回目の稽古か、数えるのが面倒になってきたので、次回からタイトルを変えます。
そう、何回目かわからなくなるくらい稽古してるんだなあ・・・。時間が経つのは早い。

ところで、神戸からみんなが帰ってきて、何かが変わったのか、それとも何も変わっていないのか。その結果はまだここに書いてなかった。
第一印象は、確かに変わった。
まず、ケーちゃんの関西弁が変わった。もちろん良い方に。大阪出身のわりに、しっかり標準語を話していた数日前とは確実に違う。すっかり関西の人に逆戻り。
そしてみんなの台詞が変わった。ちゃんと受け答えできている。なーんて書くと、芝居やってる人にしてみれば、「そんなの当たり前だよ」と、バカにされそうだが、これはやってみた人でないとわからない。わたしはやってないけど、見てればわかる。散々ここでも書いたが、みんな目が死んでるんだから。
だからちょっと、台詞に色が出てきた。これでわたしの稽古見学は、格段に楽しくなった。
だけどそれが、旅行にいった事で仲良くなったからなのか、それとも、震災の現地に行っていろんなものを見て、聞いてきた結果なのか、わたしには分かりかねていた。

そして今日、稽古帰りにいつものように飲みに行った。そして、神戸に行ったときの話を聞いた。
神戸の防災センターで、地震の体験をしたり、ビデオを見たりしたらしい。
ビテオの内容は具体的には聞かなかったが、震災経験者のワタルは、気分が悪くなって途中で退席したようだ。その他のメンバーも、見終えた後しばらくは、声が出なかったそうだ。フーちゃんは「本当に俺が演じていいのか」と思った、とも言っていた。

わたしは以前書いたエッセイでも言ったが、震災の2日前に神戸に居た。それは本当に偶然で、子供のミュージカルに出演していて、たまたま行った先が三宮だったのだ。帰って2日後にテレビで神戸を見た時の衝撃はいまだに忘れない。神戸の街で、何気なく出会ったタクシーの運転手さんや、飲み屋のお兄さんの顔、何よりミュージカルを楽しそうに見ていた子供たちの笑顔が、まだ生々しく脳裏に浮かんだ。
あの子供たちの何人かは、亡くなっているだろう。震災の中心地ともいえる三宮の、何千人という子供たちだ。
それを信じる信じないに関わらず、それが現実だと言わんばかりにテレビは告げていたから。

わたしはたまたま、東京にいながら震災を、微かに・・・そう、神戸の人からすれば微かに感じる状況にあった。だけど、普通に生活する東京の人はどうだったのだろう。
多分、今、わたしたちが”戦争は大変だ”と、心のどこかで思っているように、”日本で起こらなきゃいいなあ”と思っているように、どこか遠くに感じていたかもしれない。テレビの映像はまさに”今”を映しているのに、ニューヨークのテロ事件を見ていたときのように、映画のように感じていたかもしれない。

フーちゃんは稽古の合間にずっと、”わからない”と言っていた。関西弁も、神戸の街も、そして何よりも震災がわからないと。
わたしは、それがとても正直な意見だと思う。大抵の人は”わからない”。大阪に行ったこともなく、友達が住んでるわけでもなく、特に大阪に興味がなかった東京の人にとっては、”わからない”。
それがみんな、神戸に行って”わかってしまった”ようだ。そう、”わかってしまった”。ちょっとだけ。
”わかる”と言うことは、とても衝撃的なことだ。想像していたことが現実に起こったときに、わたしたちはその現実の大きさにびっくりする。

芝居の話に戻る。
わたしは、稽古が変わった理由が、こうゆうことなのかと嬉しくもあり、”わかってしまった”みんなの表情を見て・・・う〜ん、なんだか複雑な気持ちだった。
わからなくても済まされるつらい出来事を、わざわざわかることは必要なのだろうか?と。


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