Contents(山登り・クライミング国内編)

 小豆島 Sさん、Yさん、Iさんらと 1986 

京都岳人クラブのおきて

一、 来る者は何人も心よく迎えるべし、去る者は心温かく送るべし。
一、 登山を行うときは、留守本部を決めて山行計画書を作り、入山届けを出すべし。
一、 下山後は速やかに留守本部に連絡すべし。
一、 全員山岳保険に加入するために、会費は滞納するなかれ。
一、 会計は使い込みをするべからず。
生活困窮したる時は一時的に借用しても良いが、収入のある時はただちに返還すべし。
一、 仲間が遭難したる時は、何を差し置いても救助に駆けつけるべし。
 
  以上、心すべし。

京都岳人クラブ 代表 須藤建志



ラカポシ南西面 宮川さん撮影

初めていった岩場は小豆島だった。

オリーブアイランドとして有名な小豆島には、3つの岩場がある。(あった?)
栂岳、吉田の岩場、および小豆島の仁寿峰。
ちょっとした船旅を味わえる、少し優雅なクライミングツアーだった。
浜辺で飲みながら、当時中堅会員だったYさんに会を盛り上げるべく叱咤激励していたことを覚えている。
中央が須藤さん、そしてイソさんと私。ラガーシャツが懐かしい。小豆島にて

初めていった山は、冬の錫杖だったろうか?
須藤さんとDちん、J子は、左方カンテへ。Kボンと僕は、1ルンゼへ。
大雪の中の敗退だった。
夜中の露天風呂で、パック酒を回しながら、ぬるめの湯で何時間も抜け出せなかったことも今は良い思い出である。

冬合宿と称してTさん、Aちゃんと4人で小窓尾根にもいった。
残念ながら、チンネは登れなかったけれど、いくつかのエピソードとともに楽しい山行だった。

震災の時は、全壊の実家まで駆けつけてくれた。
そのまま、湊川で炊き出しをするパキスタンの団体の手伝いに行ったのも今はもう古い記憶の中の出来事である。

1998年、秋の屏風で落石事故を起した時のこと。
掟通り、その日の夜中に直前に控えたミニヤコンガの遠征メンバの方々と本当に真っ先に駆けつけてくれた。
翌日には、台風の大雨の中、横尾までギアの回収にも付き合ってもらった。
あの日の出来事を僕は一生忘れないだろう。

山仲間の追悼集、追悼山行、山で行方不明になった元会員の捜索、海外登山の留守本部。
技術や知識でなく、山に登るための、山仲間を大切にする”意気”のようなものを僕は須藤さんから学んだ。


何度となく、岩場には行き、一緒に飲んだりはしたのだが、結局大きな山でロープを結ぶ機会はなかった。

アルムの館でのミーティングの後の飲み会では、よく山に誘われた。
「四川にいい岩峰があるんや、1ヶ月ほどで行かへんか?」
「ミニヤコンガの南西壁どうや?」
「ラカポシ、アルパインでいかへんか?」
「K2、クラブのメンバーで行こう。」
K2は、MIKくんと僕が東海支部隊で行く前の話だ。

高峰のアルパインスタイルと同じくらいクラブでの合宿や遠征もしたかったのではないかと思う。

「良ちゃん、Mさんとラカポシ偵察に行くし、留守本部頼むわ。なんかあったら、よろしく。」
そう言い残したまま、須藤の親父は帰らぬ人となった。


1年の歳月をかけて須藤さんの追悼集「生きて帰れ!!」は、出来上がった。
せっかく出していただいた一部の方の原稿の掲載がもれたり、色々と不手際もあったが、
仕事やダウラの準備で忙しい中での編集作業は思いの他ハードなものだったと記憶している。
その反面多くの方と知り合うことが出来、本当に良い体験をさせてもらった。


須藤さんの志を受け継いで・・・という気持ちも無くはなかったが、
いろいろ思い悩んだ末、2002年夏、僕は岳人クラブを去った。
良き親分と仲間に恵まれ、充実したクライミングライフだったと思うし、とても感謝している。

その後に行った四川の山旅では、大姑娘山のBCで須藤さんとも親しくしていたTさんやKさんと飲む機会があった。
飲みすぎでフラフラになって戻ったテントでの夢の中、須藤さんは、僕に黙って酒をついでくれた。
夢に出てくるなんて初めてのことだったし、何か、「良ちゃん、いろいろご苦労さん」と言ってくれたような、そんな気がした。

そして今夏、早7回忌を迎える。


2006.06.29 記