不動岩のころ


写真は、Tさんらが目指したガッシャブルムW峰西壁

大学に入学して、まもないとある水曜の夜、
関西クライマーズクラブのミーティング会場である太融寺に向かった。

なぜか、大学の弓道部やスキー同好会などにも見学にいったりしたが
やはり、クライミングがしてみたかった。

初めて行った岩場は不動岩。

当時の大阪のクライマーの心にふるさとといっても過言ではないだろう。
土曜の夜、0時前にJR宝塚駅でTさんと待ち合わせをし、
汽車!!に乗って、道場へと向かった。

夜道を歩くこと数分、川の土手には、数張のテントがすでに張られていた。
大阪のいくつかのクラブで作られた、SOS関西なる救助組織があり
関西岳人クラブや、凍稜会の面々が陣取っていたことを記憶している。

「18歳かあ〜、若いなあ〜、いいなあ〜」などとおだてられ
薦められるままにビールを飲み、
皆の話の聞き役となっていったものです。

翌日は、Tさんのレクチャを受け、ロープの結び方から、肩確保の方法
3点支持で登ること、登ったところは、降りれないといけない・・・なんてことを
教わりながら、西面から、不動岩の頂上?で山の話なんかを聴いた。

空の雲を見上げ、
「ヒマラヤに行けばなあ。あんな角度で、山がそびえてるんや。
努力して、がんばれば、山田も、いつか登れるときが来る」
「海外登山は、別に特別なものじゃない。普段の山登りの延長線上に
あるんや・・・」
みたいことを聞いたような気がする。

前年、副隊長として、G4西壁を目指したTさんは、
3人のメンバーをセラック崩壊による雪崩で亡くし、
骨折したもう一人のメンバーを下山させ、
事故処理をして帰国したという。

Tさんときびしいクライミングに行くことはなかった。
それでもTさんからは、多くの影響を受けたし、お世話になったと感謝している。

今、思えば古きよき時代であったと思う。

不動岩のてっぺんで見たあの雲の白さを、高さを
Tさんが遠い目で語った言葉とともに僕は今も覚えている。

2006年1月26日 記