Alps-あこがれのアルプスへ、いざ-

 18 Jul.〜 20 Aug.1989


シャモニ針峰群

 

ひょんなことから、アラスカ行きの計画ができあがったのだが、直前に中止・・・。
多くの山の本、先輩からの話。初めての海外登山はアルプスと決めていた。
たしかクラブの新年会の時にイソ太郎さんに誘われたのが始まりでなかったか。
体力的には、問題ないだろう。
技術的には、お互いフリークライミングで11台を2本以上登ることを課題とした。

GWには、奥鐘の中央ルンゼを頂上まで登り、穂高にはしごしたが、雨で滝谷は、登れず。
西穂のピークハントをして、上高地に下りた。
イソ太郎さんは、そのまま涸沢合宿に合流し僕は仕事のため、一足さきに帰った。
6月の梅雨の合間に唐幕の畠山と大凹角を登り、あとは出発を待つのみとなる。
やさしいルートでも早く登ることに主眼を置いてトレーニングを行った。
チケットの名前が間違っており、少々もめたが、期待に胸を膨らませて7月18日機上の人となった
バンコクでも、オーバーブッキングのため少々トラぶったあと、コペンハーゲン経由でチューリッヒに入る。
それにしても、荷物おせえなあ。
最初は、余裕だったが、だんだんと周りに人もいなくなり、少々あせる。
そして、とうとう、2人の荷物は、でてこなかった・・・。
Lost&Foundで散々文句をいうが、(言ったつもりだが、)都合に悪いことは、通じないフリ?をされ結局され、荷物は翌日届くことになったがホテルの宿泊費をせしめることは、できなかった。
その日は、思わぬチューリッヒ観光をする。
チューリッヒにて
7月20日で列車でローザンヌ、マルティニ経由でシャモニ入りする。
あいにくの曇り空の中、ドリュが見えたときには、感動を覚えた。
スケールこそ感じないものの、写真でしか見たことになかった、憧れの峰々が目前にあった。
ロジエールキャンプ場からドリュ
ロジエールのキャンプ場にテントを設営し、買い物に向かう。
お互い、初めての海外。すべてのことが、新鮮で面白い。
イソ太郎さんなどは、肉屋さんで、「ディス五百グラム」などとのたまっている。
あんたそれ日本語やがな。発音は、ちょっと英語っぽいけど・・・。
そして、その日の夕食は、5枚のステーキになったのだった。
もちろん、私の語学力もメクソ、ハナクソを笑う・・・なのである。
ミディロープウェイ駅にて キャンプ場よりドリュ
その後、天気がくずれ悶々とした日々をおくり、7月22日の午後ミディのロープウェイでバレブランシェに上がる。
今回の目標は、ミディ南壁とグランキャピサン東壁。
ミディ南壁 ミディ南壁
23日は夜半から、なんと雨となり遠くで雷の音が聞こえていた。
そしてガスの晴れはじめた、昼すぎに、レビュファルートに向かう。草付きのない、すっきりした岩場に感激しながら登るも、途中から雹が振り出し、恐れていた雷もなりだした。
見る見る雪がついていくなか、先を急ぐが、途中でルートをはずしてしまったようだ。
そのまま、エルブロンネル行きのロープウェイの入り口?にもぐりこむが、すでに19時近くになっており内側のカギはかかっているため、中には入れず止まっているゴンドラの中で眠ることになった。
ミディ南壁にて
いきなり、3800mでのクライミングは息もきれるし、おまけに登り始めたのも昼すぎで嵐につかまるという最悪に事態になってしまった。アルプスでは、条件のよいときにすばやく登らなくてはいけない。
それを学んだ、ミディでのクライミングだった。
モンブラン・ド・タキュル ジョラスをバックにイソ太郎さん
順応のため、26、27日でモンブランのピークハントに行き、休養かねて28日は、フレジェールからアンデックスへとハイキングに行った。結果的にこのとき続いた4日間の晴天が最も安定した期間となってしまった。多くの日本人クライマーが、このチャンスにジョラスやドリュに向かい成功を収めていた。
イソ太郎さん モンブラン頂上
その後、雪が降り、ドリュにもべったりと雪がついた。
8月2日、久々に晴れた。プラのボルダーに行く。明日からドリュにいくぞ。
8月3日、ボナティ稜を目指してシャルプア側から、コルを目指すが、たどり着けず、岩陰で途中ビバークする。
う〜ん。遅すぎるので、いったん降りることにする。
シャルプアへ シャルプア小屋にて
キャンプ場で知り合いになったS君がキャピサンに行かないかと誘いにくる。
わずかな晴天を利用して8月6日、エルブロンネルよりグランキャピサンに向かう。
IさんとSくんは、スイスルートへと向かった。
僕らは、オーソレミオに向かう。快適なクラックが続くが当然残置はない。やさしいとはいえ、さすがはMピオラのルートである。スラブのピッチにさしかかるが、遥か上にボルトが見えるが、ふんぎりがつかない。アルプスの赤い壁は、固いのだが、フリクションはあまりよくなく。情けないけど、スイスルートに逃げることにする。とたんに残置も増え快適な登攀となる。核心部のハング部分は、A0しまくりで超えていく。Iさん、Sくんペアも懸垂で降りていった。
終了点で硬い握手を交わし、そそくさと懸垂に移るが、クーロアールに降り立つピッチで、ロープがひっかかってしまった。
イソ太郎氏が登り返してくれ、回収する。
最終のロープウェイに間に合わず、またまた、ステーションビバークとなる。翌日は、ロープウェイが動かず、クールマイユール経由でシャモニに帰る。
ダンデジュアンをバックに バレブランシェよりドリュ、ベルト
グランキャピサン・スイスルートにて グランキャピサン全景
ロングルートを登れる天気は、しばらく期待できず、8月10日、気分転換にコスミックバットレスに行く。
50mロープなので、壁自体は3ピッチで抜けるが、コスミック山稜は、恐ろしく渋滞している。
あきらめてバレブランシェにいったん降りて登り返す。
楽しいクライミングだった。
コスミックバットレスにて コスミック山稜にて
いよいよ帰国日も近づいていたので、ダメもとで、ドリュアメリカンダイレクトに行くことにする。

8月12日午前中買出しをしていると、KCC時代の先輩にばったり会う。仕事でイギリスにきていたことは、知ってたけれどシャモニで会えるとは、感激である。
午後、グランモンテから、ロニオンにアプローチするが、ルートファインディングの悪い僕らは、迷いまくり、ロニオンにつたころには、どっと疲れていた。
13日、プラブーツにピッケル、アイゼンの詰まった重いザックを担ぎスタートする。
ほとんどのピッチで順番待ちもあったのだが、45mのデルファーを終えた僕らは、下降を考えていた。
当時の僕らの辞書には、荷揚げや、ユマーリングという言葉はなく。全装備を担いでトップもフォローもクライミングするのがあたり前だと思っていた。今なら、難しめのピッチは、荷揚げしたと思うが・・・。
まあ、早く登れないやつには、アルプスの壁を登る資格は、ないのである。
早速懸垂に移り、氷河に降り立ったころにはオラージュになったので、あきらめもついた。
こうして、僕らの初めての海外登山は、幕を下ろしたのである。
グランモンテよりドリュ北面 45mのデルファーにて
天気は、いまひとつ安定しなかったけれど、キャンプ場での日々は、それなりに楽しいものだったし多くのクライマーと知り合いになれたことも、大きな収穫だった。
ラックブランからの眺め ンブランで最も美しく長い山稜
8月16日、再訪を誓っていくつかの装備を日本人倉庫に預けて、シャモニを後にする。
キャンプ場よりミディ、モンブラン シャモニ郵便局とモンブラン
チューリッヒから帰国する、イソ太郎氏と別れ、パリに向かう。
パリで印象に残ったものは、ヴィトンのバッグ・・じゃなくて、セント・シャペルでのアコースティックコンサートと地下鉄で流しのにいちゃんが歌っていた、Mrs.RobinsonとByeByeLOVEだ。
ByeByeLOVE・・バイ・バイ・Alps、バイ・バイ・France、また会う日まで♪〜。
1人さびしくパリ観光??
ドゴール空港で飛行機にのると、どこかで見た顔が・・・。なんとチューリッヒにいったはずのイソ太郎氏だった。そして、開口一番「良ちゃん、ファーストクラスやでえ〜。チョコレートもろたから、あげるわああ。また、ドリュいこな〜」
エンジントラブルとかで、スイスエアーのファーストクラスに乗れてご機嫌で現れたイソ太郎氏と何年か後にまた、ドリュに行くことになろうとは、このときは、思いもしなかったのである。
  

 8.Feb.2004