Vol.143   アパート

「あっ、こんにちは。今度、隣に越して来たんですが、よろしくお願いします」
 都会の人たちは紺所付き合いなんてほとんどないという話しは聞いていた。今時、隣の住人に挨拶なんているのだろうかと思ったが、一応、礼儀として、引っ越しそばはさすがにないだろうということで、ちょっとした品物も用意して来たのだが・・・。
 隣の住人は、俺よりも少し若い、大学生くらいの男だった。顔色は青白く、いかにもひ弱な雰囲気だった。
 チャイムを鳴らしても、ノックをしても反応がなかったのだが、中には人がいる気配があったので、試しにドアノブを回してみたら、ドアが開いた。座ってぼんやりとテレビを見ていた。
 俺の挨拶に何も応えず、挨拶の品さえ受け取ろうとしなかった。気味が悪いくらい覇気のない男で、俺は怖くなって、品物を置いて、逃げるように出て来た。あんな人が隣人だなんて、かなり嫌な感じだ。
 廊下を歩いていると、人の姿があった。おばさん二人が井戸端会議の真っ最中という感じだった。同じアパートの住人だろうが、これもあまり歓迎したくない隣人だった。挨拶の品は一つしか持っていなかったし、とりあえず会釈をして部屋に戻ろうと思った。
「あそこの部屋の人・・・」
「ああ、新しく越して来るっていう」
「それが、交通事故で亡くなったそうなのよ」
「あら・・・」
「まだ若い男の人だったらしいんだけどね」
 そんな会話が聞こえてきた。あの部屋って、まさか俺の隣の、それじゃあ、あの覇気のない若者は幽霊?ーーそれなら、あの態度も納得だ。
 とはいえ、何とも気味が悪いことだ。俺には霊感なんてものはない。あんなにはっきりと幽霊を見たことなんて、今まで一度もなかった。
 一人で部屋にいるのは嫌な気がしたので、俺はちょっと外に出ることにした。近所の道路を歩いていると、道端に花束が置いてあった。
 交通事故でもあって、誰かが亡くなったのだろうか。そういえば、あの部屋の若い男は交通事故で亡くなったと言っていたが・・・。
 近くに見覚えのある人影があった。見覚えがあるなんてもんじゃない、俺の彼女だ。何ですぐに気付かなかったのだろう。ちょっと記憶が混乱している。
 彼女は目に涙を浮かべて、地面に置かれた花束を見つめていた。
「どうしたんだよ?」
 話しかけても返事はなかった。
「おい」
 何度話しかけても、まったく反応がない。俺のことなどまったく目に入っていない。
「どうしたんだよ?!」
 彼女の肩に手をかけようとしたが、その手は彼女の体をすり抜けてしまった。
 その時、混乱していた記憶がはっきりと思い出された。
 幽霊はあの男じゃない。俺だった。あの部屋とは隣の部屋ではなく、俺の部屋だ。交通事故で死んだのは俺だった。                                             了


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