Vol.140   スイッチ

 今日から新しい生活が始まる。大学に入って、東京に出て来てから10年。社会人になって6年。俺ももうじき30歳になる。
 東京の大学に入ったときには希望に満ちあふれていた。もちろん学問に情熱を持っていたわけではない。テレビで見るような素敵な出会いや、刺激的な日常があると思っていた。
 でも実際は、何もなかった。サークル活動やアルバイトをして、それなりに楽しく遊んだりしてきた。女の子との出会いもなかったわけではないが、彼女は出来なかった。ごく平凡な日常生活があっただけだ。
 会社に入ってからも同じだった。それなりの日々を過ごして来た。でも何もなかった。テレビで見るようなドラマチックなことは日常生活では起らないのだということが分かった。
 30歳を目前にして、何かしなければという思いが強くなった。そして手っ取り早かったのが会社を変わることだ。ごく普通のサラリーマンだから、入社して6年間働き、会社にはそれなりに不満もあったのだが、変わりたいという思いが強かった。
 リクルート雑誌を見ながら、自力で探して、同業他社に再就職が決まった。そして10年間住んだマンションからも引っ越すことにした。
 前の会社を退社して、次の会社で働き始めるまで、1週間の休みが取れた。本当はもう少し休んで旅行にでも行きたかったのだが、実際はそうもいかなかった。
 とりあえず新しいマンションで、新しい生活が始まる。隣に素敵な女の子が住んでいるなんてことは、もちろんなかったが・・・。
 運び込まれたばかりの荷物を整理する。といっても男の一人暮らしで大した荷物はない。壁際にベットを置いて、テレビ、ステレオ、パソコンをセットすると、ほぼ配置は完了だ。ダンボールから衣服類を取り出し、クローゼットに入れていく。
 備え付けのクローゼットだ。その中、奥の壁に何か付いているのを見つけた。壁に埋め込まれたような感じで、小さなぽっちがあった。何かのスイッチのようだ。
 そんなに大きなクローゼットではない。中に電気を点ける必要などない。それに何処にも電球などついていなかった。部屋中を見回してみる。広くはないワンルームである。このスイッチと結びつくものは何もなかった。
 スイッチに触れてみる。押してみようかと思ったが、何が起るか分からないので、力を込めることはできず、手を引っ込めた。
 とりあえず部屋の片付けを続けた。食事に出掛ける。自炊はしない。あらかじめ目星をつけていた定食屋に入る。近所の飲食店は重要だ。まあまあの店だった。これからも通うことになるだろう。あのスイッチのことはまだ気になっていた。
 帰ってテレビを見る。風呂に入る。まだスイッチは気になっている。缶ビールを1本空けて、ベットに入る。まだスイッチが気になっている。
 なかなか眠れない。スイッチが頭から離れないのだ。起き上がり、ベットを出る。クローゼットの扉を開ける。スイッチに指を触れる。またも一瞬ためらったが、思い切って押した。
 少し指に振動を感じ、ウィーンという小さな音がしたので、驚いててを引っ込めた。スイッチのぽっちうが小さく振動しなから引っ込んでいく。
 スイッチがあった壁の小さなくぼみは扉になっていたようだ。ゆっくりと扉が開き、中からまた小さなスイッチが現れた。
 思いもしない結果に途方に暮れたが、とりあえずベットに戻った。眠れそうになかった。

                                            了


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