Vol.137   コンシェルジュ

 僕は行きつけの喫茶店でくつろいでいた。家の近所の古い喫茶店だ。最近は少なくなったいわゆる純喫茶というやつだ。コーヒーが特別うまいわけでもなく、可愛いウエイトレスがいるわけでもないのだが、客も少なくて、とても落ち着くのだ。文庫本を読みながら、ここで過ごす時間は僕にとって最も安らげる時間である。
 今日ももう一時間ほど本を読んでいるのだが、ふと座席の脇に携帯電話が落ちているのに気がついた。黒色でストラップは付いていない。待ち受け画面も真っ白で、小さく時刻が表示されているだけだった。どこのメーカーのものか分からないが、古い型のようである。その分、何となく格調高い気がする。
 電池は充分に残っている。試しにボタンをいじってみた。着信履歴、発信履歴が表示された。「コンセルジュ」という文字で埋め尽くされていた。
 携帯電話にはいろいろガイドをしてくれる機能があり、それがコンシェルジュというのではなかったか。いけないことと思いながらも好奇心の方が勝り、僕はボタンを押した。
「お電話ありがとうございます」
 ワンコールで若い女性の声が聞こえた。アナウンサーのように綺麗でしっかりとしていて、心地良い声だった。
「本日はどういったご用件でしょうか」
「あ、あの・・・」
 何の考えもなかった僕は言葉に詰まった。だいたい人が出るとは思っていなかったのだ。
「何なりとお申し付け下さい」
「えっと、例えば映画のチケットとか取ってもらえるのかな?」
「もちろんでございます」
 この後、映画でも観に行こうかと思っていたので、そのチケットを取ってくれと言ってみた。
「承知しました。すぐにお届けいたします。お電話ありがとうございました」
 そして電話が切れた三十分後、バイク便の男が喫茶店に入って来た。僕を見つけて近づいて来ると封筒を差し出した。受け取って開けてみると、映画のチケットが入っていた。
 映画を観て家に帰った。携帯電話は持って来てしまった。再びコンシェルジェに電話する。同じ女性が出た。
「夕食を用意して欲しいんだけど」
「かしこまりました」
 三十分後にはデリバリーサービスの食事が届いた。
 何て便利なものだろう。何でも願いを聞いてくれるのだ。代金を請求されることもない。おそらく電話料金として引き落とされるのだろう。こんな便利なものなら基本料金も高いだろう。でも、支払うのは僕ではない。電話の持ち主だ。とてもいけないことだとは思ったが、こんなものを知ってしまったら、簡単に手放すことは出来ない。
「旅行に行きたいんだ。アメリカかな。そうだな、ニューヨーク。飛行機はファーストクラスで」
 三十分後には、ファーストクラスのチケットと超高級ホテルの宿泊券が届いた。
 そのチケットで僕は早速旅に出た。アメリカからも電話は通じる。何時にかけても同じ女性が電話に出た。アメリカで何を頼んでも、すぐに要望に応えてくれた。
 アメリカから帰った僕は、あの喫茶店に行き、コンセルジュに電話した。もしかしたら落とし主が取り返しに来るかもしれないと思ったが、そんな気配はなかった。
「お電話ありがとうございます」
 いつもの女性が出た。
「君に会いたいんだ」
 僕は勇気を振り絞って言った。この女性のことが好きになってしまった。
「お客様。コンシェルジュではただ一つだけ出来ないことがございます」
「それは何?」
「お客様にお会いすることです」
 電話が切れた。
 僕は携帯電話を置いて喫茶店を出た。

                                            了


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