昔むかしあるところに、とてもかわいそうなおじさんがいました。おじさんはその昔は、幸せな人生を送っていたのです。バブルと呼ばれた時代のことでした。一流企業に勤め、地位もありました。奥さんとお子さんと幸せな家庭を築いていたのです。
ところが、バブルがはじけ、おじさんはリストラされてしまいました。働く気力をなくし、ギャンブルとお酒ばかりのおじさんに奥さんも愛想を尽かし、お子さんを連れて出て行ってしまいました。
貯金も底をつき、住むところも亡くなってしまったおじさんは、ホームレスとなって、無気力な日々を送っていました。
もはやギャンブルをしたり、お酒を飲んだりするお金も気力もありませんでした。おじさんの唯一の幸せは煙草を吸うことでした。
もちろん煙草を買うお金もありません。誰かにめぐんでもらったり、シケモクという誰かが捨てた吸い殻を拾って吸うのでした。
煙草は健康に悪いなんて言われますが、煙草を吸ったからといって、必ず病気になるわけではありません。煙草を吸っても健康な人はいくらでもいるし、吸わなくても病気になった人はいくらでもいます。おじさんも、こんな生活をしていても、病気にはなりませんでした。もし、病気になっても、病院にいくお金はありませんから、幸いなことでした。
おじさんは唯一、大好きな煙草を吸っているときだけ気分が安らぎ、幸せを感じるのです。そんなささやかな幸せをおじさんから取り上げる権利は誰にもありません。
ところが、世間では煙草を吸うのはとても悪いこととされる風潮が日に日に強まっていきました。煙草税はどんどん高くなり、禁煙の場所が増え、路上にあった灰皿はどんどん姿を消していきました。
おじさんが煙草を手に入れるのがすごく困難になってしまいました。お節介なボランティアがホームレスにご飯を用意してくれたりします。でも、そんなボランティアもおじさんに煙草を恵んではくれませんでした。
おじさんが恥を忍んで、勇気を振り絞って、煙草を恵んでくれと言っても、彼らは、煙草なんて体に悪いから止めなさいと言うだけです。誰も本当におじさんの気持ちを分かってはくれないのです。
あるとても寒い日でした。おじさんは空腹でした。それでも食べ物より煙草が欲しかったのです。
「どなたか煙草を恵んで下さい」
おじさんは街を彷徨い歩きましたが、誰も相手にしてくれません。誰もが関わってはいけないとばかりに、おじさんを無視していきます。中には面白がってちょっかいを出してくる若者などもいて、おじさんは慌てて逃げ出すのでした。
ゴミ箱をあさっていると、まだ十本ほど入ったまま捨ててある煙草の箱を見つけました。このご時世でほとんど奇跡的なことでした。おじさんは大喜びで煙草の箱を拾いました。
かじかむ手に持ったライターで、おじさんは煙草に火をつけました。大きく一息吸い込むと、充分に肺の中で煙草を味わい、大きくい息を吐きました。何日振りの煙草でしょう。なんとおいしいことでしょう。
そして吐き出された白い煙の中に、幸せだった頃の家族の姿が浮かび上がったのでした。奥さんもお子さんも笑っています。そしておじさんも笑っていました。
おじさんは驚いて、もう一度煙草を吸い、吐き出しました。またも白い煙の中に幸せだった頃のおじさんの姿が浮かびました。
おじさんは夢中になって煙草を吸いました。家族旅行の様子や、お子さんの誕生日、おじさんがバリバリ仕事をしている姿などが浮かび上がりました。
一本、また一本、おじさんは煙草を吸い続けました。懐かしい場面が次々と浮かび上がり、おじさんは幸せでした。
遂に最後の一本に火をつけました。楽しい思い出が浮かび上がります。最後の一息、楽しく家族で食卓を囲む姿が浮かび上がりました。
「なんだか眠くなってきたな」
おじさんはとても満ち足りた気分でした。根元まで吸い尽くした煙草がポロリとおじさんの指から落ちました。幸せそうな顔で眠るおじさんの上に雪が降ってきました。
了