Vol.123   忘れもの

「お帰りなさい。お疲れ様でした」
 出迎えた女房がいつになく優しい。結婚したばかりの頃はどうだったか・・・もう覚えていないが、そもそも玄関まで出迎えるなんてこと自体が、ここ何年かはなかったことだ。40年間勤め上げた会社を今日で定年退職になった。これくらいの心遣いがあってもいいだろう。
「美津子と雅夫さんが着てるわよ」
 娘とその旦那だ。3年ほど前に結婚した。ここから1時間ほどの所に住んでいる。たまに2人で遊びにくることがあった。旦那はごく普通のサラリーマンで、美津子もまだ会社務めを続けている。旦那に対しては何の不満もなかった。
 一緒に食事をしながらビールを飲む。もともと酒が強い方ではなかったが、年を取って更に弱くなったような気がする。コップに3杯も飲めば、もうほろ酔い気分である。ましてや今日は特別な日で、酒の回りも早いようだ。やはり感慨深いものがあった。
 女房も娘たちも、こんなときに私の会社の話しをしていいものかどうか分からないのだろう。それに私は仕事を家に持ち込むことはしなかった。話しをしたくても何も知らないのかもしれない。当たり障りのない世間話しがしばらく続いた。
「そういえば、お義父さんは学生時代、野球をやってらしたんですよね?」
 何故か、話題は私の昔話しになった。私は小学校から高校まで野球少年だった。高校のときは甲子園にも出場したのだ。1回戦で負け、3打数ノーヒットだったのだが。
 子供の頃はプロ野球の選手を夢みていた。しかし、甲子園の1回戦が限界だった。ギリギリレギュラーになれたというところだ。野球はそこで見切りをつけて、大学では別の道に進んだ。
「まだアルバムがあったな」
 家族にこんな昔話しをするのは初めてだった。今日の主役に気を使ってくれているのか、いつになくよく話しを聞いてくれるので、酔いも手伝って、だいぶいい気分になった。
「いい写真ですね」
 女房と娘はさすがに飽きてきたのか、本当に用事があるのか、台所に行ってしまったが、娘の旦那が私の話しに付き合ってくれた。男同志通じるものもある。
 甲子園出場が決まって、皆で撮った記念写真だった。思い出の詰まった1枚である。
「この中央の人がキャプテンですか?」
「どの人だい?」
 キャプテンは4番でサードの同級生だった。彼は写真の端に写っていた。
「ほらこの人ですよ。背の高い。番号は・・・9番、ライトですかね」
 私は言葉を失った。背番号9番でライトを守っていたのはこの私だ。この写真を撮ったときはそうだった。彼が亡くなった後なのだから。
「ほら。この人ですよ」
 私は必死に記憶を辿って考えた。間違いなく、この写真を撮ったのは彼が亡くなった後である。娘の旦那が指差すところには、私には誰の姿も見えない。しかし、娘の旦那の言葉からして、彼にはあいつの姿が見えているとしか思えなかった。まさか、この写真にはあいつの霊が写っているのか。俺だけにはその姿が見えないのか。彼だけに見えるのか。
「そんな馬鹿な。彼はこのときはもう・・・」
 私はパニック状態に陥った。確かに1人の同級生がいた。彼がいたら、私はレギュラーになれなかった。しかし、彼は甲子園の出場が決まってすぐに亡くなったのだった。
「交通事故だったんだ・・・」
「でも、ここに写ってますよ、ほら」
 やはり私には見えない。それは私に後ろめたい思いがあるからだろうか。
「本当に交通事故だったんですか?」
 娘の旦那の目が急に鋭くなった。俺には分かっている。そう言っているようだ。私は何も言えなかった。ただ冷や汗が流れた。
「やはり、あなたが殺したんですね」
 何も答えられなかったが、私の様子から答えは明白だった。そうなのだ。私は甲子園にレギュラーとして出場したくて、彼を殺したのだ。運命のいたずらだった。ちょっと彼の背中を押せば、彼が交通事故に遭うという瞬間に出くわしてしまったのだ。そして私の耳元で悪魔が囁き、手が動いてしまったのだ。
「亡くなったのは、僕の母の兄なんです」
 あいつが車に撥ねられて、私はすぐにその場を逃げ去った。大変なことをしてしまったと思った。助かってくれれば、甲子園に行けなくても、警察に捕まってもいいと思った。しかし、あいつは死んでしまった。即死ではなく、亡くなる前に「あいつに押された」と言い残したそうだ。
「母から聞いたんです。特に気にしていたわけではないんです。本当の話しかどうかも分かりませんでした。娘さんと知り合ったのも、このこととはまったく関係ありません。相手がお義父さんかもしれないなんて思ったのはいろいろ話しを聞いて、つい最近のことなんです」
 いつかばれるのではないかと、すっと思っていた。罪を償わなければいけないのではないかと常に考えていた。しかし、今まで普通に過ごしてきてしまった。そして最近はようやく記憶も薄れてきていた。
「もう時効です。別にことを荒立てるつもりはないんです。ただ、もしかしてと思って、確かめてみたくなっただけなんです。このことは美津子にも、誰にも言いません」

                             了


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