Vol.99   声

「乗ってはだめ」
 それはとても優しい感じの女性の声だった。僕は思わず立ち止まって、辺りを見回した。朝のラッシュ時の駅のホームだったから後ろの人の邪魔になり、睨まれてしまった。
 おじさんのような声だったらあまり気にしなかったかもしれない。でもその声はとても素敵で、きっと声の主は大変な美人だと思えるようなものだった。
 声は何処かから聞こえたというのではなく、僕の頭の中に直接話しかけてきたという感じだった。現実的に考えれば、ただの幻聴かもしれない。
 とにかく僕はどうしていいか分からずに、声の言うことを聞いたというより、戸惑っているうちに電車を見送ってしまった。おかげで会社に遅刻してしまった。
 でも、それが正解だったのだ。その電車が脱線事故を起こし、大勢の死傷者が出た。もし、乗っていたら僕も被害者になっていたかもしれない。
 それが、彼女の声と僕の初めての出会いだった。それから声はたびたび聞こえるようになった。
「計算を間違ってる」
 会社で資料を作製し、上司に提出しようとしたとき声が聞こえ、見直してると確かに間違っていた。
「そっちの方がいい」
 会社での会議でどちらを提案しようか迷っていると、声が聞こえた。忠告に従って提案した案が大好評だった。
 それまで決して優秀な社員ではなかった僕だったが、彼女の声のおかげで成績も伸び、周りから評価されるようになった。
「3ー5」
 仕事ばかりでせはない。競馬でも大儲けさせてもらった。
「君は誰なの?何処にいるの?」
 僕はもう彼女の声に恋をしていた。いくら話しかけても返事はなかった。それでも僕が迷ったときは適切なアドバイスをくれた。
「あの男はとても悪い奴なの」
 ある時、商店街を歩いていると彼女の声が聞こえた。前を歩いているスーツ姿の男のことだとすぐに分かった。二枚目だけど嫌な感じのする男だった。僕は男の後を追った。
「あの男を生かしておいてはいけない」
 また彼女の声がしたとき、金物屋の前に通りかかっていた。見せにある包丁が目についた。僕はさっと包丁を手にした。
「殺して」
 彼女の声が言った。僕は何の迷いも感じなかった。包丁を男の胸に突き刺した。

                             了


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