Vol.85   切り札

「本日はお忙しい中、お時間をいただきましてありがとうございます」
「いえ、いえ、よろしくお願いします」
 日本一の大富豪といわれ、相当なやり手として日本の経済界をリードしている男としては、意外にも気さくで、人当たりの良い人物だという印象を受けた。
 新聞記者という職業柄、これまでにも多くの有名人にインタビューする機会がったが、私は彼にインタビューできることを特に楽しみにしていた。
 見た目ではもっと若く見えるが、彼はもう70歳を越えている。先日引退を表明したばかりだった。引退前には多忙過ぎてとてもインタビューなど出来なかっただろう。
「では、早速始めさせていただきます」
 話しは当然のことながら、彼がいかにして成功したかというところになった。彼の才能を感じさせるエピソードあり、そして才能だけではなく、人並みはずれた努力もしてきていた。
 約30分、十分に有意義なインタビューができたと思う。いい記事が書けるという確信があった。人と人との対話であるから、うまが合う合わないというのがある。優れた人物に、十分な準備をしてインタビューしても、満足のいく仕事にならないこともある。今日は非常に満足できる仕事になったと思う。こんなことは年に何度もあることではなかった。
「最後にお尋ねしたいのですが、ここまでの成功を収められた決定的な出来事というか、これがポイントだったというようなことはありますか?」
「そだなぁ・・・これが切り札というようなこと?」
「え、そうです」
「切り札はあるよ。使ってはいないがね」
 彼はとても人なつこい笑顔を見せた。恐らく彼も私に対して好印象を持ってくれているのだろう。会話をしていて通じ合うものがあった。
「話してしまおうか。記事にするかね?」
「ええ、そのためにインタビューしているのですから」
「まあ、記事にできるようなこととも思えんがね」
 彼はもう一度微笑むと、急に真面目な顔になった。
「私は切り札を持っているんだよ」
 私がポカンとしていると、彼は続けた。
「文字通りの切り札だよ」
 彼の話したことは、なる程とても記事にできるような内容ではなかった。彼は切り札を持っているというのだ。何でも願い事が叶うという切り札だ。
「見せていただけますか?」
 彼は財布の中から古びた1枚の紙を出してくれた。手のひらサイズだ。紙の真ん中辺りに何語ともわからない文字が書いてある。
 この紙を持ち願い事を言う。そして破る。すると、どんな事でも願いが叶うというのだ。彼は恩人と呼べる人からこの紙を貰い受けた。出鱈目を言うような人ではない。彼はこの切り札を信じていた。
「どんな願いでも叶う。しかし、破り捨ててしまうのだから使えるのはたった一度きりだ」
 何度か使おうと思ったことはあった。だが、本当に今、使ってしまっていいのか、今後、もっと大事な局面があるのではないか。そう思って使えなかったいう。
「結局、使わないまま、ここまできてしまった。この切り札を持っているというだけで、すべての事を切り抜けてきたわけだ」
 そして、その切り札は今、私のポケットの中にある。
「もう私には冬のものだ」
 そう言って、彼が私にくれたのだ。正直言って、半信半疑だ。そしてどんなときにこの切り札を使えばいいのか私にはまったく分からない。
 彼は私のこの切り札を渡し、何だか肩の荷が降ろせたというような表情をした。逆に私は厄介なものを背負ってしまったような気がする。

                             了


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