Vol.84   眠れない男

 眠れないということがこんなに辛いことだとは、まったく思ってもいなかった。以前の俺は、ベットに入って目を閉じれば一分としないうちに眠りに落ちていた。寝つきが悪くて、一時間は眠れないなどと人が言うのを聞いても信じられない思いだった。ましてや不眠症だなどと言われても、眠くならないなら、その分時間が増えていろいろなことができていいじゃないかと言っていた。今、そんなことを人に言われたら、俺は確実にそいつをぶん殴るだろう。俺を殴らなかった知人を心から尊敬する。
 眠れないからといって、眠らずにいても平気というわけではないのだ。疲れるし、眠りたいと思う。しかし、眠れない。疲労は溜まり、頭はボーッとする。何ともいえず不快な気分が永遠と続いている。
 たまに眠くなってうとうとするときがある。やっと眠れるかと思い、ベットに入ると眠気がうせてしまう。そんなときは気が狂いそうになる。
 俺はもう半年もまったく眠っていないのだ。自分でも信じられないが、事実なのだ。半年もの間、俺はこんな状態で暮らしている。不眠症の経験がない人には分からないだろうが、これは相当に辛いことなのだ。
 どうしてこんなことになったのかは分からない。ある夜、なかなか寝つけずに、一晩が過ぎてしまった。暑くて寝つかれなかったのか、何かの出来事に興奮していたからなのか、今はもう覚えていない。たまにはこんなこともあると思った。一日ぐらいだから次の日もそれほど辛くはなく、夜になれば昨日の分までぐっすり眠れると思っていた。ところが、いざベットに入ったら、眠れなかった。以来、半年間、眠れぬ日々が続いている。
 睡眠薬を飲んでみたが、眠れなかった。医者にも行った。眠れなくなって1ヶ月ほどたったときだ。医者は1ヶ月間まったく寝ていないと言っても信じてくれなかった。気づいていないだけで実際は眠っているのだと言った。そうかもしれない。でも、そんなことはどうでもよくて、俺は夜、ベットに入ってぐっすりと眠りたいのだ。
 精神科にも行ってみた。やはりまったく眠れないということは信じてもらえず、いろいろとアドバイスをもらったが、どれも的外れでまったく役に立たなかった。催眠術も試してみた。憑き物落としのお払いを受けたりもした。しかし、眠れなかった。
 半年の間まったく眠っていないと言っても、誰も信じてくれなかった。医学的にそんなことはあり得ないそうだ。しかし、俺は実際にそういう経験をしているのだ。この辛さは誰にも理解できないだろう。
 体重は落ち、顔色も悪い。もちろん体調も最悪だ。仕事など手につかない。会社は休職扱いになっている。何もする気にならず、一日二十四時間、ただぼーっと過ごしている。地獄のような日々だ。いっそ死んだ方が楽だと思う。ただ自殺する気力もない。
 そんなある夜、俺はいつものようにとりあえずベットに入って目を閉じた。どうせ眠れないことは分かっている。しかし、他にすることは何もなかった。
 そして不意に強烈な眠気に襲われた。どうしたんだ?俺は半年振りの感覚に戸惑ったが、それも一瞬のことで、俺は眠りに落ちた。
 そして俺は目が覚めた。
「大丈夫ですか?」
「分かりますか?」
 俺はどうやら病院にいるようだ。看護婦が俺の顔を覗き込んでいた。
「先生、目が覚めました」
 看護婦の一人が叫びながら病室を出て行った。
「奇跡です」
 駆けつけて来た医者が言った。俺は交通事故に合い、意識を失って半年間眠り続けていたそうだ。そして今朝不意に目が覚めたというのだ。そのまま目が覚めずに死んでしまっても不思議はない状態だった。むしろ半年たってから意識が戻ったというのが極めてまれなケースだった。
 俺は眠っている半年の間、眠れない夢を見ていたのだ。夢の中でようやく眠った瞬間に、実際の俺は目を覚ましたというわけだ。
「もう大丈夫ですよ。何でも好きなことができますよ。何をしたいですか?」
 医者が笑顔で尋ねた。
「眠りたい。眠らせてくれー!」
 俺は叫んでいた。

                             了


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