Vol.83   侍

 朝起きたら侍になっていた。歯を磨いて、顔を洗って、鏡を見て驚いた。見事なちょんまげだった。時代劇でみるあのちょんまげが、鏡の中の俺の頭にちょこんと乗っていた。
 何が起こったのか理解ができなかった。触ってみたが、かつらではなく、間違いなく俺の地毛のようだった。俺が寝ている間に誰かがちょんまげを結っていったなどということは考えられない。一体どうしてしまったのだろう?
 今日は大事な商談があり、俺はそこでプレゼンをしなければならない。社運を賭けたプロジェクトなのだ。失敗したら首が飛ぶかもしれない。とにかく俺はスーツに着替えた。改めて鏡を見 た。スーツ姿にちょんまげというのは何とも変な格好だ。しかし、そんなことは言っていられない。俺は部屋を飛び出した。朝めしを食う時間もなくなっていた。
 電車の中では、周囲の人が怪訝な顔で俺を見ていた。いつもは大混雑の電車の中が俺の周りだけ空いていた気がする。電車の窓にはちょんまげ姿の俺が写っていた。やはり俺が寝ぼけている わけではなく、間違いなく俺の頭はちょんまげなのだ。
 時間ギリギリに会社について会議室に走りこんだ。誰もが俺を見てハッと息を呑むのが分かったが、誰も何も言わなかった。
 プレゼンの間中、会議室は静まり返っていた。皆、俺の姿に度肝を抜かれたのだろう。そして商談は見事に成立してしまった。取引相手は、あっけにとられたまま契約書にサインしてしまったというところだろう。
「しかし思い切ったことをしたなあ」
 会議終了後、ようやく上司が俺のちょんまげに触れた。プレゼンのために狙ってちょんまげをしてきたと思ったのだろう。俺はあいまいに笑った。
 俺はその日一日、社内の人気者だった。商談がうまくまとまったことで、俺のちょんまげを批判する者は一人もいなかった。
「とても似合いますよ」
 若い女性社員にそんなことを言われて、俺は悪い気がしなかった。
 翌朝、目が覚めて鏡を見たら、もはや見慣れたちょんまげがあった。もしかして今日は元に戻っているかもしれないと思っていたのだが、そんなことはなかった。
「まあ、いいや」
 俺は部屋を出た。何だかふっきれた気持ちだった。
 電車の中で若い女の人がやくざ風の男にからまれているのに遭遇した。周りの人は相手がいかにもという男なので、見て見ぬふりをしている。
「やめないか」
 俺はつい言ってしまった。
「何だと・・・」
 男は俺を見て目が点になった。睨み付けてやったら、ぶつぶつ言いながら、立ち去った。ちょんまげ姿のサラリーマンとは関わるんべきではないと思ったのだろう。
「ありがとうございました」
 からまれていた女性は羨望のまなざしで俺を見た。悪い気はしなかった。
 そして俺は考えた。なぜ俺の頭がちょんまげになったのか。この乱れた世の中で、侍のように生きろということなのではないか。そう思えた。
 定時で会社を出た。今日も誰も俺のちょんまげ姿を問題にする者はいなかった。デパートに寄って、着物を買った。本物の刀を刺すわけにはいかないから、芝居で使う偽者を用意した。これで気分はすっかり侍である。
 仕事に支障があるかと思ったが、取引先からは珍しがられて、かえっていい成績が残せた。社内でもすっかり人気者になった。
 街中でマナーの悪い若者をみかけると、片っ端から注意した。睨み付け、刀を抜くと、誰もが慌てて逃げていった。
「傍若無人な振る舞い、拙者が許さぬ」
 いつの間にか、言葉使いまで侍になっていた。
 やがて俺は、現代に生きるラスト・サムライとしてテレビや雑誌でも取り上げられるようになった。
「キャー侍よ!」
 若い女の子たちに大人気だった。侍になって何もかもうまくいっていた。俺は有頂天になり、自惚れていたのかもしれない。
 そんなある朝、俺は鏡を見て驚いた。真っ赤な顔に長く伸びた鼻を持つ俺が写っていた。
 そう俺は天狗になっていたのだ。

                             了


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