Vol.77   親指姫

「痛って」
 久しぶりに家でのんびりできる時間ができたので、部屋の片付けをした。このところ仕事が忙しく、たまに休みがあっても用事があったりして、部屋の中がちらかり放題になっていた。
 僕はもともと綺麗好きなので、一人暮らしにしては部屋の中は綺麗にしている方だから、部屋の散々たる状態がずっと気になっているたので、せっかくの休みを掃除に費やすことにしたのだった。
「釘が出ていたのか」
 どうやら、椅子を持ち上げたときに飛び出していた釘に引っ掛けてしまったらしい。親指を切ってしまった。
 横にパックリと切れてしまった。血も出ている。ずきずきと痛む。しかし、それほど深くはないようだ。絆創膏を張って、そのまま掃除を続けた。
 次の日、痛みはもうなかった。またしても仕事が忙しい一日で、親指の傷のことなど忘れてしまった。
 夜、風呂に入って絆創膏を外してみると、まだ傷口が塞がっていなかったので、絆創膏を新しくして寝た。
 次の日も傷のことなど考えている暇はないくらい忙しい一日だった。風呂に入って、絆創膏を外してみる。傷口はまだ塞がっていない。そして傷の上、親指の先の方に汚れだろうか、何か模様がついていた。傷口が口とすれば目と鼻のようで、親指が顔のようになっている。石鹸で洗ってみたのだが、汚れが取れない。仕方がないので、そのまままた絆創膏をした。
「ねえ、苦しいわ」
 夜、寝ていると女性の声がした。小さな声だが、とても美しい声だった。僕は慌てて飛び起きた。
 何処から聞こえてくるのだろう。すぐ近くから声がしたようだが、この部屋に、こんな夜中に、いや、たとえ昼間だって、女性がいるわけがない。
「ここよ」
 もう一度、声がした。その声は僕の親指から聞こえてきた。絆創膏を外してみると、先ほど汚れと傷口で顔のような模様になっていると思っていた親指に、はっきりと女性の顔ができていた。しかも、物凄い美人だ。
「ありがとう、絆創膏を外してくれて」
 僕の親指の彼女がにっこりと微笑んだ。
 僕は彼女と一晩中語り明かした。彼女の顔はもろに僕の好みのタイプだったし、声も可愛いし、話しも楽しかった。僕はすっかり彼女を好きになってしまった。
「結婚して下さい」
 明け方、自分の気持ちを押さえきれないほど彼女を好きになってしまった僕は、彼女に言った。
「ありがとう。嬉しいわ。でも、自分の親指と結婚するわけにはいかないでしょ」
 彼女の返事はもっともなものだった。僕は失望した。彼女と結婚できないのなら生きている意味がない。僕は窓を開けた。

「検死の結果が出ました」
 今朝、自宅のマンションから飛び下り自殺したと思われる若い男性の検死結果だった。
 親指の傷口が化膿して、ばい菌が入り、そのばい菌が脳に回って、錯乱状態にあったと思われます」

                             了


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