Vol.75   この扉を開けて

「何でこんなところに入ってしまったのだろう」
 彼は不思議に思いながら足を進めた。今は仕事中だった。営業で外回りが多い彼は、時には喫茶店などに入って、息抜きをすることもあったが、成績もよく、決してサボったりはしないのだった。
 ビルの前に立ち、何故か中に入ろうと思ってしまったのだ。いや、気がついたら中に入っていたといった方が正しいだろう。
 そして、何の飾り気もない廊下を歩いていた。不思議に思うものの、何故か引き返す気にはなれなかった。
 しばらく歩くと、扉があった。どこかのオフィスだろうか。営業マンとしての感が、この先にビジネスの予感を感じているのだろうか。彼は扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
 女の子の声に迎えられた。質素な応接セットがあるだけの部屋だった。
「君は・・・」
 見覚えのある顔だった。整った顔だが、地味な感じのする娘だった。年は二十代前半だろうか。
「あら、お久しぶりです」
 思い出した。以前、同じ会社にいた事務の女子社員だった。ほとんど話しをしたこともなかった。確か1、2年で辞めてしまったはずだ。数年前の話しだ。
「君は確か・・・」
「私のこと覚えてましたか?」
 彼は曖昧に頷いた。名前までは思い出せなかった。
「今はここで働いています」
 彼女は笑った。何処か寂しそうな笑顔だった。
「さあ、こちらの扉からどうぞ」
 部屋の奥にドアがあった。彼女は手の平で、そのドアを示した。ここはいったい何なのだろう。そう思いながら、彼はドアを開けた。
 ドアの向こうにはオフィスのフロアがあった。見覚えのある光景だ。彼の会社だった。しかし、少し雰囲気が違っていた。
 見覚えのある顔が並んでいたが、皆若かった。どうやら数年前の会社のようだ。この部屋に案内してくれたあの彼女もいた。
 今は彼の妻になった女性社員も働いていた。一流大学を卒業して入社した彼は、営業成績も良く、スポーツ万能、ルックスも良く、社内の人気ナンバーワンだった。同じく美貌で人気ナンバーワンだった女子社員と付き合うようになり、結婚したのは当然の流れだった。若々しい妻の姿を見て、彼は懐かしい思いだった。
 彼女が立ち上がると、またドアの方を指し示した。もっと懐かしい風景を見ていたい気もしたが、彼はドアの方に進んだ。
 ドアの向こうは一転して、何かお葬式のような風景だった。一体ここは何なのだろう。彼は訳が分からなかった。
 祭壇に飾られた遺影を見て、彼はギョッとした。あの彼女が寂しそうに微笑んでいた。
 そうだ。彼女が会社にいたのは数年前だ。先ほど見た風景ではみな数年分、若かった。彼女だけがまったく変わっていなかった。そういえば、彼女は会社を辞めた後、亡くなったという話しを聞いたことがあった・・・。
 一体、ここは何なんだ。彼は怖くなって、近くにあったドアを開いた。
 そのドアの向こうは車の中だった。彼は助手席に座っていた。隣で運転しているのは、彼女だった。
「私、あなたのことが好きだったんです。でも、あなたは私のことなんか、ちっとも相手にしてくれなくて」
 彼女は淡々と喋った。
「君は確か・・・」
「ええ、私は死にました。交通事故で。でも、ずっと一人で寂しくて。迎えに来たんです」
 目の前に大きなトラックが迫っていた。

                             了


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