Vol.72   街角

 ほんの些細なことで人生が変わってしまうことがある。あのとき、あんなことがなかったら・・・。
 彼女と喧嘩してしまったのも、ほんの些細なことがきっかけだった。もう理由すら思い出せない。それから意地を張ってしまったばかりに、そして些細な行き違いが重なったばかりに、本当に別れることになってしまった。まだ二人とも若かったせいもあるのだろう。
 最後の最後で自分から謝るつもりになった。彼女が故郷に戻ることにしたと聞いたからだ。彼女が乗る電車も分かっていた。それでもギリギリまで決断できなかった。ようやく決心して部屋を出た。信号も無視して駅まで車を飛ばした。駅についたのは電車が発車する2分前だった。
 ホームまで全速力で走った。もし、あの時、おばあさんとぶつからなかったら。散らばってしまったおばあさんの荷物を拾ったりしなければ・・・。
 階段を駆け上がったとき、電車は丁度ホームを出て行ったところだった。
「パパー」
 5歳になる息子に呼ばれて我に返った。もう10年も前のことだ。あの後、別の女性を好きになり、と結婚した。子供も生まれた。妻のことを愛している。今さら別れた彼女とやり直したいとは思っていない。彼女のことも忘れたわけではなかったし、ときどき思い出すこともあったが、なぜ、突然こんなことを考えたのだろう。今、あの角から現れた女の子に、どことなく彼女の面影を感じたからかも知れない。
「さあ、行こうか」
 息子の手を取って、歩き出した。

 ほんの些細なことで人生が変わってしまうことがある。あのとき、あんなことがなかったら・・・。
 彼と喧嘩したのも、ほんの些細なことががきっかけだった。まさか本当に別れることになるとは思ってはいなかった。
 故郷に帰ると決めたのは、彼と喧嘩したことだけが理由ではなかった。家庭の事情があったのだ。それでも彼が帰るなと言ってくれたら・・・。あのとき、どこかで彼が引き止めてくれることを期待していた。故郷に帰ること、そして電車の時間まで彼に伝わるように仕向けたのだ。
 結局、彼は来てくれなかった。
 6歳になる娘に呼ばれて我に返った。もう10年も前のことだ。あの後、故郷で別の男性と知り合い、結婚した。そして彼の転勤でまた東京に出てきた。娘も産まれた。夫のことが好きだし、幸せな家庭が作れたと思っている。今さら別れた彼とやり直したいとは思っていない。彼のことも忘れたわけではなかったし、ときどき思い出すこともあったが、なぜ、突然こんなことを考えたのだろう。今、あの角を曲がって行った男性の後ろ姿が、どことなく彼に似ていたような気がしたからかも知れない。
「はい、はい。待って」
 娘の手を取って、歩き出した。

                             了


BACK