Vol.62   虫

 いつからだっただろうか。俺の頭の中に虫が住み着いたのは。
 社会人になって最初の夏だったと思う。頭部に違和感を覚えた。
 初めは虫だとは分からなかった。耳から入り込んだのか、鼻の穴から入ったのか。そんなことがあれば気づかないはずがなかった。寝ている間の出来事だったのだろうか。
 食べ物の中に虫の卵があって、俺の腹の中で孵ったのだろうか。それが気づかないうちに頭の中にまで上がっていくとは考えずらい。
 とにかく違和感を覚えた。そして頭の中でかすかにブーンという音が響くようになった。何かの病気ではないかと思い、病院に行った。いろいろな病院に通ったし、精密検査もしてもらったが、原因は不明だった。俺の脳にはどこにも異常がないという。
 集中力が途切れて、仕事のミスが増えた。通院のため会社を休むことが多くなった。それでも周りの皆は俺のことを心配してくれた。
 やがてブーンという音がさらに大きくなり、音が聞こえる時間も長くなってきた。俺には、その音が虫が飛ぶときの羽根音に聞こえた。
 ついにブーンという音は常に俺の頭の中で響くようになり、それが虫の羽根音だと確信できるようになった。
俺の頭の中に虫が住み着いているに違いなかった。人にもそう話すようになった。その頃からだ。周囲の人が俺を避けるようになったのは。
 結局、会社は辞めることになった。医者も誰も俺の話しを信じないから、行くのを止めた。精神科にも行ってみた。精神科医は優しげな表情で俺の話しは聞いてくれるものの、頭の中の虫を取り除いてくれるわけではなかった。やつらには、頭の中を虫が飛びまわっているという状態がどんなに不快で耐えがたいものか分かっていないのだ。
 あるとき、街を歩いていたら、一人の男に話しかかられた。何を喋っているのか分からなかった。頭の中のブーンという音が大きくて、男の言葉が聞き取れなかったからだ。
 男はなおも何かを喋りつづけていた。俺は堪らなく不快になり、男を殴りつけた。男は地面に転がった。そのとき、頭の中のブーンという音が一瞬消えた。俺は急に怖くなって、足早にそこを立ち去った。
 しかし、すぐにブーンという音は戻ってきた。家賃の支払いが遅れていたので、大家が催促にやってきた。また頭の中でブーンという音が大きくなったので、大家を殴り倒し、部屋を飛び出した。
 現金と通帳は持って出たが、現金などたいしてなかった。貯金もすぐに底を着いた。相変わらず頭の中を虫が飛び回っていた。常に不快だったが、時々、耐えられないほど辛かった。そんなとき人を見かけると殴り倒したくなった。俺は素直にその感情に従って行動した。すると少しだけ頭の中のブーンという音が止んだ。
 俺は棍棒を持ち歩くようになった。武器があった方が楽だったからだ。ブーンという音が耐えられなくなると棍棒で人を殴った。皆、頭から血を流して動かなくなった。そいつらが持っていた現金を奪い、食いつないだ。
 安そうなホテルを泊まり歩いた。いつか俺の顔がテレビのニュース番組に写っていた。アナウンサーが何か喋っていたが、頭の中の虫の音が大きくなり、聞き取れなかった。俺は棍棒でテレビを叩き壊した。
 そのままホテルを飛び出した。ブーンという音が大きくなり、耐えられないほど不快だった。
 一人の男が俺に話し掛けてきた。何を言っているか分からなかったが、彼は警察官の服を着ていた。
 俺は男を棍棒で殴ろうとした。男は飛びのいて避け、腰から拳銃を抜いた。俺は堪らなく不快だった。拳銃で狙われていることなど何の関係もなかった。
 俺は警官を殴りつけた。警官は発砲することなく、その場に倒れた。俺は銃を取り上げた。倒れてもがいている警官に向けて引き金を引いた。
 手に衝撃が伝わったが、頭の中のブーンという音にかき消され、銃声は聞こえなかった。警官は一度、大きくのけぞり、すぐに動かなくなった。地面に赤いというより、黒い血が流れていた。
 頭の中のブーンという音は鳴り止まなかった。堪らなく不快だった。俺は銃をこめかみに押し当て、引き金を引いた。一瞬、頭の中の音が消え、俺は笑みを浮かべた。そして意識が途絶えた。
 銃声を聞きつけてやってきた人たちによって、俺と警官の死体はすぐに発見された。しかし、俺の頭に空いた小さな穴から、ブーンという小さな羽根音をたて、小さな虫が飛んで出て行ったことに気づた者はいなかった。

                             了


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