Vol.61   あの街角で

「初めてここに来るときは、本当に決死の覚悟だったんですよ」
 彼女は初めて笑顔を見せた。とても愛らしい笑顔だった。
「そりゃあ、そうでしょう」
 私は頷いた。彼女が笑ってくれたことが嬉しかったが、努めて表情に出さないようにした。
 心理カウンセラーなどという者を訪れるのは勇気のいることだ。日本ではまだ未発達の分野で、カウンセリングを受けたことが周囲に知れると、あの人は精神異常なのだといった噂が立ってしまったりする。特に彼女のような若く美しい女性にとっては、敷居が高い場所だろう。
「それで、その後はどうですか?」
「ええ、まだ夢は見ます」
 打ち解けてくれてきたことは進歩ではあるが、彼女の悩みが解消されたわけではない。何とか苦痛を取り除いてあげたいと強く思った。カウンセラーとして責任感という以上の感情があるかもしれない。
「でも、そんなに怖くはなくなってきました。夢は何かを暗示するというけど、悪いことを示しているとは限らないでしょ?もしかしたら、とってもあの場所でとってもいいことがあるのかもしれないと思えるようになったんです」
 彼女は再び笑った。本当にいい笑顔で、私はどきっとしてしまった。カウンセラーという立場上、また四十歳も近い男として、二十歳そこそこの女性に対して何を思っているのか、私は恥ずかしくなってしまった。
「そうですよ。素敵なことを暗示しているのかもしれませんよ」
 私はそんな気恥ずかしさを誤魔化すために大きく頷いた。
 彼女の悩みは、毎晩のように同じ夢を見るということだ。何の変哲もない四つ角の風景だそうだ。信号もないし、車もほとんど通らないような狭い路地を歩いてき、四つ角に差し掛かったところで終わる。それだけの夢だ。曲がり角から何かが出てくるような気がするが、その前に夢は終わってしまう。そして何故、こんな夢を見つづけるのか、理由が分からない。それが気になって、不眠症になってしまったのだ。
 初めて彼女がここを訪れたときは、顔色も悪く、話しをしても、言葉少なで、声も小さかった。人に話して気が楽になったということもあるだろう。不眠症が少しづつ解消されているせいもあるだろう。今では大分、元気になった。
 カウンセリングを続けるうちに、彼女は更に打ち解けてくれた。本当は明るく活発な女性であったのだ。私はそんな彼女に惹かれているようだった。まったくいい年をして、どうかしている。
「あなたの出身はどちらですか?」
 私は自分の気持ちを打ち消すようにして、カウンセリングを続けた。
「栃木県です」
「それじゃあ。そんなに遠くありませんね。一度実家に戻って、子供の頃のことをご両親に聞いてみてはいかがですか?」
 意識としては覚えていなくても子供の頃の記憶が、無意識のうちに夢に現れるというのはよくあることだ。
東京で一人暮らしの彼女が、実家に戻ることは精神的にもいいことだと思う。
「そうですね。夢を見るようになってから、まったく精神的に余裕がなかったから、実家には帰っていないんです。今度の休みにでも帰ってみます」
 彼女はまた笑顔を見せた。本当にいい笑顔だ。愛らしくて、何か懐かしい感じもする。
「そうして下さい。次回も来週の同じ時間でいいですか?」
「はい、お願いします」
 私は事務的に会話を打ち切った。彼女が心を開いているのは、私という男に対してではなく、一人のカウンセラーに対してなのだ。こんなに若く美しい女性が、私のようなおじさんに特別な気持ちを持つはずはない。
 この年まで生真面目一本で、ろくに女性と付き合った経験もない彼には、彼女が彼に対して特別に親しみを感じているからこそ、心の病が治りつつあるということに気づきはしなかった。

 私も久しぶりに実家に帰ってみた。彼女の実家が栃木県と聞いたときは驚いた。私も栃木県出身なのだ。それで帰省する気になったのだが、帰ったところで別にすることもない。子供の頃の友達は、ほとんど東京に出ている。残った人はすべて結婚して子供がいる。昔の友人と再会を喜んでいるような余裕はないだろう。
 家にいれば、親から「まだ結婚しないの?」というプレッシャーがかかる。仕方なく、ブラブラと近所を歩いてみることにした。
 小学校、中学と通った道だ。歩いてみて思い出したことや、当時と変わってしまって驚かされたことなどがあり、それなりに楽しかった。
 四つ角に差し掛かった。確かに昔通っていた道だ。彼女の夢の話しは詳しく聞いている。きっとこんな感じの四つ角だろう。こんな所に来てまで、どうも私は彼女のことが気になって仕方ないようだ。
「きゃっ」
 四つ角を曲がろうとしたとき、前から突然、人が現れた。私は驚きを通り越して固まってしまった。何と彼女が目の前に立っていたのだ。
「心臓が止まるかと思った」
 彼女の驚きも大変なものだっただろう。この四つ角が彼女が夢に見る四つ角だったのだ。彼女の家もこの近所だったのだ。夢の四つ角を現実に歩いてみることにした。なかなか足が前に出なかった。やっと意を決して踏み出したところへ私と出くわしたというわけだ。
「そういえば、笑顔に面影がある」
 私は思い出した。中学三年のときだった。毎朝、この四つ角のあたりですれ違う母親と赤ん坊がいたことを。とても可愛い女の子で、どういうわけか、何日も合ううちに、赤ん坊は私を見て笑うようになった。私も手を振って応えていた。あの赤ん坊が彼女だったのだ。
「先生、あの夢はやっぱりいいことの暗示でした」
 彼女が、懐かしい、愛らしい笑顔で言った。
「愛があれば年の差なんて関係ないですよね」

                                  了


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