Vol.60   人魚伝説

 人魚の肉を食べると不老不死になる。そんな伝説がある。不老不死などということが現実に有り得るとは思えない。そもそも人魚の存在自体が夢物語である。しかし、世の中にはそんな夢のような話しを真剣に追いかける人間がいるのである。そして、それらの話しは嘘であると証明されたわけでもない。中には本当の話しもあるのだ。
「間違いないわ」
 彼女は売れっ子作家であった。時には小説を書くための取材で、時にはプライベートで旅行をした旅先で、人魚の話しを耳にした。最初はあくまでも架空の話しだと思っていた。しかし、次第にそうとばかりも言えないことに気づいた。
 興味を持って、いろいろと調べてみた。作家という商売柄、情報収集能力もあったし、自由になる時間も財力もあった。そして彼女は、人魚は実在すると信じるようになった。人魚の肉を食べると不老不死になるという伝説も真実であると確信した。
 彼女は美貌の持ち主だった。それが小説の売り上げに大きな影響をもたらしていることも知っていた。30代も後半に差し掛かり、いろいろな面で衰えを感じていた。不老という言葉は彼女にとって、これ以上なく魅力的な言葉だった。
 それから数年間、彼女は人魚伝説を追いつづけた。彼女が何に興味を持って調査しても、小説の題材にするのだと思われる。小説家というのは非常に都合のいい商売だった。
 しかし、彼女は人魚のことを決して小説の題材にはしなかった。エッセイにも書かなかったし、講演などでも話題にしなかった。人形の肉は、人に渡すほどはないということが分かっていたからだ。
 彼女はもう40歳が目前になっていた。不老への思いは切実なものになっていた。そして遂に人魚を見つけ出した。
 北欧の名も知られていない島だった。夕陽が水平線に沈む頃、浜辺に人魚が現れた。物語で語られるように美しい女性の上半身と魚の下半身を持っていた。
 彼女はロープで人魚を捕らえた。陸に上げると、人魚はしばらくもがいていたが、やがて動かなくなった。死んでしまったようだったが、不老への思いに取り付かれた彼女にとっては人魚の生死など、どうでもいいことだった。
 すぐに人魚の肉を食べた。人魚の死体は重りをつけて海に沈めた。無人島のような島だ。誰も気づくはずはなかった。
「遂に不老不死を手に入れたわ」
 何も今までと変わった感覚はなかった。しかし、彼女は人魚伝説を確信していた。
 日本に帰る飛行機に乗った頃、彼女は腹に鈍い痛みを感じた。飛行機が日本に到着した頃には、とても耐えられないほどの激痛になっていた。彼女は苦痛に脂汗をたらしながら、やっとの思いで病院に向かった。

「あの患者さん、どうですか?有名な作家さんですよね?」
「ああ、そうなんだ。それが実に不思議なんだよ」
 一体、何を食べたんですか?医師の質問に彼女は答えなかった。人魚を食べたなどと答えられるはずもなかった。
「全身に毒素が周っている。見たこともないような毒だ」
「とても痛がっておられましたけど」
「ああ、痛いだろう。だが、手のほどこしようがない。普通ならとても生きていられない状態だと思うんだが、彼女が生きているだけで不思議なんだ」
 彼女は確かに不老不死を手に入れていたのだ。これから永遠に激痛を背負ったまま、生きていかなけらばならないのだった。

                                  了


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