Vol.56   何処へ

 夜道を歩いていた。どうしてこんな寂しい所にいるのか。何処へ向かっているのか。分からなかった。灯りも乏しく、ただ薄暗い一本道を歩いていた。自分の靴音がコツコツと響いていた。そして背後から別の靴音がしているのに気づいた。足を止めると辺りはしんと静まり返っていた。後ろを振り向いたが、誰もいなかった。
 また歩き出した。何処へ行くのかは分からなかったが、ただ先に進むしかすることがなかった。また背後から足音が聞こえた。振り返って見ても誰もいない。気味が悪くて、足を早めた。もう一つの足音も早く鳴った。立ち止まり、振り返っても誰もいない。怖くなって走った。別の足音も走り出した。
 そこで目が覚めた。夢だったのだ。しかし、安堵したのは一瞬だった。辺りは明るかった。それだけでも夢の中の夜道よりはましだ。しかし、ここが何処か分からなかった。夢から覚めたはずなのにベットの中ではなかった。果てしなく続くと思われる野原の中に立っていた。
 辺りには誰もいない。何もなかった。こんなところに突っ立っていても仕方がない。とにかく何処かに出なければ。そう思って歩き出した。
 いくら歩いても、辺りの景色は変わらなかった。足が棒のようになっていた。喉がカラカラだった。こんな広い平原が存在するのだろうか。一体ここは何処なのだろうか。不安になった。そして目が覚めた。
 またしても安堵したのは一瞬だった。まったく見たこともない町並みが並んでいた。普通の街中だったが、知らない場所だった。何故、夢から覚めたというのにベッドの中ではないのだろう。それ自体が不思議だった。
 ただ嬉しいことに人の姿があった。駆け寄って、ここが何処か尋ねようとした。しかし、その人は凍りついたようにまったく動かなかった。いくら声をかけても無駄だった。他にも人の姿はあったが、誰もが動きを止めていた。時間の止まった空間に一人だけ取り残されたようだった。
「ここは何処なんだ!」
 思い切り叫んだ。そして目が覚めた。
 もはや一瞬も安堵はできなかった。自分が立っている空間は何というのだろう。まるで宇宙空間のようだった。その何もない空間をフラフラと歩いていた。まだ夢の中なのだろう。そう思った。
 そしてふとあることに気づき、愕然とした。自分が誰なのか。分からなかったのだ。名前も覚えていない。どんな姿なのかも思い出せなかった。恐怖のあまり絶叫した。そして目が覚めた・・・。

「もう1年になるのね」
「そうね」
 看護婦たちが話していた。
「治る見込みはないんでしょう?」
「ええ、奇跡でも起こらない限り」
 彼は車で家族旅行に出掛けた。早くに両親を亡くし、身寄りのなかった彼が、愛する女性と巡り合い、可愛い女の子も生まれ、ようやく築いた幸せな家族だった。彼の運転にまったく非はなかった。居眠り運転をしたトラックが対抗車線から突然飛び込んできたのだ。
「夢は見るのかしら?」
「さあ、植物と一緒なんだから何も考えていないんじゃないの」
 その事故で彼は、一命は取り留めたものの、植物状態となってしまった。再び目が覚めることはまずあり得なかった。彼の妻と娘は即死だった。トラックの運転手も死亡した。彼が生き残ったことが奇跡だった。
「でも、たった一人残されて、何も考えられない方が幸せかもね」
「そうね」
 看護婦たちは、彼が今、どんな世界を彷徨っているのか、知る由もなかった。

                                  了


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