Vol.51   天使のウインク

 今日はラッキーな1日だ。こうして彼女と同じ電車に乗ることができて、しかも彼女は僕の横で・・・。
 ついさっきまでは「何てついてない1日だ」と思っていた。朝の満員電車で、クリーニングしたばかりのスーツに口紅をつけられてしまったのがケチのつき始めだった。
 昼休みに弁当を買いに出たら、僕の直前で、食べようと思っていたハンバーグ弁当が売り切れてしまった。自動販売機でコーヒーを買ったら、紙カップだけ出てきてコーヒーは入っていなかった。もちろんお金は戻って来なかった。気に入っていたボールペンをどこかで落としてしまったらしく、なくなってしまった。
 そして、仕事では大きなミスをしてしまった。先輩に大目玉を食らった。入社してもうすぐ1年になる。来月には後輩も入ってくる。もう新人だからという言い訳は通用しない。それは分かっているし、僕なりに一所懸命に頑張っているつもりだ。それでもミスをしてしまう。最近は、この仕事に向いていないのではないかと思って落ち込んでいる。
 少し残業をした。僕のミスが原因で残業になってしまったのだ。帰りの電車に乗って、見たかったテレビドラマをタイマー録画してくるのを忘れてしまったことを思い出した。もう間に合わない時間だった。
 電車のタイミングが良く、席に座ることができたが、そんなことで気分は晴れなかった。ところが・・・。
 彼女が乗って来て、僕の隣に座った。それだけで僕の心臓は高まった。じきに彼女は寝息を立て始めた。何と僕の肩に首を傾けて眠っている。こんなことは初めてのことだった。僕の心臓は張り裂けんばかりに高鳴った。
 彼女とは帰りの電車でたまに同じ車両に乗り合わせる。僕が降りる駅の一駅手前で降りる。長いストレートの黒髪がよく似合う。大人しそうな感じの美人だ。僕は初めて彼女を見かけたときから好きになってしまったのだ。
 朝の電車では会ったことがない。帰りの時間はいつも同じというわけにはいかないから、彼女に会えるのは週に1度あるかないかだった。初めて会ったときは、次の日も同じ時間の電車に乗るように帰ったが、彼女は乗って来なかった。残念に思ったが、どうしようもなかった。そして何日か後、違う時間の電車で一緒になった。彼女も帰る時間は一定していないようだった。
 それから何度か同じ電車に乗り合わせていたが、だからといって僕には彼女に声をかけられるような勇気はなかった。ただ近くから彼女を眺めるだけだった。今までは、彼女にこんなに接近したことはかった。
 彼女の髪はとてもいい香りがした。落ち込んだ気分がすっかり吹き飛んでしまった。この出来事で今日は最高にラッキーな1日に変わった。ところが・・・。
 電車が止まり、何人かが降りて何人かが乗って来た。ふと前を見ると一人の老婆が立っていた。すごく痩せていて、髪はすべて白髪で、背中が少し曲がっている。どうしても席を譲らなければならないという雰囲気だ。
 狸寝入りをしてしまえと、僕の頭の中で悪魔が囁いた。ほんの一瞬、そうしてしまおうかと思ったが、すぐに天使が出てきて、僕はしぶしぶ席を立った。
 おばあさんはニッコリと笑顔を浮かべ、おじぎをして、席に座った。僕は心の中で泣きながら、笑顔を返した。
 僕が立ったので彼女は目を覚ましてしまった。「悪いわねえ」とおばあさんは彼女に話しかけた。彼女は「いいえ」と答えた。彼女の声は初めて聞いたが、とても優しそうな素敵な声だった。
 それをきっかけに、おばあさんは彼女と話し始めた。気軽に彼女と話しができるなんて羨ましい限りだ。僕は何気なくおばあさんと彼女の話しに聞き耳を立てた。他愛のないお喋りだったが、彼女のことが少しだけ分かった。席を譲って良かったなと思えた。
 おばあさんが僕に手で合図をしている。彼女の横に座っていた人が電車を降りて、席が空いたのだ。僕に座れと言っているようだ。また彼女の隣に座れるのだ。僕は慌てて席に着いた。
 おばあさんが僕に笑顔を向けた。僕も笑顔を返した。そして彼女と目が合ってしまった。僕は彼女に会釈をした。彼女も会釈を返してくれた。
 僕はどうしていいか分からなかった。困って、おばあさんの方を見た。おばあさんは目を閉じている。眠ってしまったようだ。首が彼女の肩に傾いた。また彼女と目が合ってしまった。彼女が微笑んだ。僕も笑顔を返した。「たまにお会いしますよね」彼女が言った。
 それから彼女とお話をした。不思議と自然に話すことができた。あっという間に彼女が降りる駅に着き、席を立った。「じゃあ、また」彼女はそう言った。
 おばあさんがきっかけとなって彼女と知り合うことができた。短いお喋りだったが、とてもいい感じだったと我ながら思う。最高の1日になった。
 今度は僕の降りる駅に着き、僕は席を立った。おばあさんの方を見た。おばあさんは片目を開けて、ウインクしていた。

                                  了


BACK