Vol.43   恋人

「ただいまー」
 彼女は突然、元気に帰って来た。
「ごめんね。遅くなって。すぐ食事の支度をするから」
 とても可愛い彼女である。そのままグラビアの表紙を飾ってもおかしくないほどのアイドル顔でスタイルも抜群だ。もちろん俺の好みのタイプである。
 しかし、問題は、一人暮らしでエリートでもないごく普通の会社員で、ルックスだってお世辞にもいいとはいえない俺に、こんな素敵な彼女は似合わないということだ。いや、世の中いろいろだから、別に似合わなくてもいいではないかとも思うが、しかし、実際に彼女は私の彼女ではない。見も知らぬ女性なのだ。それが問題だ。
 彼女は1LDKの狭いキッチンで甲斐甲斐しく働いている。まるで勝手知ったる我が家のように。エプロン姿も可愛い。鼻歌なんかを口ずさむ仕草も可愛い。
 突然、俺の部屋に入って来た見知らぬ人がむさくるしい男だったら、怒るなり、驚いて逃げ出すなり、対応のしようもあっただろう。しかし、可愛い女の子がごく自然に入って来たので、俺はどう対応していいのか分からなかった。
 「はい、お待たせ。ヒロシの好きなビーフシチューよ」
 彼女は俺の名前も、食事の好みまで知っていた。ビーフシチューからはいい匂いが漂い、とてもうまそうだ。彼女が誰だっていい。例え毒が入っていてもいい。俺はそんな気持ちになってスプーンを手にした。
「う、美味い」
 毒など入っていなかった。それどころか今まで二十数年間生きてきた中で、こんなに美味いものは食ったことがないというほどの美味さだった。
「本当、良かった」
 彼女は不安げに俺の様子をうかがい、俺の一言ではじけるような笑顔になった。その仕草がたまらなく可愛かった。
 食事をし、ビールを飲みながら話をした。彼女は俺の平凡でつまらない話も興味深々で聞いてくれた。俺が話しに詰まったときは、可愛い声で適当な話題を提供してくれた。
 初めは、いろいろと考えた。彼女は本当にアイドル歌手か何かで、これはドッキリなのではないか。でも、何で俺が選ばれたのか。彼女はちょっと頭がおかしくて、俺の彼女だと思い込んでいるのではないか。そもそもこれは夢なのではないか。
 しかし、彼女と話すうちにそんなことはどうでもよくなった。これが夢なら覚めないで欲しかった。
「さあ、もう寝ましょう」
 あっという間に時間が過ぎ、時計は十二時を回っていた。俺は歯を磨いてベットに入った。すると彼女もベットに潜り込んできた。
「ねえ」
 俺の手を握り、妖しげな笑顔を見せた。まさか、そんなことまで・・・以下は省略するが、俺は夢のようなひと時を過ごし、ぐっすりと眠った。
 翌朝、目が覚めて、ハッとした。俺の横に彼女はいなかった。やはり夢だったのかとがっかりしたが、キッチンから味噌汁のいい匂いがしてくるのに気づいた。そしてエプロン姿の彼女がやって来た。
「お寝坊さん、早く起きないと遅刻するわよ」
 そして目覚めのキスをしてくれた。もちろん一発で目が覚めた。
「行ってらっしゃーい」
 食事が終わると、彼女は会社に行く俺を元気に見送ってくれた。
 会社に着いても仕事など手につくはずがなかった。本当は会社など休んで、すっと彼女と一緒にいたかったくらいだ。俺は終業を告げるチャイムと同時に会社を飛び出した。
「お帰りさーい」
 彼女がいるかどうか不安だったが、彼女はいてくれた。そして昨夜同様の素敵な時間を過ごした。
 こうして俺たちの新しい生活が始まった。夢のような日々だった。初めはいろいろ戸惑ったが、もはや彼女がいることが当たり前になっていた。
 人は勝手なもので、そうなってくると些細なことで言い争ったりするものだ。原因は本当にくだらないことだったと思う。たぶん俺が悪かったのだ。
「どうして分からないかなあ」
「ごめんなさい。でも・・・」
 それでも彼女は怒ったりしなかった。それなのに俺は言ってしまった。
「だいたい、君は誰なんだ」
 彼女はすごく悲しそうな顔をした。今までにそんな顔を見たことはなかった。
「どうしてそんなことを言うの。せっかくうまくいっていたのに」
そして彼女は部屋を出て行った。

 あれから1ケ月が経つ。彼女は戻って来い。もう二度と戻って来ないだろう。それでも俺は名も知らぬ彼女のことを待っている。あんなことを言ってしまったことを後悔しながら・・・。

                                  了


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