Vol.38   起承転結

 起きて鏡を見た。最初は気がつかなかった。まだ寝ぼけていたのだろう。顔を洗ってもう一度鏡を見た。何か変な感じがした。目をこらして鏡の中を覗きこんで、ようやく気がついた。そこには見知らぬ顔が写っていた。
 一体どういうことだろう。俺は混乱した。そして自分がまったく見知らぬ部屋にいることに気づいた。
 昨日は金曜日で、今日は会社が休みなので、かなり飲んだ。途中から記憶がない。誰かの部屋に泊めてもらったのだろうか。それはあり得る話しだ。しかし、自分の顔が見も知らぬ他人のものになってしまうなどあり得ないことだ。部屋にいるのは俺だけだ。辺りを見回したが、やはりまったく知らない部屋だった。
 部屋の中を調べてみた。ベットの脇に置いてあった鞄の中から定期入れが出てきた。その中に免許証が入っていた。その写真には鏡で見た顔があった。どうやら俺は見知らぬこの男になってしまったらしい。

 承りました。彼がそう言ってくれたときにはホッとした。あれから、どうしたらいいのか途方に暮れたが、俺なりに現状を打破するため努力はしてみた。まず俺の部屋に行ってみた。俺がいたとしたら、それはそれで恐ろしい結果ではあったが、俺は留守だった。
 会社にも行ってみたが土曜日で誰もいなかった。友人を訪ねてみたが、彼らは俺が俺であることに気づかなかった。当然のことだ。まるっきりの別人がいくら俺だと言ってみても気違い扱いされるだけだろうから、適当に誤魔化して帰ってきた。
 そんなこんなで一日が終わってしまった。幸いにして財布が見つかり、中には数万円の現金が入っていたので、食事をしてビールを飲んで寝た。とても飲まずには寝れないと思ったのだ。しかし、まったく酔えず、ほとんど眠れぬうちに夜が明けた。
 相談するべき人も思い付かず、配達された新聞に目を通した。「何でも屋」の広告があった。どんなことでも承ります。そのコピーに俺は、藁にもすがる思いで飛びついたというわけだ。
 書いてあった電話番号に連絡し、どう話していいのか分からなかったので、オフィスを訪ねることにした。そして俺の身に起きたことをありのまま話した。どんな反応をされるか心配だったが、彼は「承りました」と言ってくれた。
 何か分かり次第連絡をくれるということになった。今は何でも屋の彼に頼るしかないのだ。

 転んだ。何でも屋のオフィスを出て、階段を踏み外した。腰をしたたか打った。強烈に痛かった。あざになっていることだろう。しかし、しばらくじっとしていたら痛みが引いてきたので骨には異常はないようだった。
 そして俺は思い出した。昨夜の出来事を。腰の痛みなどすっかり忘れて、ある場所に走った。そこには俺がいた。

 結局こういうことだったのだ。酔った俺は飲み屋からの帰り道にある階段で転んだ。その時、やはり酔っ払って歩いていた男ともつれて階段を転がり落ち、その拍子に心と体が入れ替わってしまったのだ。科学的にはあり得ないことだろうが、そんなことは知ったことではない。現に入れ替わってしまったのだから。
 俺と同じく、もう一人の男もそれを思い出し、その階段にやって来たというわけだ。俺たちはもう一度、一緒に階段を転げ落ち、無事に元の体に戻ったというわけだ。体中にあざが残ったが、それくらいどうということはない。

                                  了


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