Vol.37   鈴木一郎

 残業で遅くなった。最近は仕事もうまくいかないし、何もかもついていない。彼女とも些細なことで喧嘩して別れてしまった。パチンコをすれば、両隣がジャンジャン出しているというのに俺だけ大敗する。深夜バスも終わってしまったが、金もなく、家まで三十分も歩かなければならないという有り様だ。
 うぅー。うめき声が聞こえた。人気はないし、薄暗かったのでドキリとしたが、見ると電柱の影に男が一人、うずくまっていた。苦しそうな顔をして、胸のあたりを押さえている。スーツ姿で、身なりはきちんとしていた。かなりの高齢のようだ。
「大丈夫ですか?」
 あまり変なことには関わりたくないと思ったが、さすがに放っておけず、声をかけた。
 老人は震える指で地面に落ちている鞄を指した。蓋が半分開いており、中に薬ビンが見えた。
「これを出すんですね?」
 俺は薬ビンを取り出し、中の薬を老人に渡してやった。老人は薬を飲むとしばらくじっとしていたが、徐々に表情が和らいでいった。
「いや、助かりました。持病なんですが、急に苦しくなって、あなたが通りかかってくれなかったら、大変なことになっていました」
「いえ・・・」
 老人はすっかり元気になった様子だった。
「私、こういうものです。まったく何とお礼を言っていいか」
 老人は一枚の名詞を差し出した。鈴木一郎というごく平凡な名前が書いてあった。肩書きは鈴木商事社長とある。
「いや、気にしないで下さい」
 老人があまりに丁寧に礼を言うので、俺は照れくさくなった。
「何かお礼をしないと、でも何をすればいいか・・・」
「いえ、本当にそんなお気遣いは・・・」
「そうだ。その名刺を自由にお使い下さい。きっと役に立つはずです」
「はあ」
 確かに社長という肩書きは俺に比べれば立派なものだが、こんな名刺が一体何の役に立つというのだろう。まあ、もらった名刺を捨てるのも失礼だし、俺は名刺を胸のポケットにしまった。
「本当にありがとうございました」
 老人は深々と頭を下げて礼を言うと立ち去っていった。次の日、俺はいつものように仕事で外回りをしていた。営業の仕事だ。このところあまり契約が取れずに課長から嫌みばかり言われている。電車を降りて、改札を抜けようとしたが、切符が見当たらない。
「どうしました?」
 ポケットを探っていると駅員が声をかけてきた。
「いや、切符が・・・」
 胸ポケットに一枚の紙が入っていた。取り出してみると、昨日の名刺だった。ここに名刺が入っていることなどすっかり忘れていた。今、必要なのは名刺ではなく、切符なのだ。
「ああ、鈴木様ですか。どうぞお通り下さい」
 名刺を見た駅員が意外なことを言った。俺は不思議に思いながらも、駅員に笑顔で送られ、俺は駅を出た。 本当に名刺が役に立った。あの老人はこの路線の社長なのだろうか。それにしても名刺を見せただけでフリーパスなんてことがあるのだろうか。とにかく助かった。人助けはするものだ。
 俺は何かいい気分になって、約束していた会社に乗り込んだ。新規のお客様で、電話で話した感じでは好感触だった。何としても契約に結びつけたい。
「初めまして、こういうものです」
 担当者に名刺を渡して、すぐに俺は間違いに気がついた。鈴木一郎の名刺を出してしまったのだ。慌てて取り替えようとしたが・・・。
「ああ、鈴木さんでしたか。わざわざお越しいただくなんて恐縮です」
 相手はまたも意外なことを言った。話しはとんとん拍子で進み、大型の契約が成立した。どうやら鈴木一郎の名刺には大変な威力があるらしい。
 俺は試しに、飛び込みで新規の企業に入り、営業をしてみた。迷惑そうな顔をした担当者が鈴木一郎の名刺を見せたとたん表情を変える。そして契約に応じてくれるのだ。
俺は会社に戻り、契約書を課長に渡した。課長は目を丸くしていた。実に気分がいい。鈴木一郎様様だ。
 翌日は車で移動しながら、外回りをした。鈴木一郎の威力は相変わらず抜群で、既に新規の契約が3件取れた。この分なら今月の営業成績ナンバー・ワンどころか、会社が始まって以来の記録も更新できるだろう。
 訪問先の会社を出て、車に戻ると、警察官が立っていた。駐車禁止の取り締まりのようだ。しかし、俺は慌てることなく、鈴木一郎の名刺を差し出した。
「やっ、鈴木一郎か?」
「ええ、そうです」
「間違いないな」
「ええ」
 やはり警察官も鈴木一郎の名刺に激しい反応を見せた。駐車違反など簡単に許してくれるだろう。
 ガチャリ。しかし、警官は俺の手に手錠をかけた。
「指名手配から十数年、やっと見つけたぞ、鈴木一郎。これまでの悪行の数々から死刑は免れないだろうな」

                                  了


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