Vol.36   鍵

 古ぼけた木製のドア、小さな鍵穴が空いている。そこに鍵を差し込む。カチリと音がする。錆かけた金属製のノヴに手をかけ、ゆっくりと回す。 ドアがギーッという音を立てて開く。
 そこで目が覚めた。いつもの夢だ。冬だというのに汗びっしょりになっている。私はあのドアを開けるのが恐い。薄暗い場所だった。とても辛気臭い部屋だ。幽霊でも出そうな雰囲気だ。だからといって大の大人が怖がるような夢ではない。私には何故、この夢が恐いのか分からなかった。そして何故、毎日のようにこの夢を見るのかも分からなかった。
 夢を見るようになったのは半年ほど前からだろうか。以来、この夢にうなされて目が覚めるという日々が続いている。目が覚めるのはもともと起きようと思っていた時間である。だから寝不足になるわけではない。目覚し時計の必要がなくて便利と割り切っている。夢を見ているときの不安感、目覚めたときの不快感さえ我慢すれば、大した問題ではない。
 誰かに相談してみようかとも思ったが、心理学者の知り合いなどいないし、精神病だと思われるのも嫌だ。とりあえず気にしないことにしている。
「旦那様、お目覚めですか?」
 執事が朝食を持って来た。私は充分過ぎる親の遺産を受け継ぎ、何不自由なく暮らしている。家族はいないので、十年来、この家に仕えている執事との二人暮らしだ。いくつかの会社の会長を務めてはいるが、どれも名ばかりのもので、会社に顔を出すのは週に一度もないくらいだ。悠々自適の生活である。
 ベットから出て、ガウンを着る。足元に小さな鍵が落ちているのが目に止まった。夢に出てくるのと同じ鍵だった。
 さすがに私は愕然とした。一体どういうことなのだろう。私は恐る恐る鍵を拾った。鍵は確かに手の中に存在している。
 私は執事に朝食はいらないと断り、家中の鍵穴を捜し歩いた。のんびりと食事などしている場合ではない。  大きな屋敷である。二人で住むには広すぎるほどだ。普段は入ることのない部屋がいくつもあった。しかし、この鍵に合う鍵穴は何処にもなかった。
 スーツに着替え、私が会長を務める会社に行ってみた。会長室に入って、鍵穴を捜したが、見つからなかった。もう夜になっていた。
 そして私はある場所を思い出した。以前、私が住んでいたアパートだ。私は頭が混乱した。私はあの屋敷で生まれたはずだ。今まで別の場所に住んでいたなどという記憶はなかった。
 しかし、今は古びたアパートがはっきりと脳裏に蘇っている。タクシーに乗り、その場所に向った。何処にあるかも分かっているのだ。
 そしてアパートは確かに存在した。かなり古いアパートだった。取り壊し寸前のようだ。誰も住んでいないようだった。
 階段を上り、ある部屋の前に立つ。私はこの部屋を知っている。夢に出てくる部屋だ。鍵穴もある。私は鍵を取り出して、鍵穴に差し込んだ。カチリと音がした。夢と同じだ。錆びたノブをまわすと、ゆっくりとドアが開いた。
 私はこの部屋を知っている。ここに住んでいた記憶がある。しかし、矛盾している。大富豪の家に生まれた私がこんなボロアパートに住むわけがない。
「驚いたな、こんな時に、こんな所で」
 背後で声がした。振り向くとひとりの男が立っていた。男は刑事だった。彼の話しを聞いて、私はすべてを思い出した。
 私はこのアパートに住む貧乏な男だったのだ。たまたま大富豪の男と知り合った。彼は長い間、海外に住んでおり、親が亡くなったので日本に戻って来たばかりで、誰も彼のことを知る人物がいなかった。私は彼に成りすまし、彼の財産を手に入れることができると思い、彼を殺害して入れ替わったのだ。
「おまえの演技は見事だったよ」
 ひょんなことからこの刑事は私に疑いを持った。しかし、証拠が見つからず、私の犯罪を立証することができなかった。
「半年ほど前、死体が見つかった。白骨化していたが、お前が成りすました男だった。今の科学捜査は馬鹿に出来ないなあ。もう一度捜査をやり直して、だいぶ証拠が固まってきたよ」
 私は罪悪感からなのか、自分の心理状態は分からないが、その男を殺したことも、別人に成りすましたことも完全に忘れていたのだ。完璧に演じることができたはずだ。しかし、私はすべてを思い出してしまった。
「今夜0時で時効が成立するはずだった。ぎりぎり間に合ったよ」
 刑事が誇らしげに言った。

                                  了


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