Vol.34   花

 まったく馬鹿な真似をしたものだ。女は裏切るものと決まっている。それは充分に分かっているはずだった。しかし、こいつだけは違うと思ってしまうのだ。あるいは、こいつのためなら俺はどうなろうといい。例えこいつに裏切られても、それでも俺はこいつのわがままを聞いてやりたい。という気持ちもあるのだろう。
 まったく俺はつくづく馬鹿な男だ。両親の離婚、貧しい家庭、そして喧嘩に明け暮れた日々。高校を中退し、ヤクザまがいのことをして何とか食いつないで十年。絵に描いたような転落人生だ。
 親のせいにする気も、世間のせいにする気も、俺を裏切った女たちのせいにする気もない。俺が選んだ俺の人生だ。糞みたいな人生だったが、きっと俺はこういう星の下に生まれてきたのだろう。それでも今まで何とかやってきた。しかし、どうやら俺は今度こそ、とことん追いつめられてしまったようだ。
 たった五百万の金だ。それでもその金であいつと一緒に人生をやり直そうと思ったのだ。しかし、あいつはすべての金を持ってトンズラした。金はヤクザを騙して巻き上げた金だ。俺は無一文でヤクザに追われるはめになった。もちろん金を返すあてはない。指をつめるくらいで許してくれればいいが、面子を大切にするヤクザのことだ。保険金でも賭けられてフィリピンあたりで殺されることになるだろう。それが嫌なら銀行強盗でもやるしかない。
 とにかく俺はヤクザから逃れ、ひっそりと暮らしていた。いつまで逃げられるかは分からない。ボロアパートに潜り込み、日雇のバイトで食いつなぐ毎日だ。いつまでこんな生活が続けれれるものなのだろうか。野たれ死ぬのもいいだろう。ヤクザに見つかっ
たら、その時のことだ。俺はもうすべてがどうでも良くなっていた。
 ふと窓の外を見た。素晴らしい景色が開けているわけではない。路地裏が見えるだけだ。いつの間に咲いたのだろう。壁際に花が一輪咲いていた。今までまったく気がつかなかった。赤い小さな花だが、何という種類かは俺には分からない。少ししなびて元気がなかった。
 俺は何故かその花に心引かれた。とても美しい花だった。こんな日陰にひっそりと元気なく咲いているのが、自分の境遇とダブったというのもあるだろう。俺はコップに水を汲んできて、花にかけてやった。そして今日の仕事を捜すために部屋を出た。
 それから毎朝、俺は窓からその花に水をやるのが日課になった。そのためにじょうろまで買ってきた。花は少しずつ元気ななっているようだった。
 その花を眺めるのが俺の人生で唯一の楽しみになった。図書館に行き、植物図鑑を調べてみた。まったく俺らしくない行動だ。隅から隅まで図鑑を見たが、その花は載っていなかった。
 花はすっかり元気になった。赤い美しい花が綺麗に開いていた。俺は何だかすごく幸せな気分になった。
 次の日、いつものように窓の外を見て、俺は愕然とした。あの花がなくなっていた。跡形もなく消えていた。俺は今まで味わったことのないような深い絶望を感じた。どの女に裏切られたときよりも大きな失望感だった。一体、俺はどうしてしまったのだろう。たかが花ごときで、まったく俺らしくない。何をする気にもなれなかったが、今日のメシを食うためには仕事に行かなければならなかった。
 部屋に戻ると、見知らぬ女性がいた。赤い服を着た美しい女性だった。彼女はまるで俺のことを知っているように、ずっとここで一緒に暮らしているかのように振る舞った。食事を作ってくれた。くだらないお喋りをした。そして愛し合った。俺は頭がおかしくなって幻を見ているのかと思った。夢を見ているのかと思った。夢ならば覚めないでくれと思った。
 翌朝、目が覚めたとき、俺の腕まくらで寝ていたはずの彼女はいなかった。やっぱり夢だったのかと思った。いい夢を見た。そう思った。
 部屋のドアが激しく叩かれた。ドアを蹴破り、やつらが現れた。
「捜したぜ。手間とらせやがって」
 遂にヤクザに見つかったのだ。ぼんやりと彼らの顔を見つめる俺の腕を取り、無理矢理立たされた。
「さあ、行こうか。落とし前をつけてもらうぜ」
 ヤクザの言葉をぼんやりと聞いた。何も考えられなかった。部屋を出る前に窓の外を見た。また、ひっそりとあの赤い小さな花が咲いているのが見えた。俺は嬉しくなって微笑んだ。
「お礼がしたかったから」
 昨日の彼女の声がした。あの赤い小さな花が喋っているようだった。

                                  了


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