Vol.29   遠い日々

「隆之、静かにしてなさい」
 たしなめる妻も心なしか急な旅行を楽しんでいる雰囲気があり、子どもながら敏感に察知した息子は言うことを聞かない。
 私でさえ、こうして堂々と会社を休めることを嬉しく思っているくらいだ。彼らがはしゃぐのも無理はなかった。新幹線の中もそれほど混んではいないので少しくらい子どもが騒いだところで問題はないだろう。
 祖父が亡くなった。97歳だったから大往生である。葬儀に参加するため新潟まで行くことになった。私の父方の祖父だったが、両親も祖父と同居しているわけではなく、新潟の家を訪ねるのは30年ぶりになる。
 小学生の頃は夏休みには決まって、祖父の家に遊びに行った。東京に生まれ育った私にとって、田舎で過ごす1週間ほどの夏休みは最も楽しい行事だった。山の中を走り回り、泥んこになって遊んだものだ。祖父も祖母も優しかった。祖母も90歳を超えているが、今だに健在だ。
 中学に上がると、自然と新潟の家から足が遠のいた。家族旅行がわずらわしくなってきたということもあるが、何となく行きたくない理由があったような気もする。ともかく以来、新潟の家には行っていなかった。当然、妻も息子も祖父母には会ったことがない。そんな遠い人の不幸を悲しめと言っても無理な話しだ。

「よく来たね。まあまあ立派になって」
 祖母は元気に私たちを迎えてくれた。祖父の死にもそれほど気を落としている雰囲気ではなかったので安心した。
 建物も庭も、あの頃と変わっていないようだ。おぼろげながら記憶が蘇った。ふと気がつくと、門のところに黒猫が1匹いて、私の方をじっと睨んでいたので、私は震えあがった。私は猫が大嫌いなのだ。それを知っている妻が気づき、猫を追い払ってくれた。
 家にあがり、祖父に挨拶をした。安らかな顔をしていた。まるで眠っているかのようだ。まったく苦しまずに、静かに息を引き取ったということだった。
 既に集まっていた両親や親戚たちとも挨拶を交わし、荷物を置いて、私はふらっと裏口から表に出た。そのまま辺りを歩く。子どもの頃、よく遊んだ場所で、懐かしさが込み上げてきた。
 古い井戸があった。その井戸についての記憶もあった。見るまではまったく忘れていたが、確かにそこに井戸があった。何かよくない思い出があったような気がする。
 視線を感じた。黒い猫が私を見つめていた。先ほどの猫と同じような猫だったが、猫なんてどれも大差はないから、先ほどの猫かどうかは分からない。
 そして私はすべてを思い出した。ここに来るのを避けていた理由も、私が猫を嫌いな理由も。
 子どもの頃、私は井戸に猫を静めて遊んでいたのだ。猫を捕まえては井戸に放り込んだ。ギャーギャー泣き叫ぶのも構わず、さらに上から石を投げ込んだりした。やがて猫は静かになった。まったく悪気はなかった。無邪気な子どもの遊びだった。
 黒猫はまだ私を睨んでいた。その目に急かされるように、私は恐る恐る井戸に近づいた。入口が塞いであった。もう枯れ井戸になっているのだろう。
 私はその木の蓋をはがそうとした。一方では何故そんなことをするのだと問いかける自分がいたが、どうしてもそうせずにはいられなかった。
 無理矢理、蓋を剥ぎ取り、私は中を覗いた。井戸の奥から何か黒いものがじわじわと這い上がってきて、私の首をつかんだ。声を上げる暇もなかった。そのまま井戸の中に引き込まれ、頭から底に叩き付けられ、首の骨が折れた。

                                  了


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