Vol.28   後ろの正面だあれ?

 もっと近くに引っ越そう。−−−私は思った。契約社員で給料も高くはなかったので、とても都心には住めないだろうが、会社の近くにすれば、こんなに遅い時間になることはないだろう。アパートまで、駅から徒歩で十五分かかる。今度はもっと駅から近い所にしたい。やはり女性の夜道の一人歩きは危険だ。
 契約社員の私はいろいろな会社に派遣される。辺ぴな場所ではあるが、以前に通っていた会社に近いということでここに住んでいた。もちろん予算の都合もあった。ところが勤務先が変わって遠くなってしまった。ちょっと遅くなっただけでも電車の乗り継ぎが悪くなり、駅に着くのは夜の十一時を過ぎてしまう。そしてこの時間となると人通りがまったくない。静まりかえった、薄暗い道のりを女一人で歩くのはとても心細かった。
 そんなことを愚痴ってみても仕方がない。私は意を決して無人の駅を出ると家路を急いだ。せめてもう少し街灯を多くしてくれればいいのだが、静かな上に薄暗く、とても不気味な感じがするのも嫌だった。
 珍しく、前から人が歩いてくる。私は一瞬ハッとしたが、腰の曲がった老婆だったので安心した。同時に何故こんな老人が夜道を一人歩きしているのだろうと疑問に感じた。
 老婆との距離が縮まる。老婆は私の顔をじっと見ている。気味が悪いので私は目を伏せて、足早に通り過ぎようとした。
「決して振り向いてはいけないよ」
 すれ違いざま、しわがれた声で、しかし、はっきりと老婆が言った。あまりに突然のことで、私は驚き、一瞬、立ち尽くした。振り返って、通り過ぎていった老婆に何を言っているのか尋ねようと思ったが、振り向いてはいけないという老婆の言葉が気になり、思いとどまった。
 訳が分からず嫌な気分だった。私は早足でアパートに向かった。しかし、振り向くなと言われれば振り向きたくなるのが心情というものだ。私は後ろが気になって仕方がなかった。
 自然と歩みが早くなり、私はほとんど走るようにして家を目指した。困ったことに、背後からコツコツという小さな足音が聞こえてきたような気がした。あんな訳の分からないことを言った老婆を恨めしく思った。
 アパートが見えてきた。私は後ろを振り向いて、誰もいないことを確認したいという欲望を必死に押さえ、走った。
 階段を駆け上がり、部屋の前に立つ。バックの中から鍵を取り出そうとしたが、気が焦って、なかなか見つからない。
 その時、階段を上がってくる足音が聞こえた。私は心臓が止まりそうなほど驚いた。足音はどんどん近づいてくる。やっと鍵を見つけたが、手が震えてうまく取り出せない。
 足音が止まった。私の背後に誰かが立っているという気がした。やっと鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。ガチャリという音がして、ロックが解除されたのが分かる。
 ここまでくればもう安心と思った私は、どうしても我慢が出来なくなり、後ろを振り向いた。
「キャー」
 そこには・・・。

 今となっては彼女がこの世で最後に見たものが何だったのか、誰にも分からなかった。老婆が何者だったのか、老婆の言葉を守り、振り向きさえしなければ助かったのかどうかも分からなかった。

                                  了


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