Vol.25   天と地と男と女と

 彼は何かに導かれるようにして歩いていた。ここが何処かは分からない。そもそも今まで何をしていたのかも分からなかった。ただ、向かうべき所は何となく分かっていた。
 実際、彼はたった今、この世に生を受けたばかりなのだ。過去の記憶などあるはずがなかった。ただ本能の赴くままにある場所に向かっているだけだ。
 どれくらい歩いただろうか。何もない地面に丸い穴がぽっかりと口を開けていた。彼はその穴の前で立ち止まった。立ったまま穴の中を覗き込む。果てしないと思われるような空間が広がっていた。
 彼は自分がこの穴を目指して歩いていたことが分かっていた。自分がとるべき行動も分かっていた。ただ、この空間の先に何があるのかは分からなかった。彼は穴の中に身を投げた。
 彼はゆっくりと落下した。落下するという概念自体を彼は知らなかった。ゆっくりという感覚も知らなかった。この先、自分がどうなるのか、不安はなかった。そもそも不安という気持ちを知らないのだ。自分は穴から落下するべきなのだ。その行動だけを体が覚えていた。

 彼女は空を見上げた。無限とも思われる空間が広がっていた。彼女は無限という言葉も空間という言葉も知らなかった。彼女はたった今、生まれてきたばかりなのだから。ただ、自分が何処に向かうべきなのかを感じているだけだ。彼女は大空に向けて飛び立った。

 彼はゆっくりと落下していた。何もない空間がただ広がるだけだったが、遥か下方に何かがいるのを感じた。それこそが彼が待ち望んでいたものだった。

 彼女は天に向かって飛び続けた。そして遥か上空に小さな黒い点が見えた。それが徐々に自分に近づいて来るのが分かる。自分がそれに近づいて行くのが分かる。

 彼は彼女をはっきりと肉眼で捕らえた。自分が彼女と出会うために落下していたことが分かった。

 彼女は彼に抱きついた。彼と出会うため、自分が天に向かっていたことを理解した。

 二人は抱き合い、そして交わった。

 二人はしっかりと抱き合ったまま、満ち足りた気分で時を過ごした。しかし、いつまでもこうしているわけにはいかないことが分かっていた。やがて、彼女は彼のもとを離れ、再び天に向かって飛び立った。彼はそのまま落下を続けた。

 地面が見えて来た。彼の旅も終わりに近づいている。

 彼女のお腹は大きく膨らんでいた。ときおり痛みを感じたが、彼女はそれよりもいとおしさを感じていた。

 彼は地面に達した。その衝撃で地中にめり込んでしまったほどだ。彼の命が残っているはずはなかった。

 彼女は天に到着した。天空の地に降り立ったとき、彼女にはもう力はほとんど残っていなかった。

 雨が降った。地面に埋もれた彼は、もはや原形を留めていなかった。やがて元、彼だった物体は大地に根を張り、芽を出した。花が咲き、その花は一人の美しい女になった。

 彼女は子供を産み落とした。そしてすべての力を使い果たして、息絶えた。子供はあっという間に成長し、たくましい男になった。

 彼は何かに導かれるようにして歩いていた。ここが何処かは分からない。そもそも今まで何をしていたのかも分からなかった。ただ、向かうべき所は何となく分かっていた・・・。

                                  了


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