Vol.9   俺とおれ

 トイレに行きたい。−−もう2時間も我慢している。別にトイレがないわけではない。行けない状況でもない。ただ、明日は中間テストで、ようやく勉強する気になり、ペースが乗ってきたところだった。小便に行ったら、まただらけてしまいそうな気がした。
 しかし、もう限界だった。おれは仕方なく勉強を中断し、トイレに駆け込んだ。
 用を済ませて部屋に戻ると、驚いたことに机に向かって、おれが勉強をしていた。
「な、なんだ?!」俺は思わず叫んだ。しかし、もう一人のおれは、そんなおれには目もくれず、ただひたすら勉強している。
 俺は必死になって頭を働かせた。一体、どういうことなのだろう?
 そしてやっと答えが出た。おれの勉強をしなくてはという意志が、もう一人のおれを作りだしたのだ。そんなことがあり得るのかどうか分からないが、現に目の前にこうしてもう一人のおれがいるのだから、そうに違いなかった。
 最初はかなり驚いたが、そうと分かってしまえば、かえって好都合かもしれない。もう一人のおれに勉強させておけば、おれはいつでも遊んでいられる。幸い、家は夫婦共稼ぎで、両親とも家にいないことが多いし、自分の部屋も持っているから、親の目をあざむくのは楽だった。
 それから1ケ月、おれは毎日遊び惚けた。その間、もう一人のおれが学校に行き、家に帰ると勉強をした。 おれの思ったとおり、もう一人のおれは、おれの勉強をするという意志なわけだから、本当によく勉強に励んでくれた。
 成績がどんどん上がり、親も喜んだ。こづかいも沢山もらえ、おれはさらに遊びまくった。
 それからさらに1ケ月ほどたったある日、おれは鏡を見て、驚いた。おれは何となくぼやけていた。影が薄いという言葉があるが、まさにそんな感じだった。体も少しだるい。
 それから日がたつにつれて、おれはどんどん薄れていった。意識もぼやけていく。指先などは、今や点滅しているという状態だった。
 おれは薄れていく意識の中で必死に考えた。この2ケ月ほど、おれは遊んでばかりいて、何も考えずに暮らしていた。きっともう一人のおれの勉強をするという強い意志に飲み込まれてしまったのだろう。
 やっと理由が分かって、何となくほっとした。その瞬間、おれは完全に消えた。
 それからもおれは勉強に励み、順調にエリートコースを進んだ。入社した一流企業の社長に見込まれ、彼の娘と婚約した。彼女はとびきりの美人だった。将来の社長の座も手に入れた。これ以上幸福な人生はないだろう。
 しかし、そのとき、おれはもうこの世には存在しなかった。

                                  了


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