Vol.6   ゴキブリ

 俺はゴキブリが大嫌いだ。好きだなんてやつはいないだろうが、俺のゴキブリに対する嫌悪感は誰にも負けないと思っている。築10年以上の安アパートだから、これがまた良く出てくるのだ。やつの姿を見つけたときの身の毛もよだつ思いもさることながら、気づかずに裸足で踏んずけてしまったときのグシャッという感触が俺は忘れられない。恥ずかしながら、そんな地獄のような体験も一度や二度ではないのだ。おまけにやつは空を飛ぶ。いきなり窓の外から飛び込んできて、俺の頭に止まったことも数しれない。どう考えても、俺は人よりはるかに多く、ゴキブリの被害にあっているようだ。だから俺はどんな人よりもゴキブリを嫌いである気持ちには自信があるのだ。
 しかし、俺が今、おかれている状況は過去のどの経験も比較にならないほどのものだ。俺は予備校生だ。しかも三浪している。だから、人様は夏休みの最中でも、クーラーのない部屋の中で、机に向かって勉強していたのだ。
 ガサゴソ−−厭な音がしたので、振り向いてみると、案の定、そこにゴキブリがいた。しかし、ただのゴキブリではなかった。全長でゆうに1メートルは超えていると思われる超特大ゴキブリだった。
 驚いたなんてものではない。声も出ないし、動くことすら出来なかった。それに、逃げようにも、ドアの前にやつが、でんと構えているのだからどうしようもなかった。
 しばらくぼんやりとゴキブリを見つめていた。思考能力はかなり麻痺していた。不気味に伸びる触角、とげとげしい6本の足、黒光りするボディー、紛れもなくゴキブリであった。
 その巨大ゴキブリもまったく動こうとしなかった。俺は徐々に冷静さを取り戻し、この状況を脱することを考えた。ここは3階だから、窓から飛び降りるわけにはいかない。ドアの前にはやつがいる。となれば、あの化け物を退治する他はない。
 俺は覚悟を決めて、引き出しの中に用意してあった殺虫剤を取り出し、やつに吹きかけてみた。1巻が空になったのに、やつはびくともしなかった。俺は参考書を投げつけた。それでもやつは動かない。時計、ラジカセ、机の上にあったものを手当たり次第に投げつけたが、相変わらずやつは悠然としている。
 俺は引き出しを開けて、中の物を投げつけた。引き出しも引っこ抜いて投げつけた。それでも、あの化け物には、まったくこたえていないようだ。
 俺はパニックに陥っていた。そして手の中にマッチ箱をつかんだとき、ある考えが浮かんだ。いくら、これほど大きなゴキブリでも火には勝てないはずだ。俺は震える手で、マッチを擦って、投げつけた。何本も。何本も。俺は汗をダラダラ流し、ケタケタ笑いながら、最後の1本まで投げ続けた。
 ふと正気に戻ると、やつがメラメラと燃えていた。俺は勝ったのだ。しかし、やつの火が床に燃え移り、壁に燃え移った。あっという間に、部屋は炎で包まれた。

「この間のアパート火災の調査結果が出ました」
「おお、どうだった?」
「火元は34号室。ここには東大を目指して三浪中の予備校生が住んでおりまして、近所の人の話しなどから考えますと、受験ノイローゼによる焼身自殺と思われます」

 今となっては、その巨大ゴキブリが彼の幻想か、本当に実在したのか、誰も知ることはできない。しかし、もしもそのゴキブリが実在したなら・・・ゴキブリを1匹見たら、3匹はいると思え。という言葉もある。もしかしたら、今度はあなたのところへ現れるかもしれません。
 ほら、後ろでガサゴソ音がしませんか?

                                  了


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