また夏がやって来るな−−老人は、ガラス越しに差し込む太陽の光のまぶしさに目を細めながら
思った。
もう何十回目の夏だろう。老人は、長年連れ添った妻に先立たれ、子供もなく、ただ一人、この
山奥で喫茶店を始めた。六十歳の夏だった。そのときから年を数えることを止めた。
客はあまり来ないから、老人一人でも十分にやっていけた。生活していくお金に困っていたわけ
ではないから、気が楽だった。
単調で、平穏な毎日だった。老人はもう自分が何回目の夏を迎えようとしているのか分からなか
った。
ただ、夏になると、都会の猛暑から逃れて来る人たちで、この辺も多少は賑やかになる。老人の
店にもその人たちが流れて来る。彼らに、老人が唯一自慢出来るコーヒーを入れる。そして彼らの
会話にぼんやりと耳を傾ける。そんな一時が楽しみだった。だから老人は夏という季節が好きだっ
た。
老人の店の前に、一台のオートバイが止まった。老人はオートバイのことなど分からなかったか
ら、何というの種類なのか知らなかったし、興味もなかった。
ドアが開いて、若い男と女が入って来た。二人とも脇にヘルメットを抱えていた。
夏になると、彼らのようなツーリング客が増える。老人は、オートバイに乗るやつらは不良と決
めてかかっていたが、そうとばかりも言えないことを、この店を始めてから知った。
今、老人の店に入って来た青年も、模範ライダーの一人だった。無理なスピードを出すわけでも
ない。無駄な騒音をたてるわけでもない。彼はただ、オートバイに乗るのが好きなのだ。
彼は、彼女を後ろに乗せて、オートバイに乗っているときが一番幸せだった。
彼女も彼の背中にもたれて、風を感じているときが一番幸せだった。
この辺に来たのは初めてだったが、彼はここを気に入っていた。天気が良いせいもあるだろう
が、風がとても心地よかった。それに、こんな山奥で、こんなにおいしいコーヒーが飲めるとは思
わなかった。
話しをしているうちに、彼女も同じことを感じていることが分かった。また来ようね−−彼が言
うと、彼女はニッコリと微笑んで、頷いた。
コーヒーおいしかったよ−−そう言って、店を出た。老人は嬉しそうに笑った。
再び、オートバイに乗って走り出した。気分はどうだい?−−彼が大声で訊いた。最高よ−−彼
女も叫んだ。そのとき−−
道の真ん中に一匹の野うさぎが走り出した。彼は慌ててハンドルを切った・・・。
また夏がやって来るな−−老人が思ったとき、店の前に一台のオートバイが止まった。ドアが開
いて、一人の青年が入って来た。彼は窓際の席に座って、コーヒーを注文した。
老人は彼のことなど覚えていなかったが、彼は去年、ここへ来たときのことをよく覚えていた。
忘れられるはずがなかった。
青い空、澄んだ空気、そしてコーヒーの味、何もかもあのときと同じだった。
ただ、アイツがいないだけ。
了