Vol.1   ● 穴 ○

「君、ちょっといいかな」
 声をかけられて、振り向いた。俺は街を歩いていると、何かのキャッチセールスなどに捕まるこ とが多い。声をかけ易いタイプというのがあるようで、どうやら俺はその手の人間らしい。それが わかっているのなら、立ち止まらなければいいものだが、どういうわけか、立ち止まってしまうの だ。この間は街の真ん中で千羽鶴を折らされた。
 今回俺に声をかけたのは、口ひげを生やした、白髪混じりの、見たところ五十代後と思われる男 だった。白衣を着ている。これでフラスコでも持たせれば、お笑い番組のコントなどに出てくる何 とか博士そのものといった風貌だ。
 街中を出歩く格好ではなく、一瞬、自分の目を疑ったほど、この場には浮いた存在に思えたが、 忙しく行き来する都会の人々は、俺たち二人に何の注意を向けることもなく通り過ぎていった。
「トンネルを壊すとどうなると思う?」
 見知らぬ男に、突然こんなことを尋ねられても返答のしようがない。例え友達に聞かれたとして も同じことだ。だいたいこんな馬鹿げた質問をする友達は、俺にはいなかった。
「いいかい、トンネルには穴があるだろう。トンネルを壊したら、その穴はどうなると思うかね?」
 沈黙している俺を、男は一瞬軽蔑するような目で見たが、すぐに気を取り直して言った。
「そりゃ、なくなるでしょう」
 これは新興宗教の布教か、新手のキャッチセールスか、俺はそんなことを考えながらも、男の質 問に答えていた。
「私はトンネルを壊すと言ったね。穴を壊すわけじゃない。トンネルを壊したとしても、穴まで壊 れることはない。穴はそこに残るんだよ」
 男は俺の答えを予想していたようで、満足げに頷いてから、ゆっくりと、子どもを諭すような口 調で話した。
「異次元の入り口という言葉があるだろう。SF小説などで耳にしているはずだ。これは作り話の 中だけのものではない。現実の世界にも存在するものなんだ。神隠しといわれている現象は、異次 元の入り口に迷い込んでしまったために起こるものなんだ。つまり、トンネルが壊されて、そこに 残された穴が、異次元への入り口というわけだよ」
 どうやら、あまり関わり合わない方がいいタイプの男のようだ。俺は立ち去るタイミングを見計 らっていたが、男は喋り続けた。
「とは言っても、壊れたトンネルが、正確に言えば残された穴が、すべて異次元につながっている わけではない。それでは危なくて、トンネル工事などできないからね。地球上には空間が微妙にゆ がんでいる場所が存在するんだよ。科学的な説明をしても君には理解できないと思うがね。つまり 、トンネルが壊れて後に残った穴と空間のゆがみ、それが重なった場所に異次元への入り口が開か れるというわけなんだよ」
 俺はこの男が何を言いたいのかさっぱり分からなかったが、男が、見かけ通り科学者、もしくは 自分のことを科学者であると思い込んでいる人物であるらしいことだけは理解できた。
「この理論を確立するまでに長い年月を費やしたよ。まだ世間から認められてはいないがね。自分 の説に確信を持てるまでにはなった。そこで私は異次元の入り口を探す実験を始めた。これがまた 苦心させられた。どうやって実験をすればいいのかとね。社会から認められない科学者の悲しさだ よ。あまり多くの研究費はなかったからね。考えに考えた末、名案が浮かんだ。私はドーナツをた くさん買い込んだんだよ」
「ドーナツですか?」
 あまりの飛躍に俺は思わず相づちを打ってしまった。
「そう、ドーナツだよ。あの丸い輪の形をした食べ物だ。真ん中には穴が空いている。まさに私が 求めていたものだ。ドーナツを吊して固定しておく。そして食べるんだ。その後、ドーナツの穴が ある場所に小石を投げる。小石が消えてしまえば、そこに異次元の入り口ができた、小石は異次元 の世界に行ってしまったというわけだよ」
 俺はいつの間にか男のわけの分からない話に引き込まれていた。
「簡単にはいかなかったよ。私なりの理論で、空間のゆがみが存在すると思われる場所を選んで実 験したが、異次元の入り口はなかなか見つからなかった。ドーナツは好物だったが、もう当分は見 たくもないというほど食べた。まあ、そんなことは今となってはどうでもいいことだが・・・」
 男はここで一度言葉を切ると、思わせぶりな顔で俺を見た。
「そして私はついに異次元の入り口を見つけたのだよ。投げた小石が落ちてこなかったときの喜び といったら・・・言葉では表せないね。私はさっそくレンガを買った。その場所にレンガのトンネ ルを作り、トンネルを壊して、残った穴に足を踏み入れてみたんだ。無謀な試みだったかもしれな い。何せ異次元への入り口なのだからね。自分の身がどうなるか分かったものではない。しかし、 一歩踏み出す勇気が科学者には必要だ。その勇気が今日の科学の発展をもたらしたのだ」
 男は力強く言い切ると、満面の笑みを浮かべた。
「一歩、歩いただけだ。一瞬めまいを感じた。ほんの一瞬だ。そして見も知らぬ場所、つまりここ に現れたというわけだ。実験は成功したのだよ」
 男は今度は、ちょっと哀しげな顔をした。長年の夢を実現したにしては、似つかわしくない表情 だ。
「私は満足だった。とりあえず研究所に戻ろうと思い、一歩後退してみた。再び異次元の入り口を 通って、研究所に戻れるはずだった。しかし、そうはならなかったのだ。自分が出てきた場所、穴 があるはずの場所を歩いても、何も起きないのだ。異次元の入り口は、一度通過するとふさがって しまうのか、ある時間でないと開かないのか、一方通行なのか、それは今後の研究の課題だが、と にかく私は帰るに帰れなくて、ここに立ち尽くしていたのだよ」
 そして男は、大きく溜息をついて言った。
「なあ君、帰りの電車賃を貸してくれないか?」
                             了


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