夏の約束 |
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湘南平ってどこだったんだろう。 そう思っていたら、先日、大磯駅からそれほど遠くない所にあることが分った。それで、行こうと思っていたのだった。週末は晴れるはずだった。確かに、金曜は晴れだった。それで、出かけることにした。 横浜で東海道線に乗り換え40分、大磯に着いた。かつての高級別荘地で、湘南の名の発祥地でもある。なんとなく駅前にも趣きがある気がした。湘南平はここから2kmくらいのはずで、すぐ着くと思っていた。でも、それは大きな間違いだった。 駅からすぐもう山で、「散歩道」という道しるべ(後にこれはたくさん出てくることになるが、それはどんどん歩かなければならない距離を伸びさせた)の方角 に行くと、いきなりすごい坂だった。やっと登り終えたところに小さな公園があり、そこから夏のゆらめきの向こうに、町と海が見下ろせた。海と高台と風。ぴったりの夏だ。 けれど、余裕があったのはここまでだった。そこからは、つまり湘南平に着く1時間後までは、道とすら呼べない本当の山の中をひたすら歩き続けた。
過去2年間、こんなに辛かったことはなかった。全身から汗が噴出した。上り下りを繰り返した。頭は朦朧としたが、30cmもずれれば、30メートルくらい転げ落ちることになるのだ。 でも、心底思うけれど、それは最高に楽しかったのだ。強い日差しは木々が遮り、周り中に蝉の鳴き声が響き、しかもそれはひぐらしだったから森の中にいるこ とをよく教えてくれた。行く手のそこかしこに蜘蛛の巣があり、また実際大きな蜘蛛がたくさんいた。木の枝を踏みしめ、蝶が飛び、土の感触を感じる。それは もしかしたら、僕がよく知っている場所かもしれなかった。 湘南平に着いた。塔があった。ここはそのフェンスに鍵を掛けると恋人が結ばれるという所だ。上へ登るとたくさん鍵が掛けてあった。その向こうには海が見えた。駅も見えたので、今来たところを追ってみた。しかし山が見えるだけだった。よく歩いてきたものだ。 ここは一度来たことがあった。7年くらい前、先輩に車で連れて来てもらった。夜景が綺麗だった。友だちの女の子2人もいた。恋人ではなかったから鍵は掛けなかった。まあ、そんなことばかりだ。
帰りはさすがに道路を通ろうと思い、舗装された道を歩いた。海と反対側だった。誰も歩いている人はいなかった。 坂を下り終えもう一度海に出たかったのだが、道はどれも山と平行して走っていた。山々を越えない限り、海には着かない。すぐ着くことはあきらめて、歩くことにした。 道は山合を進み、どんどん深くなっていく。しばらく道を進んだ。だいぶ歩いた。辺りは真っ暗になった。さすがに疲れたが休まなかった。標識に、 そのまま行くと二宮駅とあった。 左側の向こうに海があるはずだった。ふと道を折れるとバスが通り過ぎた。大磯行きだった。そこからまただいぶ歩いたが、やがて国道1号線に着いた。もう海はすぐのはずだった。 またあの道しるべを見つけた。もう9時だったし、疲れきってもいた。だがそのコースを行けば海沿いを歩け、松並木を通り、やがて駅へと至るというのだ。そうそう来れるわけではないし、ここまで来て想いを残したくなかった。 その道は、西湘バイパス沿いに続いていた。すぐ横を猛スピードで車が通り過ぎ、彼方まで高架とオレンジ色の灯が続いていた。その向こうは海のはずだったが、夜の空と海は同じに真暗闇だった。ほんの一瞬車が途切れると、波の音がした。またひたすら歩いた。
やっと駅に着いた。10時過ぎだった。ベンチに座って待っていると、まばゆい光とともに東京行きの電車がやって来た。最寄の駅に着いた時には、もう12時前だった。 お腹が空いていたのでたくさん食べた。暗い中、まだ1号線に出る前、よれよれと歩いている時に、犬の散歩をしていた女の子が一緒に歩いていた母親に「お腹が空いたね」と言っていたのを思い出した。仲良さそうにやり取りをしていて、「ヤクミをたくさん入れなきゃね」と笑っていた。そう、ヤクミはたくさん入れないとね。 一日のことを書き残しておきたかったのだが、あまりに疲れきっていた。でも、それは夏の約束だった。 「そしてこう思う。蝉や蛙や蜘蛛や、そして夏草や風のために何かが書けたらどんなに素敵だろうってね」 「風の歌を聴け」のセリフだ。本気でそう思った。
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