国産バイクについて


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タバコを吸う方なら、わかるかもしれない。
新製品が出ると、とりあえず吸ってみる。
重い軽い「うん、新しいのは、こんな感じ」。
でもいつもは、同じ銘柄を、日々、漫然と吸っていたりする。
そんなもんだと思っている。
ふと、外国タバコを吸ってみると。
全然違う。
カラいニガい、ホントにタバコかこれ?。
「間違っている」なんて思う人は、それっきり、手は出さなかったりする。
しかし、幾つか吸ってみて、何となく気になるのがあったりすると。
探して買ったりしてね。「あの自販機には置いていある・・」
外国出張行くヤツに頼んだりして。「ご禁制のノンフィルターを一箱・・」
そうなってから、国産タバコの新製品を試してみると。
「・・どこが違うんだ?」


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「ハーレーは、BMWは、こんな乗り味」
そこには、「国産バイクに比べて」という枕詞が隠れている。
国産バイクが「標準」なワケだ。
まあ、世界で一番、数が多いのが日本車なんだから、そうなるのも理屈だ。
だからと言って、日本車には特有の乗り味がない、というわけではないと思う。
例えば、エンブレム隠して新型の乗り比べをしたとする。ちょっと慣れた人なら、どれが日本車か当てられるだろう。
その時、何を感じて判断したか?。
それが「日本車の乗り味」なのだと思う。

私自信、国産バイクにも随分乗らせていただいたが、厳然と共通することが一つあった。
飽きるのである。

飽きませんか?国産車って。

段々と次第に、乗りたくなくなって来る。
そのうち、もう見たくもなくなる。

別に、バイクの調子が悪くなったわけでも何でもないのだが。
しばらく間を置くと忘れてくるが、再度、触れた途端に、また思い出して、うんざりしてしまう。

こうなったら、もうダメだ。
でも、「コレには乗りたくない」だけで、「バイクで走りたい」のは変わらない。
かくして、めでたく?買い換えとなる。

「飽きる」という感覚。
自分でも、何を感じているのか、よくわからない。
まあ、メーカーが狙ってやっているというワケもないとは思うのだが、末永く使ってもらおう、などとはからっきし思っていないんだな、と感じることは、実際に触れていて、ままあった。


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日本のバイクが、実用から脱皮し、嗜好品として立ち上がったマイルストーンとしては、やはりCB750Fourが代表格だろう。
「安価で高性能、快適だが、退屈」
とある米国の好事家の(大変に実際的な)評価だ。
「ホンダ多気筒レーサーの光栄を帯びた・・」
などと語られることもあるようだが、今あらためて見てみても、当時のレーサーに、さっぱり、どこも似ていない。

「実態とはかけ離れた後光との組み合わせ」に既視感を覚えるものの、上記の評価以外にこれが持っていた「意味」が、私にはいまだにわからない。

この後も、国産バイクは進歩と発展を続ける訳だが、その文脈は一貫していたように思う。

「先鋭化」だ。

もっと凄いやつ。
もっとカッコイイやつ。

国産バイクの「進歩」は、社会情勢や技術レベルの問題もあったろう、当初はかなり、ゆったりしていたように見える。
発展のレールは、合・分流を繰り返し続いて行く。

それが解き放たれたように、一気に加速し花開いたのは、やはり80年代のレプリカブームだったように思う。

去年のよりスゴイやつ。
去年のよりカッコイイやつ。

そんなのが、矢継ぎ早に供給されていた。
時代が浮かれていたこともある。しかし、あれは破廉恥だった。
未熟な実験品のような代物が、何の背景も技量もない若者達に、突然、ふりまかれた。
刺激は十分だったが、犠牲も多かった。

昔話だと?。
違うと思う。

例えば。
法定速度の3倍のスピードが出るバイクがある。その合法的に使えるパワーは、どれくらいか。
ざっくり速度の二乗比で計算して1/9、一割ちょいである。
合法的には、パワーを一割しか使えないバケモノ。
「ずっとアイドリングでね!」
どうして、そんなものが欲しいか。

「最強のバイクだから」

例えば。
世界GPの最高峰が4スト化されて間もない頃。コーナー入り口でリアをアウトに滑らせる、トップライダーのスタイルが話題になっていた。
同じ時期に、コーナー入り口でリアブレーキを半ロックさせ、このマネをしている映像をCMしていたメーカーがあった。
「良い子は真似しない」
イメージさえ似ていればいいのだ。たとえニセモノ(レプリカ)でも。
「最速のバイクだよ」
しかし実物に触れてみると、エンジニアのささやきが聞こえてくる。
「お前たちには、この程度。」

ユーザーの実際の使用状況を無視している製品、それ自体が悪い、という非難は、しかし、的外れだと思う。
何故か。
我々ユーザーは、真面目な公道バイクを、ほとんど評価して来なかったのだ。

例えば。
GPX750R。ナナハンニンジャの反省だろうか?。随分と真面目な造りをしていた。

CB-1。先鋭化の一途だったCBRの反動だろうか?、はっきりと公道を前提としていた。しかし、モーターショウで熱烈なラブコールをした連中の多くは、それに応えたデビューを無視した。

Diversion。公道中型ツアラーをよく具現化していたと思うのだが?、評価は散々だった。どころか、罵倒すらされていた。「スポーツ性を求めるユーザーの心情が、まるでわかっていない。」 別に気に入らないなら、自分が買わなければいいだけだ。この厚顔な自己中心性が、マニアと呼ばれる人々の特徴でもあるわけだが、それが、まるで市場そのものの評価のように語られることも多い。

無論、メーカーにも非がある。
レプリカをデチューンしアップハンにしただけ、とか、待ちに待った大型Vツインスポーツなのに乗ってみると手抜き丸出し、そんな、適当な公道バイクも乱発し、キラ星のような力作を、ラインナップに埋もれさせてしまっていたのだ。

その後のバブル崩壊と、それに続く停滞の時期に、メーカーもユーザーも、選択肢に猶予を残す余裕を失って行った。

かくして、ユーザーもメーカーも成熟しないまま、市場だけは熟成してしまった。

スポーツ性の「イメージ」だけ残して。


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国産バイクを、試乗して、入念に評価した上で買うという人は、まず居ないだろうと思う。(大体、試乗車自体がないのが普通だ。)触れたこともないものを欲しいと思い、乗りもしてみていないものを、大枚はたいて買った。

何故だろうか。

バイクを売る原動力が、イメージだからだ、と思う。
「これは良いものだ」
そういう価値が、モノより先行して存在するのだ。

そのイメージは、レースや雑誌などを媒体に、拡散する(意図的に、させてゆく)。
それを製品の値段として循環することで(下取りや中古の価格など)、業界が成り立っている。

だから、その市場価値に整合するモデルが、評価の優先度が高い。
構造的に、製品の多様性に門戸が閉ざされているとも言える。

幾度か復調の兆しを見せた、シングル、アメリカン、Vツインスポーツなどの波が、結局は根付かずに退廃してしまったのは、この辺りに原因がある。

かくして、「バイクはまず四発ロードだ」この昔ながらのイメージだけが、相変わらず、まことしやかに残っている。

思い出せば、あの「飽きる」という感覚は、イメージと現実のギャップが、のっぴきならないところまで来ているのを背中で感じているような、そんな「行き詰まり感」のようなものだったようにも思える。

みんな、同じなんじゃないだろうか。
そうやって、いくつかのイメージを追った後に「退場する」。
その繰り返しを、業界は「新陳代謝」と称して、無邪気に推奨して来た。

この「イメージ先行の売り方」が悪いとは、全く言えない、とも思う。
何しろ、世界を制覇した「成功例」なのだ。
しかし、やはり行き詰まってもいるだろう。

「若者に売れない」

当たり前だ。幼少から、イメージの刺激には慣れている世代だ。
良く言えば「自己の悦楽に正直」、悪く言えば「麻痺している」。
何も現実に危険なものに、わざわざ身をさらす必要などない。
とっくに、そう気付いている。

それでもバイクを売りたいですか?。
では、どうします?。

初めから客をイメージで囲い込むような、子供だましをやめればいい。
バイクという「モノ」を、本当にユーザーに楽しんでもらえるよう、あつらえてやればいいのだ。
メーカーも、ユーザーの悦楽に正直になればいい。


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例えばだ。

まず。
ハード仕様を解放してしまう。

WEB受注などで(ディーラーに端末を置いてもいい)、外装や足周り等の選択肢の組み合わせで、注文を受ける。
デザイン、色、シート、マフラー、ミラー・・・好きなものを選べる。
値段や納期は、仕様に応じて決まる。
何も、メーカー自身が多数のパーツを自己開発する必要などない。
現在、既にバーツを造って売っているような幾多の業者にアウトソースしてしまい、出来高制で競争させればいい。(外注先としての品質管理教育の徹底と、その管理業務が、メーカーのタスクになるだろう。)
特別な仕様(ワンオフ)の受注などの余裕があっても面白い。値段と納期、リスク(パーツの供給)が明確化できれば、可能だろう。

別に、真新しいことではない。四輪では普通の「オプション制度」の発展版である。IT化の徹底を平行して進めれば、大したジョブではないだろう。
お役所の形式認定は厄介そうだが、外寸やトータルデザインを合わせる等ケアした上でネゴに当たれば、可能だろう。

さて、我々ユーザーは、これでまず、
「俺だけのバイク」
が手に入るわけだ。

次に。
ソフトを解放してしまう。

これはつまり、各種のセッティングをユーザーに選ばせる。
WEBなりディーラーの端末なりで、選択肢の組み合わせを選ばせ、メモリーカードにでもデータを落とす。これを車体にセットし読み込ませれば、車体のセッティングが変更される、という案配だ。
別に難しくも何ともない。ハード的には、ROMをメモリーカードに替えるだけだ。
話はエンジンに留まらない。例えば足周りなどもアクティブ化し、セッティングを電子的にコントロールしてしまえばいい。

電子化は最小限でいい。何も、サスの内部に細かいアクチュエータを組み込む必要などない。以前、サスペンションの動き自体をポンプとして利用し、車高を変えるシステムが市販化されたことがあった。そのあたりがヒントになるだろう。電子化は、制御部だけ、最小(のコスト)で済む。

そうして、エンジンや足周りの、セッティングの組み合わせを選ぶだけで、バイクは随分と違う乗り味になるだろう。

セッティングの組み合わせは、数限りなく作っておく。
「スポーツセッティング」でも、どこをどう「スポーティ」にするのか、そこがユーザーの見識であり腕なのだ。その辺りを照準にした情報の提供は、(例のように)雑誌にやらせればいい。

ユーザーは自分でいろいろ試して、結果、「俺のセッティング」が詰まって来る。 そういったセッティングを何種類か、好みや用途に応じて、使い分ければいいのだ。(モードを幾つか記憶できるようにして、臨機応変に選べるようなシステムにしてもいい。)
ひとつの機体を、自分に合わせ、いろいろなやり方、シチュエーションで、楽しむことができる。

つまりだ。
「俺だけのバイク」
に磨きがかかる。


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私がいつも思い出すのは、AX-1 である。
250cc水冷シングルは、上までストレスなく良く回る、元気一杯なエンジンだった。
足周りは柔らかく、オフロードでコトコト走るようなスローペースでのトラクションが優れた、面白いセッティングだった。
車体の剛性はそれなりだが、積載も考慮されていて、使い勝手も悪くない。
デザインはあか抜けていて塗色の色使いも良く、アパレルもシチュエーションも選ばない。
と、部分部分は良く出来たバイクだったのだが、これが、どこを乗っても「決まらない」。

街中では、ハンドル幅が広くて足周りが弱く、身のこなしが重い。
高速は、エンジンが元気に進みたがる一方で、弱い車体がグニャグニャと弱音を吐く。
オフロードでは、実直な足周りを無視して、高回転型のエンジンが路面を引っ掻く。
・・・・・。

もし、上述のようなシステムが適応できれば、これは本当にいいバイクになる。

街中は、車高は中庸、ダンピングは強め、エンジンはピックアップ重視。見通しが良くて身軽、イザという時の対処もし易い。

高速は、車高下げ、ダンピング中庸、エンジンは高回転・燃費重視型。クルージングに適したセッティングで疲れない。

峠では、車高下げ、かつ「前下がり型」、ダンピング強め、エンジンは伸び(馬力)重視型。意外と速い。ナメてかかるとヤケドするぜ。(笑)

オフロードでは、車高上げ、ダンピング弱め、エンジンは粘り重視型。コトコトと自然に入り込んで行ける。四輪では行けないような、奥深い所まで堪能できる。ぶっ飛ばす訳でもないので、自然環境へのインパクトも小さくできる

ユーザーは小柄な女性の方ですか?。では、全体的に車高を低めにしておきましょう・・・。

たかが250cc、敷居も低い。あらゆる人が、これ一台で、あらゆる場面で、ツーリングを楽しむことができる。

すごい。
理想でしょ?。


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メーカー側にもメリットがある。
まず、実質のモデル数を減らせる。
メーカーが開発するのは、素の車体が幾つか、オフロード、ツーリング、スポーツ・・それだけでいい。後の多様展開は、ユーザーが自分でやるのだから。見てくれ重視のネオクラシックモデルの展開などは、すこぶる簡単になるだろう。

といっても、例えば「峠仕様のツアラー」が「本式のスポーツバイク」より峠が楽しい、ことはあるかもしれないが、速い、というのは、あまりないだろうと思うので、モデルのアイデンティティがなくなる訳ではないと思う。ラインナップの骨格は、これまでの路線を踏襲してもいいと思う。

次に、開発リソースの効率化である。
セッティングの電子化と同時に、ユーザーの走行データをサンプリングして保持し、車検時等に吸い上げる、ような仕組みにしまえばいい。技術的には難しくない。それこそサーキットからのフィードバック(のコストダウン簡略化)で済む。(得意技だ。)

「個人情報は保護します
当社の、しちめんどくさいポリシーはこちら」 といった一言で、法的にも OK だ。(笑)

どんなユーザーが、どんなセッティングで、どんな使い方をしているものなのか?。データは赤裸裸に語ってくれる。テストライダーがユーザーと同数、居るのと同じようなものでもある。データの多様性と信ぴょう性は、飛躍的に向上する。この「広範なデータ」の使い方は、メーカーの腕の見せ所だ。

例えば。
市販後のサポートの充実。
「データの解析の結果、お客さまの使用状況について、次のようなセッティングを提案いたします・・」
使ってみると、確かに凄い。おお、さすが俺のひいきのメーカーだ。
新しい使い方を提案してみても、面白いかもしれない。走行会やレース等のイベントと絡めたりすると、相乗効果が期待できるかな。

さらに。
次期モデルコンセプトの方向付け。
開発会議でも、データを元に、より現実的な議論ができるようになるだろう。今までのように、当てのない賭け(早すぎ)や、流行りの後追い(遅すぎ)、なんてバカやらずに済む。

で、とどめに。
「データの解析の結果、次期モデルは、あなたのお好みにピッタリです」
ユーザーの「囲い込み」もできる。

理想だあー。(笑)

無論、メーカーは、ユーザーに、全ての情報を解放するわけにはいかないだろう。
両者の境は、どこに置くか。
安全性だと思う。
これ以上は危ない。その一線は、メーカーが管理すべきだ。
「メーカーが示す選択肢を、ユーザーが選ぶ」という構想としたのは、そのためだ。危険域に陥るセッティングは、選択肢から外しておけばいい。
メーカーの仕事は、ハード仕様を作りまとめて、製造ラインに流せば終わり、という現在の色合いから、一変するだろう。

ユーザーが様々なセッティングで走っても許容できる設計余裕の確保。特性的に危険な域には入らない、セッティングの「限界」の明確化と保証。システムの開発もある。例えば、システムに異常を検知したら、セーフティモード(要するに「ノーマル」)に落ち込むフェイルセーフ、などなど。

ある程度の「幅」を許容し、危険な域には落ち込まないような「下支え」を強化する。そんな意味合いになるわけだ。

考え方としては、別に難しくない。今の車検制度と同じだ。

電子化の度合いが大きく、開発は大変だと思う。しかし、対処は難しくない。バイクメーカーのほとんどは、四輪メーカーと密接な関係を持つ。四輪の開発現場は今、組み込みのタスクで爆発しているだろう。それを横目に、多少の改善を施しつつ、ゆるやかに追従すればいい。いや、むしろ、バイクの方を先行させ実験に用いる、という(従来通りの)方法が使えるかもしれない。(懐かしいよね、REVとVTECとかさ。笑)

セキュリティは問題になるだろう。ユーザーが野方図にデータ使用できないよう、車体固有のシステムパスワード(車体番号なんかが流用できるかな)を設定したログインシステムなど、インフラ整備も重要になるだろう。このパスワードが車体システムのキーを解かないと読み込まないようなシステムにしておけば、データの乱流用は防げるし、ユーザがバックアップを取るのは自由になる(コピーフリー化できる:メーカーがデータの流通にまで気を使う必要が無くなる)。そんなシステム開発に、知恵を絞ることになるだろう。

もっとも、さらに濃い情報を欲しがるユーザーには、全ての情報を解放してしまってもいいんじゃないか、とも思う。例えば、エンジンマネージメントのマッピング、そのものを解放してしまっても、別にいいんじゃないだろうか。

しかしその場合は、「メーカーはそれが公道を走ることに責任を持てない」意味で、ユーザーにはナンバーを諦めてもらえばいい。レーサー登録をしてもらい、以後、そのシステムナンバーを持つ機体は、車検を通さない、などの措置が要るだろう。

また、逆に発想すると、例えば「サーキット走行会」などのイベントにからめて、その時限定で「まんまモトGP・最強セッティング」を許可する、などすれば、盛り上がるかもしれない。ユーザサービスにもなるでしょ?。

さて、以上のような環境は、ある程度、自分の走りにイメージを持っている「玄人」ユーザーが対象になるだろう。

それを持たない「素人」さんの取込みは?。
上記の仕組みを前提にした、コンサルティングシステムの整備で、可能だと思っている。

まず、ディーラーでの接客だ。
どういった車種がお好みですか?。
バイクのご経験は?ご予算は?
「お客さまのご要望に最もフィットするモデル」
それが選定できたなら、きっちり試乗してもらい、さらにプロの目でもって「あつらえる」。

試乗時には、係員が同行し、走りを観察する。客の反応を見、話を聞いた上で、その場でセッティングを変えるなどしながら、売り込みに励む。

顧客のニーズに的確に応える、そのサービスのための、仕組みを整備する、ということだ。

「あなたのバイクライフをサポートします。」
ここまでされれば、説得力あるでしょ?。

試乗車は、ディーラー全てに配車する必要などない。例えば、地域で台数を持ち回り、予約制、などでいいと思う。
試乗車予約のシステムを整備したら、例えばWEBにも公開する等すれば、一般ユーザーの取り込みにも使えるだろう。
新型の試乗が気軽に、スケジューリングも自分でできる。
現在の状況を考えると、羨ましい位、便利だ。
当然?試乗車貸与の際にも、「乗り方データの収集」は欠かさない。
試乗者の乗り方情報を即座に解析し、売り込みに役立ててもいい。
結果、売れたかどうか、の情報も絡めて収集すれば、営業データベースとしても使えるようになる。

ここまでくればもう、従前の(適当な「意図」入りまくりの)マーケットリサーチなど、不要になっているだろう。
(要するに、少しは身のある所でちゃんと競争せい、とそういうこと。)


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日本車にはオリジナリティがない、とよく言われる。日本が作っている型は大概、別の先行例がある、日本はそれをマネて、先鋭化させただけだ、と。

そんなことは、どうでもいい。既に、世界中のバイクのほとんどを供給しているのは、現実に、日本のメーカーなのだ。それはかつて、未熟だった頃の日本のメーカーが、望んで、目指した地位、結果、そのものだろうと思う。

さて、では日本車は、「高性能だけど飽きる」そんな言われ方をするものを、これから先もただ漫然と供給し続けるだけ、なのだろうか。

ユーザーに喜んでもらえるには、どうしたらいいか。そこを「先鋭化」して初めて、日本のバイクが、規模だけでなく、世界に誇れる「自立」を維持できるのではないか。そして今や、それが技術的、体力的に可能な、一番近い所に居るのが、日本のメーカーなのだと思う。(ドカティやピアジオあたりが伏兵だが。)
それはこの先、日本車が進むことができる、かなり有望な道の一つだと思うのである。

とまあ、理想・空想ばかり並べてはみたが、これがもし可能だとしても、もう根本的な発想の転換は必要だろうと思う。

これまでのように、機能や目的はもとより、その価値まで購入時に決まっており、後はただ減って行くだけ、というような仕組みから、メーカーは機能だけを提示して、その後は、目的や使用法などのユーザーの要望に応えるべくサポートに徹する、そういう系への移行となる。

現場レベルでは、最大公約数としての「概念的ユーザ」を想定していた仕事から、一人一人の現実のユーザへ、直接サービスを提供するタスクへと、様相を変えることになるだろう。データ管理の量は増えるから、マネージメント的には、実質、従来のデータマーケティングと個別サービスの両立という舵切りになる。少なくとも日本国内では、人口も顧客も、今後はさほど増えない。だからこそ可能なビジネスモデルだ。経営的にも現場的にも展開の余地があって、面白い仕事のスタイルではないかと思う。

一番のネックは、しかし、多分、ユーザー側にあるだろう。これまで、メーカーの「イメージ先行の売り方」が成功して来たのは、ユーザーがそれを欲して来たから、でもあるのだ。

ユーザーは技術的なことなどわからないし、とやかく言うものでもない。とにかく、オレが気に入るカッコいいものを、メーカーは持って来さえすればいいのだ。そういう「される側としての意識」が、これまでは、モノ選びの大前提だった。

もし、趣味として、バイクをもっと楽しむべく積極的になれるなら、「自分でやる」「できる」、そのこと自体に楽しみを見いだすような、意識改革は必要だろう。
 ・ 絶対ホールインワンのゴルフクラブ
 ・ 必ずホームランのバット
 ・ アウトにならないテニスラケット
そんなものが、もしできたとしても、意味はないだろう。

自分でやるから、できる(ようになる)から、スポーツは面白いのだ。

自分が楽しむための、「モノ」としてのバイク。
そのハード、ソフトの選択と熟成。
この、「される側」から「する側」への意識改革が、一番のネックになるだろうと思う。


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さて。
また長くなりました。
例のように、少し緊張を緩めつつ、話を終えましょうか。

もし、セッティングをデジタル化する、その方式の「標準化」ができたら。
たとえば、峠で、違う車種に乗るもの同士が、セッティングを交換して走ってみて、効果を語り合えたりできるかもしれない。

速い、遅い、そんな目先の優劣だけではなくて、モノにこだわりつつ、その多様性を楽しめる。そんな雰囲気が、日本の、いや世界の峠の風景として、見られるようになればいい。

そんな風に、私は夢想している。



ombra 2006年 4月

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