8年前の今日、私は確か盛岡駅構内をブラブラ歩いていた記憶がある。
何しに行ったのかは覚えていないのだが、KIOSKで好物のりんごチップスを買って、実は創刊前日だというのに発売されていた、お料理雑誌『TANTO』を買い込んでいたところまでは覚えている。
で、ちょっと歩いてはズズズ〜ンとお腹に痛みを感じ、アッと立ち止まるとウソのようにスッキリと痛みが引いて・・・今思えば、あれが陣痛というものだったのだろう。
長男を帝王切開で産んでいる私は、陣痛というモノがどんな感じなのか全く知らなかった。そのときは経過が悪かったので、とにかく次は自然分娩で出産の感動というのを味わってみたい、と憧れ続けていたのだった。前回とは全く違う健康な妊婦であったので、いよいよその夢がかなうときが来たのだ。
まだ幼稚園の年少組に入ったばかりの長男が眠っている夜中にオットに産婦人科まで連れていってもらい、留守中子供の世話をしてもらう約束だった姑にも連絡を取った。
さあ、産まれるぞ〜!
という期待をよそに、夜明けとともに、なぜか陣痛はすっかり引っ込んでしまった。痛みはあるのだが、お腹につけた機械の目盛りはちっともクライマックスに達しない。
「これは、まだまだかかりますね〜。ここにいても仕方ないから、午後から家に帰って下さい」
素っ気なく言い置いて病室を出ていく医師。産婦人科はそのとき予定日間近の妊婦さんが結構いて、とにかく部屋を空けておきたかったようである。
しかし、困る! もう家には姑が意気揚々と乗り込んできていたし、お腹は痛い。こんな状態で自宅待機? 幼稚園児の世話をしながら? 姑と世間話しながら? もう、私は絶対に今日、産まなければならないのだっ!
様子を見に来た看護婦さんに「こんなに痛いのに、まだなんですか〜」と弱音を吐くと、「そうねー、歩くとイイって言うから、病院を歩いてみたら?」
痛むお腹を抱えながら、産みたい一心で私は歩いた。外来のある1階をうろつくわけにはいかないから、ベッドのある2階から3階をノロノロと。階段もせっせと。そのかいあって、子宮口はみるみる開き、夕方外来が終わって外出した先生が急遽呼び戻されるほど急速に進展したのだった。
「階段を上り下りしたぁ〜? 陣痛の来ている、その状態で・・・(医師呆れ)」
子供会の資源回収のときに、役員仲間の一人にそんな話をしていたら、彼女の子供が二日後にお誕生日なのだとわかった。あちらは女の子だが、次男と同じ学年である。
話していたら、彼女も出産時、あわやという事件があったそうだ。破水して入院し「今晩あたりかな」なんて言っているウチに急変、ナントカ弛緩とかで意識を失い、旦那さんは医師から「母体も赤ちゃんも危ないので」覚悟しておくように、と言い渡されたそうだ。
意識のないままに出産、やっと気がついて、この腕に我が子を抱けたのは産後4日目のことだったそうである。
本当に、出産は結末の予測できないドラマなのだ。この世に産んでくれた親に感謝。それが実感できるのは、もっとオトナになってからかな。
6月17日は、次男8回目のバースデーである。