きままに的生活
日々思うこと、いろいろを思いつくまま・・・

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116 2001.6.29 騒動、その後


次男の「とびひ出席停止騒動」が一段落した夕方、担任から電話があった。

「お友達から何か言われたんでしょうか?」

担任の第一声はそれである。私は自分の聞いたまま、「先生から言われた」という話をした。

「いえいえ、『今日気がついたんだけど、とびひってうつる病気じゃなかったっけ? お医者さんは学校に行っても良いって言ってたの? お母さんに聞いてみてね』と言ったのですけど・・・」

次男の受け取り方が勘違いだった、ということなのか?

私は「そぉ〜なんですかぁ」とふんふん聞きながらも、「でも、とびひって出席停止なんですか?」とここだけはハッキリさせておきたいと思って聞いた。

「オマエもよく聞いたなぁ」
この話をしたら、オットは半分あきれたように感心していた。だって、ことの発端はその部分なのだから仕方ない。

「いいえ、診察したお医者様から『これは休んだ方が良い』という診断をされたのであれば、学校の方でもそう対処する、ということで。分泌物がさかんに出ていたり、ひどい状態であればそうなんでしょうけど、ジナン君の場合はきちんと病院で診てもらって、薬も飲んでいるということですし、全くそんなことはないと思います」

だったら、何故子供に「学校行って良いって言ったか」なんて質問をするのだろう。高学年ならまだしも、相手は2年生である。そういう問題は直に親に問い合わせるのが本当ではないのか。

「保健の先生から言われて、絶対に話をとりつくろってるよ、コレ」とオットは言う。このことを相談した妹も、何かおかしな話だね、と同意見である。

心配して励ましのFAXを送ってくれたいとこの気持ちがとても嬉しかったらしくて、次男は夢中になって返事を書いていた。今回の話とはあまり関係のないはずの長男までも、次男がうらやましかったのか、一緒になってFAXを書いている姿が単細胞なハハをなごませてくれた。

とにかく嫌疑は晴れ、次男は元気に登校した。

 
115 2001.6.28 アタマにきてます!


次男が学校から帰るなり
「とびひって学校に来ちゃいけないんだって。明日学校休むから」
とションボリ言った。

え? 何をいきなり〜?
担任の先生に今朝、言われたのだという。

とびひにかかってしまったことは二日前に連絡帳で連絡してあり、今日もプールの授業見学の理由として書いたばかり。今日の分の先生のコメントは『お大事にしてください』。

それだけで、出席停止に関する連絡も何もない。疑問に思って学校に電話してみたが、先生は外出したまま今日はもう学校に戻らないという。代わりに保健の先生が電話に出た。

保健の先生によると、確かに伝染するものではあるが、その部位が衣服で被ってあったりガーゼなどで保護してあれば、別に休むことはないのでは、とのこと。

私も出席停止とは知らなかったのだが、それならなぜ、今日になって突然担任が言い出したのか、もしそうなら、子供に言った時点で迎えに来るように家庭に連絡するのではないか、何故そのまま普通に授業を受けさせたのだろう、と疑問ばかりがわきあがる。

いきなりそんなことを言われた次男が何だか可哀相になってしまった。

保健の先生はそんないきさつを聞き、明日の朝、担任の方にも話してくれると言ってくれた。

とびひで休むかどうかは医師の診断にもよるそうだが、今回の場合は何も言われていない。私の無知もあるのは認めるが、担任の対応は果たして正解なのだろうか。

「明日学校に行っても大丈夫だよ」と次男に言いながらも、まだアタマにきている単細胞なハハであった。

※とびひについてインターネットで調べてみたが、通学は可能という意見が大半で、他には休ませた方が良い、学校に相談して、などというものもあった。

114 2001.6.16 8年前の今日


8年前の今日、私は確か盛岡駅構内をブラブラ歩いていた記憶がある。

何しに行ったのかは覚えていないのだが、KIOSKで好物のりんごチップスを買って、実は創刊前日だというのに発売されていた、お料理雑誌『TANTO』を買い込んでいたところまでは覚えている。
で、ちょっと歩いてはズズズ〜ンとお腹に痛みを感じ、アッと立ち止まるとウソのようにスッキリと痛みが引いて・・・今思えば、あれが陣痛というものだったのだろう。

長男を帝王切開で産んでいる私は、陣痛というモノがどんな感じなのか全く知らなかった。そのときは経過が悪かったので、とにかく次は自然分娩で出産の感動というのを味わってみたい、と憧れ続けていたのだった。前回とは全く違う健康な妊婦であったので、いよいよその夢がかなうときが来たのだ。

まだ幼稚園の年少組に入ったばかりの長男が眠っている夜中にオットに産婦人科まで連れていってもらい、留守中子供の世話をしてもらう約束だった姑にも連絡を取った。

さあ、産まれるぞ〜!

という期待をよそに、夜明けとともに、なぜか陣痛はすっかり引っ込んでしまった。痛みはあるのだが、お腹につけた機械の目盛りはちっともクライマックスに達しない。

「これは、まだまだかかりますね〜。ここにいても仕方ないから、午後から家に帰って下さい」

素っ気なく言い置いて病室を出ていく医師。産婦人科はそのとき予定日間近の妊婦さんが結構いて、とにかく部屋を空けておきたかったようである。

しかし、困る! もう家には姑が意気揚々と乗り込んできていたし、お腹は痛い。こんな状態で自宅待機? 幼稚園児の世話をしながら? 姑と世間話しながら? もう、私は絶対に今日、産まなければならないのだっ!

様子を見に来た看護婦さんに「こんなに痛いのに、まだなんですか〜」と弱音を吐くと、「そうねー、歩くとイイって言うから、病院を歩いてみたら?」

痛むお腹を抱えながら、産みたい一心で私は歩いた。外来のある1階をうろつくわけにはいかないから、ベッドのある2階から3階をノロノロと。階段もせっせと。そのかいあって、子宮口はみるみる開き、夕方外来が終わって外出した先生が急遽呼び戻されるほど急速に進展したのだった。

「階段を上り下りしたぁ〜? 陣痛の来ている、その状態で・・・(医師呆れ)」

子供会の資源回収のときに、役員仲間の一人にそんな話をしていたら、彼女の子供が二日後にお誕生日なのだとわかった。あちらは女の子だが、次男と同じ学年である。

話していたら、彼女も出産時、あわやという事件があったそうだ。破水して入院し「今晩あたりかな」なんて言っているウチに急変、ナントカ弛緩とかで意識を失い、旦那さんは医師から「母体も赤ちゃんも危ないので」覚悟しておくように、と言い渡されたそうだ。

意識のないままに出産、やっと気がついて、この腕に我が子を抱けたのは産後4日目のことだったそうである。

本当に、出産は結末の予測できないドラマなのだ。この世に産んでくれた親に感謝。それが実感できるのは、もっとオトナになってからかな。
6月17日は、次男8回目のバースデーである。