卯的生活・緊急短期(であってほしい)連載

ぺーどら日記〜修行編〜

 

2000.7.30 東京にて 


私が車を運転する、と聞いて一番喜んでくれたのは、たぶん東京に住む父だと思う。

高校時代、友達と習い事感覚で教習所に通い、コワイ思いをしながらもやっとのことで免許を手にしたとき、正直な私の感想は
「これで車を運転しなくてもすむ」であった。

「みんなが取るから」的な考えで、お気楽に通い始めた教習所での日々は、どんくさく運動神経が皆無に近い私にとっては、それはそれはつらいものであった。しかし、それに気づいたときにはもう引き返せない段階まで来ていた。仮免は一発で通ったものの、卒検はそうそう甘いものではない。何回落ちたことだろう。いくらつぎ込んだことだろう。アルバイト禁止の学校で親のすねかじりによって生活していた私である。毎回消えていく数枚のお札を無念の思いで見送りながら、とにかく期限の半年までにはケリをつけなくては、と神にもすがりたい心境であった。

晴れて免許を手にした私を待っていたのは、自信喪失という嫌な言葉だった。家の車はちょうど、セダンタイプからどでかいワゴン車に買い換えたばかりであった。ウソでしょ・・・習った車と全然違う、車両感覚もへったくれもあったもんじゃない。

ただでさえアタフタしているところへ、気の短い父の罵声。カワイソウな私はすっかり萎縮してしまって頭の中は真っ白、泣きたいのを意地でこらえてどうにか車を動かす。帰宅してバッタリ倒れ込む。ヒザはガクガクと震えていた。

「クルマなんか運転するのはまっぴら! 乗ってる方が気がラク」

まだ若い私の心に刻みつけられたキズは深く、その後15年(ん?計算が・・・)にわたって影響を残してきたのだった。かたくなに運転を拒否してきた私が、再び教習所を訪れようとは。

「こっちに来たら、毎日でも練習すればいいよ」

明るく請け負ってくれた先輩ドライバーの父と妹であったが、内心はやはり信用していなかったのではないか。私の意気込みとは裏腹に、1週間の里帰りで、運転したのは2回だけであった。

父の車も、妹の車もオートマであった。おっかなびっくり、オートマ初体験。

まず面食らったのは、エンジンがかけられないこと。ギア(というのか、コレも?)がパーキングという状態で止まっているのを、ドライブに入れようと思っても動かない。パワーウインドウなので、後から来て説明しようとする父の声がよく聞こえない。エンジンがかからなければウインドウも開かない〜。

そうか、このパーキングの状態でキーを回すのか。それも、ど真ん中にある大きなブレーキをしっかりと踏んでいないと飛び出すのだという。エンジンがかかってから、初めてドライブへ入れて、そろそろとブレーキを離しながら発進〜〜。

不思議なことに、何もしない状態ではオートマ車は前へ前へと行きたがり、マニュアル車は下がりたがるクルマなのだそうである。だから、クルマ自体は前進を始めているのだが、それはアクセルを踏んでいるからではなくて、動きたがるのを押さえていたブレーキをゆるめているからなのだ。何だかこの大きなブレーキは、止めるためのもの、というよりは動かすためのもの、まるでアクセルであるかのような錯覚にとらわれそうになってくる。よく耳にするブレーキとアクセルを間違えて起きるオートマ車の事故は、こんな錯覚からきているのかも知れない。

さていよいよ、天下の往来をクルマは走り始めた。おお! 感想を言葉にするなら、これしかない。「おお!」。簡単。はっきり言って、遊園地のゴーカート感覚(コワイな)。前の車がいきなり右折でスピード落とそうが、踏切にさしかかろうが、混雑した商店街を走ろうが、ど〜んと来い!ってなモンで、ギアチェンジの必要がないということが、これほどラクなものだったとは〜。バックで駐車、という状況はまだ練習が必要だが、前進するだけなら簡単カンタン、ってなものである。

そしてため息。我が愛車はマニュアル車であった・・・。
「ま、冬の雪道なんかはマニュアル車じゃないと、踏ん張りがな」
なぐさめるようにつぶやく父。しかし、盛岡に帰ってあらためて友人に聞くことには、み〜んなオートマ車。も一つオマケに雪深い秋田に住むお義姉さんもオートマであったという事実が発覚。「冬も変わんないよー。ええっ、マニュアルなの?すっご〜い」

別にすごくなくても良かった。ただ、満足にクルマを動かすことさえ出来ればそれで十分な私。それなのに・・・。

「マニュアルってさ、運転が好きで好きでたまらない、オートマじゃ物足りないって人が運転するモンだと思ってたよ」

ぺーどら返上して10年以上になろうかという友人のとどめの言葉であった。