*** ご注意 **

この「Engage blues」は未来編です。

全体的に、世の中のあり方をはじめ、現実には到底ありえないホラ吹き設定になってます。
また、未来編ということで、原作との相違点が多いと思われます。

そのようなお話が苦手な方、または、ご理解していただけない方は、申し訳ありませんがご遠慮ください。
「どんなんでもOK! ドンと来い! 笑って許してあげよう!」という心の広い方のみ、どうぞ〜♪






 長く、未来に続く道が、この先に細く見える。

 この道をともに歩くのは──。

 きみでいいのか。

 ぼくでいいのか。


Engage blues



 恋のキューピット役をやりたがる人というのは、どこにでもいるらしい。
そういう人は使命感に燃えるあまり、空気が読めなくなってしまうようだ。

 ぼくが所属するKフィルでも古株に入る佐々木博隆は、その傾向が謙虚に出ている人だった。
彼は、現在の主席チェロである。
だからなのか。弦の、特にチェロの中には、彼が仲人したカップルが少なくないと聞いていた。

 移籍したばかりの頃、第一バイオリンのある男性が、「佐々木さんって百組の仲人を目指してるそうですよ。仲人が趣味だって言ってました」と朗らかに話しかけてきてくれた時も、「そうなんですか。百組なんてすごいですね」と他人事と割り切って、ぼくはのほほんと聞き流していた。
男性も、「佐々木さんの押しの強さがあったら、千組も夢じゃないかもしれませんよね」と笑い返して、お互いあの時は、ほんの時間潰しの会話のつもりだった。

 その後も、佐々木に狙われたら結婚するまで狙われると、とか、彼の熱意は凄まじい、とか。そんな噂は絶えなかったし、「縁を取り持つのは自分の天職だ」と周囲に公言していた佐々木の姿を直接、ぼくも折に触れ、目にしていた。

 それからしばらくして、佐々木のことを最初に教えてくれた男性が、「いやあ、結局俺も佐々木さんの紹介で結婚することになっちゃてね」と若干照れながら結婚の報告をしてきた時も、「佐々木さんってホントに百組狙ってるのかもなあ。すごいなあ」くらししか、ぼくは思わなかった。

 なのに、半年前のこと。
何をトチ狂ったのか、「葉山君、少し時間あるかな」と佐々木がぼくなんぞに声をかけてきて、
「実は、君に紹介したい人がいるんだよ」
揉み手をするように、ぼくのスケジュールを尋ねてきた。

 もしも佐々木から逃げたいならば、独身主義を根気よく説くか、交際している相手がすでにいる旨を申告するか、どちらにしても返答は明確にしたほうがいい。
そう、飲み会の席で同年代の同僚たちが話していたのを思い出して、その教えを真摯に受け止めて、いつもならあやふやに済ませてしまうぼくもさすがにその時は、「すみません。付き合ってる人がいるんです」とはっきりとその場で断った。
もちろん、その日のうちにギイにもちゃんと、「今日、こんなことがあったんだよ」と報告して、誤解のないようしたつもりだし。
ギイだって、「へえ。託生に目をつけるなんていい趣味してるじゃん」などとぼくをからかってきて、その話はそれで終わったかと思っていたのに──。

 何をどうすればこうなってしまうのか。
半年経った今、定期公演のリハが終わった途端、佐々木がつかつかとぼくのところにやってきて、「どうかな、葉山君。このあとお茶でも。実は紹介したい人がさっきから君を待ってるんだよ」とおもむろに切り出してきたのだった。

 佐々木はとても張りがある声の持ち主だった。
彼の声は、まるで彼が奏でるチェロのように低音が綺麗に響くのだ。
普段ならば、「いい声してるな」くらいの感想で終わっていただろう彼の声だが、この時ばかりは、遠くまで響くその声の良さがとても恨めしかった。

 彼にとっては静かに、だがぼくにとっては声高々に、佐々木がぼくに声をかけてきたお蔭で、その意味するところは周囲に筒抜けになってしまった。
事実はもう打ち消せない。
突然、ステージ上が、しーんと静まり返ったことでも、佐々木の言葉がみんなに知れてしまったことは明白だった。
ぼくの近くにした数人は片手にバイオリンを持ったまま微動だにしないまま、聞き耳を立てている。
興味津津にこちらを窺う彼らの、今後の展開を期待する好奇心に、ぼくはすごくいたたまれなくなった。

 彼らの期待に満ちた熱い視線に耐えられなくて、ぼくが顔をそむけると、じっとこちらに視線を送ってきていたのはその場に残っていた第一バイオリンのメンバーだけでなかったことに気がついて。
途端、どこを見ていいのやら目のやり場がなくて、ぼくはほとほと困ってしまった。

 だが、ちょっと待てよ、とぼくは思った。
佐々木の「紹介したい人」というのが、ぼくを含めたみんなの想像通り、結婚に結びつく人かどうかはまだわからないじゃないか。
もしかしたら仕事関係の人かもしれない。まずはそこを確認するほうが先だろう、と。

 いくら聞きづらいこととはいえ、ここは確実に抑えておかなければならないところだ。

 ぼくは勇気を振り絞って聞いてみた。

「あの……。その、紹介したい人というのは──」

 すると。

「ああ。スポンサーのひとつである東条院グループのお嬢さんだよ。
君にバイオリンのことで頼みたいことがあるらしくてね。
今日、わざわざいらっしゃることになってるんだよ」

 つまり、楽器のことを出してきたということは、仲人云々の話ではないってことだ。
そう判断したぼくは、「わかりました。ぼくで役に立てることがあるなら言ってください」ととりあえず返事をしておいた。

 仕事絡みだとわかった途端、周囲の緊張も一気に緩んで、ざわざわと談笑が再開しだす。

──何てあからさまな反応なんだろう。

 一気に肩の力が抜けるのをぼくは感じていた。

 それから、ぼくは佐々木に連れられて、近くのフルーツパーラーに向かった。
店内は白を基調とした色合いでとても明るくかった。
昼はフルーツを使ったランチメニューが人気のようで、多くの女性客で賑わっていた。

 ぼくたちが行くと、すでにそこには二十歳を過ぎたくらいの女性が奥のテーブル席に座って待っていた。
その女性はぼくたちに気づくと、にこやかに笑顔を浮かべて、「お忙しいところ、このたびは無理なお願いをして申し訳ありません」と軽く頭を下げてきた。

「いえいえ、こちらこそお待たせしてしまいましたかな。すみませんね、リハが長引きまして」

 満面の笑みを浮かべながら、佐々木も同様に頭を下げる。

「いえ、私が少し早めに来てしまっただと思います。
佐々木さんが約束の時間に遅れたわけではありませんわ」

 一部の人の間では気難しいとさえ言われている佐々木が機嫌よくしている理由が、彼女を目にして何となく察せられて、自分よりもずっと年上の佐々木に対して、「結構かわいい人なのかな」などとぼくが畏れ多くも思ってしまうくらい、目の前の女性はとても綺麗な人だった。

 彼女に抱いたぼくの第一印象は、『百合の花のような清楚な美人』。
すらりと背筋を伸ばした様子が凛としていて清々しく、背中に垂れた真っすぐに伸びた黒髪が純和風の人形のそれを思わせた。
長い睫毛が黒々とした瞳を大きく見せている。
うっすらとした薄化粧が楚々とした彼女の雰囲気にとても似合っていて、世間では確実に美人の部類に括られる女性なんだろうな、と思った。

 とはいえ、佐々木と違って、彼女がいくら目の覚めるような和風美人だからと言って、浮き足立るようなことにはぼくはならない。
実は、こう見えてもぼくは、『美人』には免疫がありすぎるほどあるのだった。

──お蔭で、初めて会う人がすごく綺麗な人だからと言って、目の前で醜態を晒す羽目にはならないで済みそうだし。何が功を奏するかわからないもんだなあ。

 その彼女が改めてぼくに向き直った。
姿勢を正して、「はじめまして、東条院佳奈と申します」とお辞儀をする。
その丁寧な仕種から、しつけの行き通った育ちの良さが窺えて、昔、祠堂時代、似通った雰囲気を持った人がいたのを思い出して、彼女もきっといいところのお嬢さんなんだろうと思った。

 やはり、と言うべきか。佳奈は自分が他人に特別な印象を与えてしまうことに──つまり、美人として扱われることに慣れているようだった。
ぼくが戸惑うことなく、「こんにちは、葉山託生です」と挨拶をすると、佳奈はほんのわずかに目を見開いて、面白そうに薄く笑ったように見えた。

 互いに軽く自己紹介したあと、長居は無用とばかりに、「あの、バイオリンについて聞きたいこととは、どのようなことでしょう」とぼくは早速、本題に入ろうとしたのだが。

「すまんすまん。あれは実は嘘なんだ。葉山君には半年前も振られてしまったからね。
だから、ちょっと餌を撒かせてもらったんだよ」

 全然悪気もなく、そう佐々木に言われてしまい、
「餌……? ってことは、これはつまり……」
佐々木を訝しげに見れば、当の本人はそらとぼけて、「そんなことはもういいじゃないか。きみだって、こんな美人と知り合いになれて嬉しいだろう?」と言い出す始末。

「いやあ、東条院さんには前々から君を紹介してほしいと頼まれていてね。
以前、交際中の人がいるときみに言われて、あの時は一旦引いたが、その後も葉山くんのおめでたい話はひとつも聞こえてこなかったろう?
もしかして、そちらとは縁がなかったのかな、と思ってね。改めて再挑戦させてもらうことにしたんだよ。
将来有望なバイオリニストにとって支えてくれる人がたくさんいることは大いに結構なことだからね。
人生の伴侶しかり、スポンサーしかり……。
その点、こちらの東条院さんは打ってつけだ。
ははは、いやはや、これはお嬢さんを前にして、打ってつけなどとは言葉が過ぎましたかな。
まあ、とりあえず、これで葉山君を紹介するというお約束は守りましたよ。
では、あとはふたりでごゆっくり。
ここはケーキも美味しいようですし、お茶でも飲んで交友を深めてはいかがですかな」

 佐々木は始終にこにこ顔のまま、そう言いきると、「では私はこれで」とさっさと席を立ち、「ああ、とてもお似合いのふたりだなあ」と鼻歌交じりに独り言を言いながら、足取り軽く帰ってしまったのだった。

 残されたぼくはどうしたらいいのか。

 ちらっと相手の女性を見てみた。

 これはもしかして、お見合いなどで俗に言うところの、「あとは若いおふたりでどうぞ」というやつだろうか、などと思ったところでもう遅い。
ぼくがお見合いをしたなどとギイに知られた時にはどうなることか。
考えただけで、サーッと血の気が引いて目の前がくらりと揺れそうになった。

 ぼくに付き合っている人がいるということを知っているのは、オケ仲間ではおそらく、四重奏を組んだことのある親しい弦仲間数人くらいだろうか。
これまで、付き合っている人がいることを特に大っぴらにしていたわけでもなく、ましてや、自分の友達すら紹介したこともない。
きっとぼくはみんなから友達の少ない、いつもすごく寂しいプライベートを過ごしている男とみんなに思われてるに違いない。

──これでも十年来の恋人がいるんだけどなあ。

 とはいえ、その十年来のぼくの恋人は滅茶苦茶忙しい人で、月の半分は海外に行っていて日本にいないときているので、ぼくが月の半分は寂しい日々を過ごしている、というのはとても正しい見解だ。
お蔭で、ぼくの日常は始終デートで忙しいということもない。
バレンタインデーやクリスマスというような、恋人がいる人ならぜひとも休みを取りたいと思うようなイベントの日でも、くだんの恋人が日本にいないなると、ぼくは一気に時間が空いてしまう。
だから、特に用事がなければ、ぼくは頼まれれば小さな仕事でも平気で受けてしまうし、飲みに誘われれば素直についていく。
そんなこんなで、周囲には完全に独り者だと思われているんだろうな、とは常々思っていたけれど。
その勘はドンピシャあたっていたわけだ。

 とはいえ、一気に見合い話に進むとは……。
さすがにこれは想定外だった。

──参ったなあ。付き合っている人がいますって佐々木さんにはちゃんと言ったのに。
そんなにぼく、ヒマしてたつもりはないんだどなあ。

  半同棲状態と言える今の生活環境がなかったら、ぼくたちの場合、それこそ会う会わないで毎回ひと悶着しているところだろうけれど、今のところ、月のおよそ半分は恋人も日本にいられるよう努力してくれているので、短い時間になるかもしれないけど、それでも自宅で顔を合わせて相手と直接触れ合うことができるから、とりあえず満足している……。というか、恋人と折り合いをつけながら、寂しいのを我慢しながらも何とかやっていってると言うべきか。

 ぼくの麗しの恋人、崎義一──ギイ。
ぼくに恋人がいることを知っている弦仲間の友人たちも、ぼくの相手がギイだということはおそらく知らないはずだ。
ギイがかけてくる電話を彼らの目の前で受けたことがあったからか、ギイとぼくの会話の断片から、ぼくの相手を勝手にイメージして、『綺麗でお茶目な彼女によろしくな』などとからかってくることはあるけれど、おそらく彼らは、ぼくの恋人が男で、なおかつ、世界に名だたるFグループ会長の御曹司だとは夢にも思っていないだろう。
ぼくにとって親しい部類に入るそんな彼らにさえ、ぼくは婚約したことをいまだ言えないでいるのだから、当然、佐々木が知るわけがない。

──きっと、佐々木さん。この半年の間、ぼくが何かと細々仕事を受けてたの知ってたんだなあ。
もしかして、今、フリーでデートする相手がいないから、仕事してたってふうに見られてた? 参るなあ。

 とはいえ、どんな理由であれ、とにかく、この状態がやばいことには変わりない。
ぼくのこととなると、「視野が狭くなって困る」と公明正大に自己申告しているギイのことだ。
開き直ったギイの怖さはピカイチだと、ぼくは身をもって知っている。
彼はああ見えて、結構なヤキモチ焼きなのだった。
お見合いをしたなどと言ったらどうなることか。
ぼくにその気がなくても、立派な浮気と位置付けしてしまう可能性だってある。

 やばいやばい。
そうなると、あのギイのことだ。
地球の裏側であろうと地の果てだろうと、浮気相手を見つけ出して何らかの制裁を下そうとするに決まってる。

──今、ギイが日本にいなくてホントによかった。

 ぼくは咄嗟にそんなことを思ってしまったとしても仕方ないだろう。
ちゃんと説明したらギイだってわかってくれるとは思うけれど、お見合い目的でこんなすごい和風美人と会っていたなんてギイが知ったら、普段の冷静沈着が鳴りをひそめて、さすがのギイも冷静な判断できるかどうかなんてわからない。
実はギイは、ぼくが美人の女性に近づくのをもっとも毛嫌いしている節だあるのだった。

──ホントにもう。今日のこれは不可抗力なんだぞってぼくだって文句のひとつも言いたいくらいなのに。
これ以上、ゴタゴタに巻き込まれるなんて堪らないよ。

 とっとと愛想を尽かされて、ここはさっさと退散するに限る、とぼくはこの時、早くも決心していたのだった。

 そんなぼく側の事情を相手の女性にわかってほしいと思うのは虫がよすぎる話だろうか。

 人生初のお見合い相手をちらちらっと窺うと、佳奈はこちらのびくつきを察したかのように、自分を見るのを待ってましたとばかりににっこりと笑い返してきた。

 そして佳奈は、綺麗な顔を小悪魔風に意地悪く笑って、こんなふうにきっぱりと言い切ったのだった。

「最初に言わせていただきますと、うちはKフィルのスポンサーも務めてますが、創業以来の理事も務めていますわよ」

 脈略のない話の展開に付いていけなくて、「えっと、それと今回のこれとにどんな関係が……?」とぼくが尋ねると、
「葉山さん、意外と鈍くていらっしゃいますのね。
あなたが知りたそうなことだと思いましたから、事実を言ったまでですわ。
佐々木さんは私の祖父が理事のひとりだと知ってらして、この席を用意してくださいました。
この意味、わかりまして?」
そう逆に訊き返されてしまった。

「つまり、理事のお孫さん相手のお見合いは断れない……とか?」
「そういう言い方をなさるってことは葉山さんはこのお話に乗り気じゃないってことですのね。
ふう……、そういう反応を返されるとはまったく思いませんでしたわ。
これでも少しは女性として魅力があると皆さん褒めてくださいますのに。
葉山さんの反応はすごく新鮮ですわ。とても興味深いですわね」
「ははは、新鮮ね……。そりゃどうも」

「この場合、褒め言葉ではありませんことよ、葉山さん」

 一言話すたびにこちらの弱みを握られていくような気がするのはどうしてだろう。
年下の女性が相手なのに、何だかすごく怖かった。

 このお見合いをうまく断るにはどうしたらいいだろう。
できれば、相手の虚栄心を傷つけないで断わる方法はないだろうか。
いくらお見合いを断るためとはいえ、ギイのことはできることなら話したくないし、さて、どうすべきか。

 ギイの名前を出したら一発で引いてくれるだろうけど、それではギイを利用するようでぼくは嫌だった。
ぼくの麗しの恋人はあまりにもたくさんのモノを持っている人で、本来ならば、ぼくのような庶民とは出会うことすらない世界に住む、手の届かないような存在なのだ。
彼自身もとても魅力的な人だけれど、政界や財界の人にとって彼の背景はもっと魅力的に映るらしい。
つまり、ギイには利用価値がすごくある、ということだ。

──でもそのギイも、寄ってくる相手を逆手にとって利用してしまうんだからお互い様かも?
ギイってばそういう駆け引き、ホントうまいんだよなあ。

 そんなギイが心配することといたら、もっぱらぼくのことで。
財界に顔の利く彼とぼくとが繋がっていることが知られたら、不逞な輩がきっとぼくを利用してくるに決まってるから気をつけろ、と訪米するたび毎度毎度口を酸っぱくして言い残してゆく。
ぼくだって自分だけが利用されるならともかく、ぼくを介してギイが利用されるなんてまっぴら御免だ。
だから、ぼくは恋人がいることは隠さないが、どんな時でもギイの名は極力出さないように気をつけていた。

──でもこの先、これで結婚なんてことになったらどうなっちゃうんだろう。

 ギイとぼくは、先日、正式に婚約したばかりだった。
先週、彼の実家があるニューヨークまで出かけて行って、ぼくは彼の家族と和やかな夕食を囲んだ。
あの晩は、多忙を極めるギイのお父さんまでいて、最初は落ち着かなかったけれど、会話を日本語にしてくださったお蔭でどうにか話に付いていけたし、さすがにブラックホールの胃袋をもつギイの実家だけあって、出てくる料理の品数や量は半端じゃなかった。
息子の食欲を普通だと思っているのであろうギイのお母さんから、「もっと食べなさい。これも食べなさい」とたくさん料理を勧められて、楽しくておいしくて嬉しくて……。
結局、つい調子に乗って食べすぎて、みんなが部屋に戻ってから、ギイから胃薬をもらって飲んだくらい、ニューヨークでの日々は幸せの連続だった。

 内輪だけの婚約式を執り行いたいと提案したのはギイだった。
ギイのお父さんやお母さんもぼくの両親も了承してくれて、善は急げとばかりに翌週末、ギイの両親がわざわざ日本に来てくれた。
ギイもぼくもお互い男なので、どちらかが嫁に行くとかそういう意識もなく、だから、従来の結納をする必要はなかったのだけれど。
Fグループというバックグラウンドを背負うギイと結婚するということは、ぼくが望むにしても望まないにしても、ぼくが周囲から崎家の一員として見られるのは避けられない。
避けられないのなら、正式にそれを表明したほうがいい。
つまり、葉山の名前を捨てる必要はないが、崎の名前を名乗ったほうが今後、ぼくの立場がはっきりするという、ギイのお父さんの助言もあって、このような形を取ることになった。

 アメリカから、ぼくの実家にトラック一台を引き連れながら乗り込んできて、結納道具一式を運び込んだ時はさすがに目を見張ったものだったが、ぼくの両親は、彼の家族がぼくを受け入れてくれている証拠だと言って素直に喜んでくれていた。
結納道具のひとつひとつがえらく仰々しくて、うちの床の間に入りきらないほどたくさんあって、名称すらわからないものが普段客間となっている和室のそこかしこに並んでいた様子は足の踏み場もないくらいだった。

 だが、ぼくもぼくの父も母も安易に喜んでいられたのはつかの間だった。
結納が無事済んだその日の夜、結納道具のひとつひとつに結納金が包まれていたことを知ったぼくたち三人は、「ぎゃー」と腰を抜かさんばかりに驚いて、返す返さないでひと騒動起きたのだった。
やっぱりぼくの家は普通の一般家庭で、ギイのうちとは違うんだなと再認識したものだ。
とにかく、包んであった額がすごすぎた。

「婚約記念にもう一本、ストラディバリでも買ってやろうか」というギイの提案を即座に却下したぼくへの当てつけか!
そんなふうに最初は本気で憤ったぼくだったが、あとから、ニューヨークの本宅にぼくだけでなくぼくの父も母も頻繁に遊びに来てほしいというギイの両親の気持ちがこめられたものだったとギイから聞いて、結局、両親とぼくは恐縮しながらも受け取ることにしたのだった。
そのずっしりと重い渡米費用を手にしながら、「この先、十年くらいは困らんだろうなあ」と父がぽつりと零していたのが今もすごく印象に残っている。

 静岡のぼくの実家での結納が滞りなく済んで、、アメリカのニューヨークの本宅にて、互いに家族を紹介し合うことになった時、ぼくの両親は結納返しに悩んだものだ。
そりゃそうだろう、あの結納金に見合う結納返しなんて、ポンと思いつくはずがない。

「崎家の財力を考えたら、買えないものは何もないだろう。
うちがどんな高価な物を贈っても、お金を出して手に入れられる品などあちらにとっても高が知れてるだろうしな。買えるものではきっと想いは通じないもんだ。
……とはいえ、どうしたものか」

 ああでもないこうでもないと散々頭を悩ませた結果、「要は気持ちの問題なんだから、私たちの気持ちとして、父さんと母さんは、託生の親として世界にひとつしかない物を持っていこうと思う」と言って、行きついたのは、五枚の花びらが星の形に開くブルースターの花をデザインしたステンドグラスのお壁掛けだった。
父と母は、この数年、夫婦共通の趣味として、近くの地区センターでステンドガラス作りを習っていた。
その趣味を活かして、「あんな大層な結納金のお返しには貧相すぎるかもしれないが」と言いながら、ふたりで精魂こめて作ったらしい。
身内の欲目かもしれないが、素人ながら素敵な作品に仕上がっていた。

『サムシングブルー』からしばしばブライダルに使われるブルースターの花言葉は、信じ合う心。
花言葉に、父と母の想いをこめて作った、世界でただひとつのステンドガラス。
ふたりがいろんなことを考えながら婚約パーティに臨んでくれたことがすごくありがたかった。

 崎家の本宅の玄関ホールに足を踏み入れた時、ぼくの両親は初めて訪れるギイの実家の想像を絶する広さと豪華さに圧倒されながら、「託生が結婚しようとしている相手はこんな世界に住む人間なんだな。今更だが、託生は本当にやっていけるんだろうか」と心配げにぼくちらっと見て言った。
だが、そんな父と母の不安そうな顔も、ギイの両親が青を基調としたブルースターのモチーフの出来栄えをとても褒めてくれて、「素敵な記念になります」と喜んで受け取ってくれると、固く緊張した頬を幾分緩ませていた。
父も母も、自分たちの気持ちがギイの両親に伝わってとても嬉しそうだったから、ぼくももっと嬉しくなって、その日もちょっとだけ涙が滲んでしまった。

──あの時、ギイに見つかってしまったのはちょっと不覚だったけど……。
でもみんなが喜んでくれてたからよかった。

 崎家の名声を考えると、ものすごくこじんまりとした婚約式となってしまったのかもしれない。
けれど、ぼくもギイも両親たちも、始終笑顔でつつがなく終えることができたし、結納金のことを除けば、ぼくたちらしい大満足の婚約式になったと思う。

 ぼくたちの婚約期間はおよそ二ヶ月間。
ギイはその短い婚約期間を十二分に満喫することにしたようだ。

「もしもし、章三か? オレオレ、託生のフィアンセだけど〜」

 章三が迷惑がっているのをわかっていながら、あえて当てつけに、アメリカから何度も電話をしているギイ。
ホントに何をやってるんだか。
「葉山、おまえは何をやってる! いい加減、浮かれ頭のギイを止めろ」と電話口で怒鳴られるぼくの立場も少しは考えてほしいものだ。

「だって、二ヶ月しかないんだぜ。今しか『フィアンセ』でしかいられないんだ。楽しめる時に楽しまないでどうするよ」がギイの言い分で。
友人知人に大っぴらにギイを紹介する機会のないぼくは、『フィアンセ』や『婚約者』なんて言葉を使う機会などほとんどなくて、それがまた、ギイにはもったいないくてじれったいんだそうだ。

 確かに、二ヶ月の婚約期間は短いほうだと思うし、ギイが浮かれたい気持ちもわかる。
ぼくだって浮かれてないわけじゃない。
今年の夏を迎える前にはギイの伴侶になっているだよなあ、なんてことを想像しただけで、まるで異次元の世界に入り込んだ気になってしまうし…。
婚約した実感すらあまりないというのに、浮かれ気分だけは人一倍あるなんて、何だかヘンなんだけど。

──そう、このままいけば、二ヶ月後にはぼくとギイは正式に結婚しているんだ。

 正式に世間に認められて、周囲に祝ってもらえて結婚できるなんて、何だか信じられないけれど、これが現実なのだ。

 でも、この結婚がいいことばかりではないこともぼくは充分わかっているつもりだった。

──そうなんだよね。今まで恋人って関係だった時でさえ、いろんな悩みが付きまとってたのに。
結婚して、ぼくが法的にギイの伴侶と認められた瞬間、間接的ではなく直接的にぼくの背景にFグループの影が付きまとうことになるんだ……。
それもまた現実なんだよなあ……。はあ……。

 近い未来、ぼくが余計な荷物を背負うことになることを、ギイがすごく申し訳なく思っていることをぼくは知っている。
ぼくがいくら「平気だよ」と言っても、ギイの憂いは晴れることはない。

 ぼくがFグループの重圧に負けないか。
Fグループという付加価値のせいで、ぼくがギイを重荷に思わないか。
ギイが心配している理由は特にそこらへんあたりなんだろうけれど……。

──カラ元気で「平気だよ」って言ってるわけじゃないんだけどなあ。
っていうか、あまり真剣に考えてないっていうか。
正直言って、Fグループ一族の一員になるなんて実感、今でも全然わかないし。

 ぼく自身に自覚がないものだから、ギイばかりが空回りしているような気がしないでもない。
でも、ギイが心配しているその様子からして、ギイが背負ってきたものがどれだけ重くて大きいものかはじわじわ伝わってくるというもので……。

──ギイ、この前、「結婚式当日に怖気づいて、もしぼくが逃げ出したらどうする?」って言ったの、マジに受け止めてたし……。結構ああ見えて心配性だもんなあ。

 確かにプレッシャーはあるし、Fグループなんて関係ないって言いたいところだけどそうもいかないこともわかってる。
かといって、ギイに心配かけないで済む方法といっても、ギイのことを誰にも言わないことくらいしか思いつかない。

──どう動いたらいいかわからないっていうか……。誰かに教えてほしいくらいだよ。

 婚約したことをぼくが誰にも話せないでいるのは、これ以上、余計な負担を背負いたくないからだ。
そうは言っても、以前からぼくとギイのことを応援してくれていた祠堂時代の友人たちにはポツポツ連絡をとっているし、いまだにオケ関係仲間に言えないでいるのは確かだけど、まったくの内緒にしているってわけではない。

──オケか……。そっちのほう、ほんとにどうしよう。

 そんなふうに、最近、少し心苦しく思っていたところに降って湧いたこの見合い話ときたもんだ。

──何でこんなことになるかなあ。

 ぼくだっていつまでもこのままでいいとは思っていない。
だけど、オケのみんなに話したあと、彼らの態度は変わってしまわないだろうか、と思うたび、つい婚約のことを告げることに尻ごみしてしまうのだった。

 Fグループが周囲に与える影響のすごさは格別だ。
祠堂時代のギイの苦労を知っているから、Fグループと縁故を結びたい人の多さはぼくにだって簡単に想像がつく。
オケ仲間みんながみんな、態度を変えるとは思わないけれど……。
演奏家は本来、金食い虫なのだ。きっとどこかに小さな変化が生じてしまう気がする。
それを想像するだけで面倒になってしまって、ついこの問題に触れようとすると何気にスル―してしまうぼくなのだった。

 ぼくが留学を終えて日本に帰国した頃だったろうか。
久しぶりに会った井上佐智が、すでにプロとして活躍している先輩として、独り立ちしようとしているぼくにアドバイスをくれたことがある。

『演奏者として活躍するためにはスポンサーが必須だけど、僕にしても託生くんにしても、わざわざスポンサーを探さなくても済んでいるでしょう。
つまり僕たちは恵まれてるってこと。それをいつも心に刻み込んでいて』

 そして彼はこうも言っていた。

『僕たちみたいな苦労知らずを妬む人もいるし、少しでも恩恵を預かろうと近づいてくる人もいる。
そんな人たちの思惑を測って、見極める目を養うことが託生くん自身を、強いては義一くんを守ることに繋がるっている。
託生くんのこれからの頑張りは、きっと人間としても演奏者としても、きみと成長させてくれると思うよ。
そしてそれは、きっと義一くんとの幸せにも繋がっているんだ。
だから、託生くん。これからも頑張ってね』

 最後の『頑張ってね』の時、佐智の視線はギイをとらえていた。
つまりは、「ギイと仲良く」を『頑張ってね』と、あの時の佐智の優しい表情は語っていたのだと、ぼくはそう思っている。

 世間の荒波への忠告と、勇気を持って賢く生きる術がこめられた佐智の言葉。
演奏者としてこれから一歩に踏み出す期待と不安に武者震いしながら、「はい」と強く頷いて、ぼくは佐智と約束を交わした。

 井上佐智はギイの幼馴染でもあり、父親の井上貞夫氏とギイのお父さんは親友というかライバルというか、気の置けない友情(?)で繋がっていると聞いている。
佐智自身、演奏者として歩いてきた道を振り返った時、彼の今までの人生の中にも、きっと佐智の実家の恩恵を期待して近づいてきた者もいたのかもしれない。
それでも佐智は、自分が他人に与える影響を最大限に生かして、サロンコンサートや各種イベントを開催することで、未来の音楽界のため、演奏者の卵たちにパトロンやスポンサーを紹介してきたのだろう。
ぼくを誘ってくれたあの高校二年の夏のサロンコンサートの時のように。

 それは自分の持つ井上産業という大きなバックグラウンドがあってこそできることかもしれない。
それでも、それを有効な武器として利用することを決めたのは佐智自身だ。

 佐智は、利用されるのではなく、利用することを選んだ。
でも、それは佐智の強さと音楽への想いがあったからこそ可能となった方法だ。

 ではぼくは?
ぼくがギイと結婚をして、彼と法的に結びついた時、どういうスタンスをとるべきなのだろうか。

 まだ答えは出ていない……。





「葉山さんにはお付き合いしている方……、つまり、彼女とかはいらっしゃいますの?
そのご様子でしたらもちろん恋人がいるのでしょうね。
この突然のお見合いは、葉山さんにとってはどうやらあまり嬉しくないことのようですし」

 ぼくは返事に窮してしまった。
彼女はいないので、はっきり「いない」と答えるのは簡単だけれど、ギイという恋人はいるので、そうなると「恋人はいない」は正しくない。

 正直に言わないと、このままお見合いがどんどん進んでしまいそうな気もするし。
それは絶対困ることだし……。

「付き合っている人は……正直、います。
だから、これが『お見合い』なら、申し訳ないけどお断りするしかないです」

 精一杯、誠意をこめて、ぼくは答えた。

「そう、やはりお相手がいらっしゃるのね。でしたら仕方ないですわね」

 その時の佳奈の表情は、どう言ったらいいんだろう。とても意外なものだった。
言葉として受け取るならばすごく残念がっているようだけれど、目の前の佳奈は実際、悲しそうでも辛そうでも悔しそうでなく、どちらかといえば、してやったりという思い通りになった達成感で満ちた満足そうな微笑みを浮かべたのだった。

 そして、ぼくの「付き合っている人がいる」という答えは、彼女にとって、まさに『我が意を得たり』だったらしい。
そのあとすぐに、「それはちょうどよかったですわ」と佳奈自身がはっきりと、そう口にしたのだった。

「ちょうどよかった……? ってことは、東条院さんも──」
「佳奈でいいですわ。どうせ東条院なんてそのうち使わなくなるのですから」

「は? 使わなくなる……?」
「佳奈よ。佳奈って呼んでくださいませんか」

「……あ、はい。じゃあ、佳奈さん……で。
それであのっ。このお見合いは、つまり佳奈さんにとっても不測の事態だったってことですか?」
「不測の事態……ですか。まあ、そういうことでもないのですけど、結果的には大満足の結果でしたわ。
実はね、葉山さん。私、あなたにひとつお願いがありますの。
あら、そんなに身構えないでくださらない? 簡単なことですのよ。
私のお友達に会っていただきたいだけですの。
彼女の名前は花菱笙子。そう言えばおわかりでしょうけど、笙子は花菱財閥のお嬢様ですわ」

 花菱財閥の名を出した途端、どうだと言わんばかりに佳奈の唇の端は不自然に笑みを浮かべていた。
花菱財閥は大きなメーカーで、世界中で電気製品を製造、販売している。
確かに、花菱一族のお嬢様と会える機会など滅多にないことかもしれない。

──でも、どうしてその花菱財閥のお嬢様にぼくが会わなきゃならないんだ?

 ぼくとギイの婚約の記事は、アメリカの経済雑誌にたった三行ほどだが掲載された。
ギイの写真もぼくの写真もないまま、「Fグループ会長の一人息子、崎義一と日本人のバイオリニスト、葉山託生が婚約した」という短い文で婚約の事実を伝えていただけだったが、あの記事を見た人ならば、ギイと婚約したのがぼくだと知っていてもおかしくはない。

──ギイとの繋ぎに、『婚約者』のぼくを選んできたとか? ……まさかね。

 なぜなら、この佳奈はギイとぼくのことを知っているようには思えなかった。
ぼくに彼女がいるのかと訊いてきた時点でギイのことを知らないだとわかるというものだ。

──……だとしたら純粋に、ぼくと自分の友人を引き合わせたいだけなのかな。でも何のために?

 考えていることがいつの間にか顔に出てしまっていたようだった。

「どうして私があなたと笙子と会わせたがっているのか、葉山さん、今、すごく不思議そうな顔していらっしゃるわ。
あなた、すごく素直な人ですのね。嘘がつけない人ですわ。
そういう人、私、嫌いじゃなくてよ。むしろ好ましいですわ。
だって、私も嘘をつかなくていいんですもの。
初対面の葉山さんにこんなお願いしていいものか、本当はわからなかったのです。
でも、今、葉山さんと間近で話していて、この人は大丈夫そうだと思えました。
この手の私の感は当たりますの。あなたは安全牌ですわ」

 佳奈に指摘されて、咄嗟に顔を繕ってももう遅い。

「うっ、初めて会った人から安全牌なんて言われても、嬉しいって感じはしないんですけど……?」
「あら、私にしてみれば、これはすごい褒め言葉ですのよ。
葉山さんも素直に受け止めらして結構ですわよ。そんなに身構えないでいただきたいわ。
私や笙子は葉山さんを捕って食べたりいたしませんことよ」

 ほほほほ、と口に手を当てて軽やかに笑うさまは、いかにも良家のお嬢様らしかった。
ちょっと堅苦しい口調が気にならないわけでもないけれど、相手がすごいお嬢様だとしても、佳奈と会話をするのは最初感じた印象と違って慣れれば苦痛でも何でもない。
むしろ、ポンポンと返してくるテンポの良さと、きっぱりはっきり正直に言ってくれるところが気に入った。
初対面の女の人とおしゃべりしていて居心地がいいと思ったのは、久しぶりのことかもしれない。

「笙子と私は同じ大学をこの三月卒業しますの。
笙子は卒業と同時にお嫁に行くことが決まっています。
私は笙子が嫁ぐ前に素敵な思い出をひとつ作ってあげたいだけですわ。
葉山さん、笙子はあなたにずっと憧れていましたの」

 佳奈は嬉しそうに、笙子とは幼稚舎からの付き合いだと語りだした。
幼稚舎から大学まで一緒だった幼友達の願いを叶えてあげたい。
高等部まではずっと同じクラスだったふたりだったが、大学に進学する際、経済学部に進んだ佳奈と音楽科に進んだ笙子ははじめての別れを経験した。
とはいえ、学部が違ってもふたりの仲のよさは相変わらずで、ずっと親友として四年間大学時代を過ごしてきた。

「笙子は小さい頃からバイオリンを習ってましたけど、最初は大学までそちらに進むつもりはありませんでした。
でも高校三年の秋、葉山さん、あなたの演奏を聴いて、笙子は音楽科への進学を決めましたのよ」

 今のKフィルに移籍する前、ぼくは二年間ほどT交響楽団に籍をおいていた。
入団と同時にコンサートマスターを任せられたので、舞台位置からして、ぼくは客席から見ている人の目を惹きやすかったのかもしれない。

「葉山さんは笙子にとって憧れのバイオリニストなのですわ。
笙子自身は残念ながら早々に嫁ぎ先が決まったため、演奏家の道を断念することになってしまいましたけど……。
ですから、せめて嫁ぐ前に、憧れのバイオリニストに会いたいという笙子の夢を私、叶えてあげたくて。
強引にでしたけど佐々木さんに葉山さんを紹介していただいたのです。これでおわかりになりました?」

 ぼくに彼女がいるかどうか尋ねたのは、嫁ぐ先が決まっている笙子と会わせるに至って、ぼくがふさわしい人物かどうか確認する意味もあったらしい。

「お付き合いしていらっしゃる方がいらっしゃる葉山さんでしたら、笙子に安心して紹介することができますもの」

 笙子の嫁ぎ先は代議士の家系で、いずれ結婚する相手も、将来は父親の後を継いで出馬する予定らしい。
政界と財界を結ぶ政略結婚とのことだが、笙子は自分の人生を納得して受け入れているのだと佳奈は語った。
双方の親が取り持ったお見合いで知り合ったふたりということだが、一目でお互いを気に入ったのは幸いだった。

「笙子はおとなしい子ですが、意志の強い子でもあります。きっと素晴らしい代議士の奥様になりますわ」

 それからしばらく佳奈とおしゃべりをしているうちに、とんとん拍子にぼくは笙子と会う約束を交わしていた。
ぼくにしては珍しく、自分でも驚くくらい、女性陣との、それも初対面の女性を含んだ会食に意外に乗り気になっていた。
佳奈が携帯電話を取り出して笙子の都合を伺いながら、ぼくのスケジュールと照らし合わせて、日時場所を細かく決めてゆく。
電話口にぼくが出ると、笙子は戸惑いながらもすごく喜んでくれて、会うのが楽しみだと言ってくれた。

 ぼくと笙子の仲をとりもった佳奈は、肩の荷が下りて安心したようだった。

「ほっとしました。笙子もすごく喜んでくれて。今日は来て本当に良かったですわ」

 お互いしゃべり疲れたのもあって、喉が渇いたからと言ってぼくたちは、珈琲をもう一杯ずつ注文することにした。
「約束の日を心待ちにしていますわ」と佳奈が言った時、ちょうどよく珈琲が運ばれてきた。
同時に、「あら、佳奈さんではなくて?」と見知らぬ年配の女性が佳奈を見止めて、ぼくらのテーブルに近づいてきた。

 五十代半ばほどの恰幅のいい女性は、じろりとぼくを睨みつけてきて、頭の先から爪先までたっぷりと探るように見つめたあと、
「こんなところでお会いするなんて。なんて偶然でしょう。
でも、佳奈さん。あなた、もうすぐ嫁ぐ身でこんな若い男性と一緒にいらっしゃるなんて褒めた振る舞いではありませんわ。
お願いだからやましいことなどなさらないでくださいな。
相手様に知られたらとんでもないことですわよ。
どうしても、こちらの方とおデートを楽しみたいのでしたら、せめてお式を挙げてからになさい。
それまでもう少しご辛抱なさいませ」
そう言って、佳奈を一方的に諌めてきた。

「ご無沙汰してます、白金のおばさま。こちらの方はKフィルの葉山さんですわ。
バイオリニストの葉山さんに友人のことでお願いに上がっただけですの。
やましいことなど何もありませんわ。
それに私が誰と会おうと成田の家は何もおっしゃらないと思います。
あちらはそのような狭い了見など持ち合わせてなどいないでしょうから」
「ええ、まあ、そうですわね。東条院と婚姻を結べるんですもの。
成田家にしたら大層なご出世でしょうからね。この結びつきは必然と考えておられるでしょう。
とはいえ、あまりご無体はなさらないように。年長の忠告は聞いておくものですことよ。
それでは私はこれで。ごきげんよう」

『白金のおばさま』が一陣の風のごとく去って行ったあと、佳奈とぼくの間には、珈琲がちょこんとふたつ並んで、静かに湯気を立てていた。

 しばらくして、「冷めてしまいますわ」と言って、佳奈がミルクをぼくに勧めてきた。
珈琲にミルクを入れながら、いつのまにか、「佳奈さんももうすぐ結婚するんですか?」とぼくは訊いていた。

「おめでとうございます」と安易に言っていいものかどうか戸惑ってしまう。
素直に「おめでとう」を言ってはよくない雰囲気が先ほどの会話に見え隠れしていて、ぼくはどんな言葉をかけていいのか躊躇した。

 そんなぼくの戸惑いを察したのか、佳奈は窓に視線を投げながら、「来月結婚します」と自分から切り出してくれた。

 そうして、つかの間、外に目をやっていた佳奈が、ゆっくりとぼくを振り返った。

「お互い何も知らない同士だからこそ話せることがあるのかもしれません。
私のお話、聞いていただけますか?」

 会ったばかりの強気の印象を拭い捨てて、佳奈は不安げに瞳を揺らしながら、縋るようにぼくの目をしっかりと見つめてきた。

「聞くだけでもいいなら。ぼくには何もできないかもしれませんけど」
「それでもいいです。聞いてください。お願いします」





 佳奈の実家である東条院家は平安時代から続く由緒ある一族ということだった。
祖先をたどれば大名や伯爵もおり、かつては華族になぞらていた気高い家柄である東条院家は財閥解体の憂き目に合いながらも銀行経営で成功を治め、多方面に事業展開していたが、バブルの崩壊によって債権回収もままならず、激変する経済についていけずに家計は火の車。現在では首が回らない状態らしい。

「Kフィルのスポンサーをしていると申しましても、いつまでもつやら。
親族の大人たちは体裁を繕うことばかり必死になって、いまだに栄光の時代に固執した者ばかりです。
元華族とか大名の家系であるとか、そんな家名ばかり固執したところでどうしようもありませんのに」

 本家の娘は佳奈ひとりだけだった。
自分がどこの家に嫁ぐかで一族の明暗が分かれるかもしれない。
恋することに憧れたとしても、恋のために身を滅ぼすことは許されない。
そんなふうにずっと前から自分を律してきた佳奈だった。

「資金援助をしてくださる方のところに私は嫁ぐものと、一族の者すべてが数年前からずっと私に期待していました。
私はその期待を裏切るだけの勇気はありませんでした。
本家に生まれた自分に課せられた責任と思って、一族が決めた方のもとへ嫁ぐつもりでいたのです」

 そんな折、二十歳を過ぎた佳奈は他大学と交友のあるボランティアサークルがきっかけとなって、二歳年上の男性と知り合った。
それが、成田物産の一人息子、成田総一郎だった。

 成田物産は地方の安い土地を購入し、広い土地スーパーマート、各種専門店、アミューズメントからなるエンタテイメントのショッピングセンターを展開して、近年、急成長を遂げてきた会社だった。
そして、ふたりの交際期間が一年を過ぎた頃、総一郎は佳奈にプロポーズをした。
だが、最初、成田家からの申し出に東条院の親族は難色を示したという。

「親族たちは成田のことを今も『成り上がり者』『成金者よ』と呼んで蔑んでいます。
ですが、その成田からの資金援助がなければ、このままでは東条院グループはやっていけないのも事実なのです。
それがとても口惜しいのでしょうね。
気概だけではどうにもならないのに、親族の方々は本当に気位ばかり高くていらっしゃる。
私と会うたび、あんな成り上がり者に嫁がなければならないなんて、何て不憫な娘だろうと皆さん憐れんでくださって。
葉山さんも先ほどのおばさまをご覧になったでしょう?
私が嫁がなければ困ることをおばさまも実際わかっていらっしゃるのに、それでも東条院の家格ばかり気負ってなさるのですよ。
嫁げば嫁いだで家格が違うと蔑み、嫁がなければそれはそれで困りものだと言ってらっしゃる。
大人は本当に身勝手すぎますわ。
そのような考えなしばかり揃ってらっしゃるから東条院が廃れたのだと、全然わかっていらっしゃらない。
仙人ではないのですから霞を食べて生きていけないことなどご存じでしょうにね」

 そして、佳奈は真っ向からぼくと視線を絡めてきた。

「葉山さん。葉山さんは私がどんなふうに見えますか?」
「どうなふうにって……、女性としてってことですか? 正直言って、すごく綺麗な人だと思いますけど……」

「ありがとうございます。
そうなんです。自惚れではなく、私は人様から綺麗だとよく言われます。日本人形のごとくとても綺麗だと。
確かにそうなのかもしれません。ですがそのあたりも私の悩みどころのひとつなのです」

 一旦、佳奈は言葉を切った。
この先を続けていいものだろうかと迷っているようだった。
うつむいた佳奈は、言いたいことがあるのに言ってはいけないと、ぐっと堪えるようにも見えた。

 綺麗ということに悩みがある。
それは、ある意味、女性の敵とも言える発言じゃないだろかとも思ったが、佳奈にとっては深刻なことなのだろう。

 次の瞬間、佳奈が顔を上げた時、何かを決心したのか、目に力がみなぎっていた。

「私、正直申しますと、すごく心が揺れています。
私や笙子が卒業する大学は、言うなればお嬢様が通うと言われているような良妻賢母を掲げた大学なのです。
大学卒業と同時に結婚することなど珍しいことではありません。
むしろ、卒業時に嫁ぎ先が決まっていないほうが少ないくらいです。
総一郎さんがプロポーズしてくださった時、私はとても嬉しかった。
私の家は、東条院家の家計は先ほども言ったとおり、火の車なのですし、有り難いことに総一郎さんのお家はお金がたくさんあるのですから……。
この世界はとても狭いものです。
東条院家の経済状態はうすうす皆さん、気が付いていらっしゃって、私がお金を必要としていることは同級生たちはみんなおそらくご存じだったはず。
ですから、私をお嫁にもらってくれる男性がいらしてくださっただけとても有り難く思いました。
そう、最初のうちは」
「最初のうち? でも総一郎さんという彼のことを好きだから、佳奈さんは結婚を決めたんでしょう?」

「彼の家はお金はあっても家格がありません。
私の家は家格はあってもお金がありません。
もしかしたら、総一郎さんは家名に箔をつけたいがために私にプロポーズをしたのかもしれません。
私は綺麗とよく言われます。もしかしたら彼はこの外見を気に入ってくださったのかもしれません。
綺麗だと褒められて嬉しくない女はいないと思います。
でも、外見などいずれl崩れます。歳とれば誰しもが老いて、綺麗なんて何の役にも立ちません。
お金もない。実家の家名しかない。そして綺麗でなくなった私に何の価値があると思いますか?
何十年か経って、皺くちゃになったおばあさんの私に何が残されていますか?
私は……、私も……、私だってできたら幸せになりたい……。
打算の上で結ばれる結婚など……、本当はしたくないのです」

 結婚する相手は本当に彼でいいのだろうか。
家名欲しさに結婚を了承するような家の息子と結婚して、自分は幸せになれるのだろうか。

 彼は本当に私でいいのだろうか。
彼は私といて幸せになれるのだろうか。
この先、後悔はしないだろうか。

「私には誇れるものなど何もないのに……」
「佳奈さん……」

 言葉はすぐには出なかった。
佳奈に慰めや同情など、言ってどうなると思ったからだろうか。
佳奈が抱く不安はすべて、ぼくも一度は経験している想いだったから、まったく立場は一緒とはとは言えないけど、彼女の気持ちは少しはわかる気がした。

 自分を貶めるつもりはない。
でも、引け目を感じてしまう瞬間があったのも確かだった。

 人がほしいと夢描くものをすべて持っているギイ。
彼がいるだけでその場がぱあっと華やかな雰囲気に包まれて、大勢の人がギイの周囲に吸い寄せられるように集まっていく。
何をするにも鈍くさくて、他人と交わるのが苦手だったぼくとは本当に正反対だった。

 思い起こせばいろんなことが思い浮かぶ。
ギイとぼくはまったく違う存在なのだと自分を卑下して、勝手にギイを無視していた高校一年のあの頃。
祠堂時代の辛いことも悲しいことも楽しいことも嬉しいことも、そして初めて幸せだと感じた思い出も、それらすべて、普段は大事にぼくの中に仕舞われているが、この時ばかりは、「どうしてギイはぼくなんかを……」とギイの気持ちを信じられなかった二年の春のあの頃の気持ちが一気に思い出された。

 ぼくにどんな魅力があるって言うの。
綺麗な顔がいいのなら高林泉とかいるじゃないか。
泉なんてすごく綺麗だし、泉だってギイが好きなんだ。
優しい人がいいなら、ぼくなんかよりずっと優しい人なんてたくさんいる。
ぼくに誇れるものなんて何もないのに、どうしてぼくなの?
ギイの視力って実はすごく悪いじゃない?

 そう思って、実際ギイに訊いたこともあった。
「どうしてぼくなの?」と。

 自分に自信が持てないまま。
じっと静かに時間が過ぎ去るのを待っていたぼく。
ギイが、ただの平凡な葉山託生に「好きだ」なんて言うから、何が起きたんだか自分でも最初はわけがわからなくて、自分の上に降り積もるギイの愛情が信じられなかった。

 あまりにも違い過ぎるふたりだったから。

 なのに、「好きだ」なんて。
ギイの「好き」の度合いを、ぼくはずっと測りかねていた。

 違う過ぎるふたりという意味なら、佳奈とぼくの立場はよく似ていた。
でも、似ていると言っても、ぼくと佳奈では違うところもたくさんあって。
ぼくの外見目当てに近づいてきた人などいないし。
だから、そういう意味では彼女の心は計り知れない。

 ぼくの家は普通の会社員でお金持ちでもないし、立派な家名なんて縁もないから、ぼくが何か言ったとしても、おそらく、彼女の心の奥底まで響くことはないだろう。

 佳奈自身もきっとわかっているに違いない。
だから彼女は最初から、ぼくの言葉をほしいとは言わなかった。
ただ、聞いてほしいとだけ言ってきた。

「初対面の方にこんなお話をしてごめんなさい。いろいろ聞いてくださって、ありがとうございました。
心のわだかまりを出せて、思いのほかすっきりしましたわ。
今度会う時は笙子と一緒ですね。また、三人でいろんなお話をしましょうね。
次に会える日を楽しみにしています」

 ごきげんよう。
そう言って、家路へとたどる佳奈をぼくは途中まで送っていった。

 夕暮れの並木道に浮かぶシルエットがだんだん小さくなっていく。
長く細い影がぽつんとひとつ、物悲しそうに見えた。





 再会を約束した日は、それから二週間後の土曜日だった。
待ち合わせは、先日、佳奈とお茶をした同じフルーツパーラーにして、三人揃ってから、近くのホテルのレストランに移動した。

 笙子と佳奈とぼくの三人でランチを取りながらおしゃべりに興じた。
普段、人見知りするぼくとは思えないほど、自分でも初対面の笙子とも話が弾んでいたと思う。

 笙子は佳奈と同じ、真っ黒い髪をしていたが、直毛の佳奈とは違い少しくせがあった。
ミディアムのヘアスタイルがそのウェーブをうまく遊びに使って、彼女に軽やかな優しい印象を与えてる。

 最初、カチンコチンに緊張しながらぼくに話しかけてきていた笙子だったが、食事が進むにつれ、話題がバイオリンや留学先でのことに触れていくと、デザートが来る頃にはいろんな質問を熱心にしてくるほどお互い打ち解けていた。

 言葉はドイツ語ですよね。習得のコツは何かありますか?
向こうでの授業はどんなふうでした?
ウィーンはオペラが盛んと聞きますが、葉山さんはよく見に行きました?
日曜の午前中のミサで少年合唱団の生の声を聞けるそうですね。うらやましいです。
ウィーンの森ではワインを飲みながら、流しのバイオリン弾きを楽しめるって本当ですか?
あちらではどんな曲を勉強していました?
ザルツブルグのモーツァルトの生家にあるチェンバロをご覧になったんですか?

「笙子、そんなに一度に質問しないでちょうだいな。葉山さんだって困ってしまうわ」

 音楽の専門の話になっても、佳奈も興味深そうに笑って聞いてくれていたので、ぼくも笙子もお互い音楽理論などまで披露してしまった。
聞き上手のお姉さん気質の佳奈、無邪気に質問してくる明るい笙子。
ぼくも珍しく、話しやすい雰囲気を作ってくれたふたりのお蔭で、自分でも思いのほか、おしゃべりを楽しめた。

 食事が終わって、笙子と別れる時、「ご結婚なさるそうですね。おめでとうございます」とぼくが言うと、
「やだ。佳奈から聞いてらしたのね。でも葉山さんにおめでとうなんて言っていただけるなんて夢みたい。
ありがとうございます」
そう、嬉しそうに返してくれた。

「では私はこれで。お先に失礼してすみません」
「笙子は彼とこれから衣装合わせがあるんです」
「ああ、それで。では、佳奈さん。もし時間があるのなら、もう少しぼくと付き合ってもらってもいいかな」

「私は結構ですが……」
「あーずるい、佳奈ったら。葉山さんを独り占めして」

 笙子はわざと拗ねた言い方をして佳奈を困らせると、内緒話をするかのように佳奈の耳元に唇を寄せて、「今度、葉山さんとどんなお話したのか、あとで聞かせてね。それで許して差し上げてよ」と囁いた。

 でもその声量は、実はとても囁いたとは言えないくらい大きなもので。
「わかっていてよ」とこれまた笙子の耳元で返す佳奈の声もとても大きくて。

「ふたりとも全然内緒話になってないよ」
「あら、葉山さん、聞こえてらしたの?」
「いやですわ。殿方はご遠慮してくださらないと」

 仲の良いふたりの姿に、ぼくはつい笑ってしまった。

 笙子が去って、佳奈とふたりきりになってから、
「これから時間があるなら、ちょっとお茶でもどうですか? 佳奈さんに会わせたい人がいるんです」
ぼくはホテル別館のラウンジに佳奈を誘った。

「私に会わせたい方?」
「はい。会ってみたら、きっと佳奈さんは自分を知るヒントになるんじゃないかと思って」

「葉山さん、先日のこと、まだ覚えてらしたのね。もう、あのことは忘れてくださいな」
「どうして? 結婚相手に不安を抱くのは佳奈さんだけのことじゃないと思うけどな」

「独身の葉山さんに言われたくありませんことよ。
それに結婚を控えた女心が葉山さんにはおわかりになるのかしら? 女性でもないのに?」
「そうかもしれないね。ぼくは男だし。女性の気持ちなんて永遠の謎かもしなれないな。
でも、結婚を控えたって意味ならぼくにもわかるかもしれません」

「え?」

 ロビーを並んで歩いていた佳奈の足がぴたりと止まった。

「私はどなたと会わせていただけるのかしら? もしかして、葉山さんの婚約者の方ですの?」
「会って確認したらいいですよ。ほら、そこにいますから」

 佳奈が振り向いた先に、ゆったりと椅子に座る人がいた。
茶髪が闊歩する現在の街中であっても、彼の髪は自然の色彩が織りなす輝きで生き生きと靡いている。
光の加減次第では金髪に見える淡い茶色の髪。
すらっと伸びた手足から椅子に深く腰をおろしていても、彼が長身なことがつぶさにわかる。
ゆっくりとこちらに向ける容貌はモデル顔負けの美男子のそれ。
それでも、彼が醸し出す雰囲気に芸能人独特の軽々しさはなく、品位ある華やかな容姿や優雅な仕種のの中に有無言わさぬ上に立つ者が持つ気迫が見え隠れしていた。

 そこだけスポットライトが当たっているかのように、その一画だけが他とは異彩を放っていた。

「あの方は……?」
「ご自分で確認するんじゃなかったんですか?」

「託生。早かったな。こちらが佳奈さん? 託生から聞いています。はじめして、崎義一です」

 佳奈はギイをぽかんと唖然とした顔で見上げてまま、「崎さん? まさかあのFグループの? ホントにあなたが葉山さんの……?」と零している。

 ギイは面白そうに佳奈を見つめると、フッ、と笑いながら、突然ぼくの肩に腕を回してきた。
即座にぼくにパチンと叩かれて、「いてッ」と手を擦りながらも、切り替え素早く、にっこりと佳奈に微笑むギイ。

「ええ、託生のいわゆるフィアンセって奴ですよ。今後ともお見知りおきを」

 そうしてギイは、佳奈に右手を差し出したのだった──。





 綺麗な人には綺麗な人なりの悩みがある。

 ぼくはギイが実際、顔のことで悩んだことがあるのかどうかは本人から聞いたことがないので知らないが、ギイが自分を見つめてくる視線など気にも留めずに、それこそ綺麗に無視する癖があることを知っている。
そして、眉目秀麗としか言いようのない自分の容貌に普段は無頓着なくせに、利用する時はとことん利用する非情さをギイが持ち合わせていることも、ぼくはちゃんと知っていた。

 おそらく、今のギイは、佳奈に対して、自分の魅力をこれでもかってくらいわざわざ晒している。
けれどそれはギイの作戦なのだろう。

 綺麗なのは自分だけじゃない。
綺麗なことに悩んだことがあるのは自分だけじゃない。
そんなふうにギイは佳奈に言葉ではなく、一瞬で周囲の視線を虜にしてしまう圧倒的な美貌でもって語って見せていた。

 ギイの思惑通り、佳奈はすぐさま理解したようだった。
自分だけのはずだった悩みの答えを知っている存在をやっと彼女は見つけたのだ。
佳奈は食い入るようにギイを見ていた。

「葉山さんのご厚意に甘えさせていただきます」

 赤い口紅を引いた唇に、わずかだが力が入ったように見えた。
彼女のきりっとした表情から、気持ちを引き締めたのがわかった。
そこには敵に立ち向かうような気概を負った女性がいた。
女として、ひとつの答えを求める女性が……。

「まず、この場でのことは他言無用をお互い約束しましょう。
託生はオレのことをあまり周りに知られたくないようだし、オレも正式に結婚するまではまだ託生をごたごたに巻き込みたくないのでね」
「わかりました。お約束します」

「お互いプライベートに触れることになるかもしれませんが、それでもいいですか?」
「お願いします。私のほうこそ初対面である崎さんにもしも失礼なことを言ってしまったらごめんなさい。
でも、私、知りたいんです。今、はっきりしなければ、きっと私、後悔すると思います」

「わかりました。
オレが思うに、こういうことは佳奈さん、ホントはあなたのお相手に直接ぶつけるべき気持ちだと今でも思ってるんですがね
でも、あなたが今、悩み迷っていることが、ご自分の気持ちを確認したいというところで生まれているっていうのであるなら、オレたちがあなたの助けになれるのいうのなら……、いいでしょう、協力しますよ。
何でもどうぞ、聞いてください。オレたちが答えられる範囲なら答えましょう」

 財界のサラブレッド、崎義一を前にして、佳奈は幾分緊張しているようだった。
それでも、ひとつ息を飲み込んで、意を決したよう話しだした。

「では、最初から失礼なことを口にして申し訳ありませんが……。
こう言っては何ですが、崎さんと託生さんでは釣り合いが取れてないように思われますが……?」
「なるほどね、そこから来ましたか。確かにそういう疑問を抱く人は多いですね。
では、逆に訊きましょう。佳奈さんのいうところの釣り合いってどういうことでしょう。
佳奈さんももうすぐご結婚なさるそうですが、相手の方と自分は釣り合っていると思いますか?」

「総一郎さん……。私のお相手は成田総一郎さんと申しますが、正直申しますと家格の面では釣り合ってはいないと思います。
我が家は古くから由緒正しい家系として、遡れば平安時代までたどれます。
対して成田家は、もともとは下級武士だったそうです。
それが商人となり、お米屋さんを営んで、そこから会社を興したそうです」
「元華族となると、佳奈さんのお家には、華族独特のしきたりや習慣がまだ残っているんでしょうね」

「ええ。そうなんです。伝承していくものがあることは素晴らしことですが、覚えるのは大変ですわ。
簡単な例で言いますと、我が家では雛飾りも京都にならってます。
つまり、関東とは左右逆飾りとなります。
これは陰陽説というの考え方が影響しています。 陰陽説では万物を陰と陽に分類され、左右で言えば、左に陽、右に陰に属するものを並べることが自然だと考えています。
ですので、内裏雛を並べる場合、陽の男雛は左、つまり向かって右に、陰の女雛は右、つまり向かって左に並べます。
関東で左右逆の並べ方が普及したのは昭和あたりからと聞いていますが、昭和天皇の即位礼に倣ったことが発祥だとか、西洋文化の影響だとか、いろんな諸説があるそうですわ」
「雛飾りひとつ挙げても違いがあるとしたら、すべてのしきたりを覚えるのは大変でしょう。
生まれ育った家の習慣やしきたりですら覚えるのが大変ということは、嫁いできてから覚えるのはもっと大変だ。
では、逆に、佳奈さんが嫁ぐ成田家のしきたりはどうでしょう。
佳奈さんはお嫁にいくわけだから、成田の家のことを覚える必要がありますよね」

「はい。これから頑張って覚えるつもりです。
総一郎さんは長男ですし、長男の嫁の立場として、成田の家のしきたりや習慣を後々に伝えていかなければと思っています」
「総一郎さんも娘婿として東条院の行事などに出席するとなると、知らないことばかりかもしれないですね」

「おそらく。でも、私が少しずつお教えいたしますわ。総一郎さんが困らないように」
「そう、佳奈さん、そこですよ。よく考えてみてください。
結婚とは基本は本人同士の結びつきですが、実際はそうとばかりは言ってられない。
佳奈さんところみたいに家同士の結びつきを大事にする場合もあるでしょう。
オレや託生だって、ふたりだけの問題というわけにはいかなかった。
結納ひとつするにも親を交えて行う。お互い親や家を無視して済まされるものではないんです。
誤解しないでいただきたいが、別にふたりで式を挙げるくらい簡単だとオレは思ってます。
無視しようとすればいくらだって家や親を無視できるんですよ。
でもオレと託生はそうしたくなかった。
佳奈さんもそうでしょう? そして、総一郎氏もそう。
綺麗なだけの花嫁なんて、最初だけちやほやされておしまい。
佳奈さんがご心配なさる通り、これは多分当たりです。
綺麗な女性に惹かれて結婚して、結婚してから結婚相手の浪費癖に嫌気をさして離婚。
いまどき、そんなの珍しくもありません。
でもよく考えてみてくだい。綺麗におしゃれした彼女を好きなったその男は考えてなかっただけなんです。
彼女が身綺麗にしていた洋服やアクセサリー、化粧品。
彼女は独身時代、自分で稼いだお金をそういうところに使っていた。
そうやって綺麗を装っていた彼女の費用を結婚と同時に男が支払うことになっただけの話だ。
最初から彼女にお金がかかることは、結婚前からわかっていたことなんですよ。
そこに気がつかなかった男のほうにこそ問題があると言ってもいい。
何しろ、彼女は独人時代と同じように綺麗な自分でいたいだけなのだから。
さて、あなた方の話に戻しましょう。
総一郎氏は、あなたに結婚を申し込んだ。
それも、東条院に融資することを前提に、彼はあなたにプロポーズをしたのでしょう?
最初から、あなたと結婚するとお金がかかることを知った上で彼は結婚しようとしてるんですよ。
確かに、財界では家格や家名を気にする人もまだいます。
一族経営でうまくいっている会社もありますが、けれど昔に比べたら随分少なくなってます。
Fグループだってそうです。この世界は実力主義です。
いくら会長の長男でも使えない者を頭に据えたりしたら会社は一気に傾きますからね、株主たちだって黙っちゃいません。社員だって迷惑ってもんです。
みんな生活がかかってますから。
オレに経営者の才能がなければ、すぐに捨ててきます。だからオレだって必死になります。
つまり、この世界にとって今後、家名なんて役立たずに成り得る可能性が高いんです。
いや、高いなんてもんじゃないかもしれない。確実に今後廃れていくでしょうね。
家同士の繋がりで贔屓にしてもらえるなんて甘い商売根性はこの際捨てたほうがいいでしょう。
ほら、言ったでしょう? いまどき、一族経営の大会社でうまくいっているところは少ないって。
血筋の繋がりを大事にすることで経営が成り立つ時代はもう終わってるんですよ。
だから、東条院の家名欲しさに総一郎氏が結婚を決めたならば、彼は経営者として失格だとオレは断言します。
結婚して手に入る家格や家名にいくらかかると思います? 数億で済むと思いますか?
まあ、東条院の場合、いくら資金巡りが悪いとはいえ、債権者から担保として回収した土地がまだありますからね。
成田物産は土地を生かすアイデアと資金と流通を持っているわけだし、総一郎氏もそこらへんはちゃんと考えているんでしょうけど。
とはいえ、成田物産という企業としては、資金提供先は何も東条院でなくてもいいわけです。
だが現実は、総一郎氏は東条院に融資することに協力することに決めた。
あなたとの結婚に多くの資金が必要になってくるのがわかってて、その上であなたと結婚したい経営者が本当に望むもの。それは何でしょう?
もうおわかりでしょう。佳奈さん、そう、あなたですよ。
あなたにそれだけの価値があると踏んだから、彼はあなたとの結婚を決めたんです。
もうひとつ言わせてもらえるならば、元華族の花嫁と成金の花婿、この場合、引け目に感じなければならないのは総一郎氏ではない、あなただってこと、佳奈さん、あなたはわかってますか?
あなたはこれから総一郎氏に東条院のしきたりを教えていくと言った。
そして成田の習慣を覚えていくとも。
つまり、お嬢様のあなたはこれから庶民の習慣を一から覚えていかなければならないわけだ。
慣れない成田のしきたりに戸惑ったり失敗したりするたび、もしかしたら、元華族のお姫様はお高くしていらっしゃるなどと陰口をたたかれるかもしれない。
辛いこともあるだろう。苦しいこともあるだろう。
佳奈さんがこれから苦労するってことは、おそらく総一郎氏はわかってるはずだ。
それでも彼はあなたをほしいと思ったから、ふたりで苦労を乗り越えてゆけると覚悟ができたから、だからこそ結婚を申し込んだんじゃないですか?
オレと託生はもう五年くらい一緒に生活しています。
一年の半分ほども日本にいないオレだけど、それでも託生と生活をしているという気持ちはある。
生活って言葉ひとつで言ってしまえばそれまでだけど、実際、他人同士が同じ屋根の下で暮らしていくと、いろんなことがあるんですよ。
付き合っているだけの時には見えなかったものも見えてくる。衣食住とはよく言ったものですよ。
例えば、お互い寝起きの顔で朝食を摂るところから始まる。
よそいきの顔なんかじゃない、素の姿を見せ合うんです。
寝癖だってある。寝起きで機嫌が悪くて朝からぶすっと不貞腐れた顔をする時だってある。
毎朝、いつもにこにこしてるなんて、幻想ですよ。
結婚は生活ありきです。綺麗事じゃないんです。
美人の女性と結婚して、奥さんを自慢する男も中にはいるでしょう。
でも、結婚は綺麗なことだけじゃないから、奥さんの化粧する前の顔だってバッチリ見てしまうだろうし、悪い風邪でも引いたなら、腹を下してトイレの住人になってしまう……なんてことあるかもしれない。
連絡ひとつもないままいつまでも帰ってこない旦那を待ってれば、帰ってきた旦那は泥酔状態。
歳とれば介護しなければならなくなる。家政婦がいようと、寄り添うのは基本的に伴侶でしょう?
病気になって入院するかもしれないし、子供ができたら養育の心配事だっていろいろ出てくるかもしれない。
そういうのを全部ひっくるめてが生活であり、ふたりの歴史を築くっていうことなんです」

 ギイがぼくをちらっと見た。
ひとつ大きく吐き出して、続けた。

「オレはね、こう見えてもさびしがり屋です。ひとりで行くてゆくのなんて耐えられないんですよ。
だから託生に約束させました。オレより先に死ぬなってね。
そしたら託生は、一秒でもオレより長く生きてくれるって誓ってくれましたよ。
あ、言っときますけど、オレは別に他人で寂しさを紛らわす性質じゃないですよ。
そばにいてほしいのは託生だけです。
佳奈さん、あなたも思っている通り、綺麗な顔なんてものはうわっつらだけの皮一枚の話だとオレも思います。
若い時だけの一瞬の輝きで終わるかもしれない産物ですよ。
でも生活は一瞬一瞬の連続の繋がりで、二十四時間、三百六十五日、ずっと先まで続いていく……。
それだけの長い時間をともに過ごしながらふたりで手を取り合って共に頑張って歩いていく。
それが結婚だとオレは思ってます」

 そして、ギイは佳奈に、「こう言っては何だが」と言いながら。

「経営を志す者として、オレだったらあなたにプロポーズはしない。
東条院に融資するだけの魅力はオレには感じられないですから。
でも、今ならまだ東条院は間に合うかもしれない。
誰かが資金援助してくれて、経営を見直せれば未来があるかもしれない。
だが、利益をあげるまでにそれなりに年月はかかるだろうし、大変な労力と資金が必要になるのはわかりきってる。
オレにはそこまでする義理はないですから、手を出すのは控えます。
でも、もし託生があなたの立場でオレが総一郎氏だったら……、絶対に迷いません。
どんなことをしても東条院を救ってみせます。
それで託生が手に入るなら、オレは手段を選びません。
年月がかかろうと勝算はあるんだ。周囲も説得してみせる。
つまりはそういうことです。
それに、総一郎氏が綺麗なだけのあなたを求めてるのか知りたければ、まあ、さっきも言ったとおり本当は本人に聞くのが一番だろうけど……、この託生がいい例になるかもしれない」

 急に話を振られて、ぼくは、「え?」と即座には反応できずにいた。

 佳奈も話が急にぼくへと移って、ギイを前にして当人のことをどう尋ねていいものか、迷っていたようだった。
結局、「葉山さんは崎さんみたいな方が隣りにいて、どうなんでしょう」と尋ねてきた。

 ラウンジにはたくさんの椅子やテーブルが並んでいたが、ほとんどの席はホテルを利用するお客さんたちで埋まっていた。
そのお客さんたちの中にはちらちら不躾にこちらを窺う人もいて、ギイと佳奈という、「超」が何個もつくくらいの美男美女素性に興味津津の視線を向けていた。
お蔭でぼくまで目立ってしまっている。
まともにギイたちの余波を受けてしまっていた。

 こういうのはいつまで経っても慣れないもので、お尻の下がむずむずし出して、どうにも落ち着かなくなるものだ。

 そんな周囲から注目を浴びている「今」という瞬間と、ぼくの日常と照らし合わせてみる。
ギイと佳奈のふたりがぼくを見ていた。

──そこだけが空気が違うって感じがするなあ。まるで雑誌の切り抜きみたいな世界だ……。

 華麗な外見を持つふたりに比べて、ぼくは本当に普通の人だとつくづく思う。
こうして並んだふたりを見ていると案外お似合いだったりして……などと勝手に想像して、勝手に落ち込んだ。
何考えてんだ、そんなこと考えてる場合じゃないだろう、と自分を叱咤するぼく。

 そんなふうに他の人が持っているモノに普通に憧れたり妬んだりするぼくは、やっぱり普通の感覚しか持ち合わせていなくて、ほんとにごくありふれた男だと思う。
だから、そんな普通の、その他大勢の人間のひとりとして、普段ぼくが感じている想いをぼくは素直に言葉にしてみようと思った。

「はっきり言うと……、ぼくは目立つのが昔から好きじゃなくて。
バイオリン弾く時はもう諦め状態っていうか、自分が出す音に注目してもらってナンボってやつだから、注目されるよう頑張るしかないんだけど。
ギイと一緒にいるのは、正直苦手っていうか。あ、ギイ怒んないでよ。
だからもう腹をくくらなくちゃいけないっていうか。
佳奈さんもそうだと思うけど、ギイはものすごく人目につくからね。
困ったことにみんな、隠れて見てるってより大胆にじろじろ見てることのほうが多いし。
まるで動物園のパンダみたいで、かわいそうだなあって正直思うことが多いんだよ。
で、そのパンダが自分の隣りにいると、あのパンダの隣りにいるのは何者だ、飼育員かって感じでぼくまで注目されちゃってさ。コレばっかりは何年経っても慣れないんだ。
今もそうだけど他人に見られてるって感じがビシバシ伝わってくるのって昔から苦手なんだよ」

「こんなにハンサムな方がご自分の婚約者なんですもの。堂々と誇ればいいでしょうに」
「確かにギイはカッコいいし、素敵だと思うけど。
それはギイの一面であって全部じゃないからね。
時にはいじわるになるし、機嫌も悪くなるし、立場が悪くなると逃げちゃうし。
カッコいいばかりじゃないと思う。でも、それって人間なら当然でしょ?
ぼくなんてギイに比べたらもっと偏屈で人間出来てないからさ、欠点をひとつひとつ挙げていったらキリないよ。
ギイも我ながらよく我慢してくれてるなーって思うほどだもんね」

「相手の情けないところもかわいく見えるのが恋だよなー」
「はいはい、そうですね。でもギイ、男はかわいいなんて言われても全然嬉しくないんだよ」

「オレはかわいいって言われるの好きだけど?
託生以外言ってくれないからな。おまえ、すっごく貴重だよ」
「ぼくはギイがかわいいって言われるのが好きだなんていまだに信じられないよ。
好きだって言ってる割には島岡さんがそんなこと言うと、ギイはすぐに睨みつけてるじゃないか」

「前にも言っただろ。託生に言われるのがいいんだよ」
「あーそうですか。ハイハイ、わかりましたよ。
ね、へんでしょ? ギイなんて、こんなもんだよ。財界人の崎義一なんて、家に帰ったらただの人。
だって、ギイはロボットじゃないからね。きっちりかっちりなんていかないよ。
でも、それでいいんじゃないのって思うんだ。
きっちりかっちりばっかりのギイなんてギイじゃないし。
ぼくはできた人間じゃないからさ、完全無欠の人と暮らすなんてことになったら、きっと疲れちゃうに決まってる。
だって、一日中気を張ってないといけないだろうし。そんな窮屈な生活はぼくには耐えられないよ。
ぼくには絶対無理。
佳奈さんだって、これから総一郎さんと結婚したら、幸せいっぱい、楽しいこといっぱい待っているかもしれないけど、こんな人だったのかって新たな発見とかあると思うんだ。
気に食わない面も見えちゃうかもしれないし、いい面をもっと知れたりするかもしれない。
いろいろだと思う。
でも、そういうのってふたりで暮らしているからこその発見だもんね。
それが結婚の醍醐味なんじゃないかなって思うんだ。
ま、ぼくもギイも実際スタートに立つのはこれからだから、エライことは言えないんだけどね」

「オレも賛成。
で、恋するひとりの人間として言わせてもらうなら、綺麗な外見を武器にして何が悪いって思うね。
好きな相手が自分を見てくれるなら、どんな方法であれ有効手段を持っているなら使わない手はないだろう?
金にモノ言わせてだろうが、物品で釣ろうが、趣味の話で会話を盛り上げようが、恋なんて、まずは相手の興味を自分に向けるのが先決なんだから、最初の一手として外見を利用するのはいいんじゃないか?
相手の気持ちを自分に向くよう必死になって当前なのが恋なんだからさ」
「そのいうギイはその手を使うの嫌がっていたよね」

「そりゃオレだって、オレだけを見てほしかったからな」
Fグループの崎義一としてではなく、上っ面だけじゃなく、ただの崎義一として見てくれたら、そんな嬉しいことはないじゃないか」
「そのお気持ちは私にもあります。私もただの東条院佳奈として見ていただきたかった……」

「でも、いつかはみんなわかってしまうんです。
いつまでも隠していられるわけないんだから。
そんで、その時になって、身分違いとかふさわしくないとか、いろいろぐちゃぐちゃ考えちゃうかもしれないけど、どんなに引き目を感じたとしても、最後にはどうでもよくなっちゃう。
一緒にいられればもうどんなんでもいいやって開き直っちゃうもんなんだよ」

 ……で、あとから冷静になって、うわ〜って頭を抱える羽目になるのがぼく。
何であんなこと言っちゃったんだろう、とか、何であんなことしちゃったんだろうとか。
反省しきりで落ち込んだりして。

──うっ、ぼくってホントに成長ないなあ。

「私、元華族の家名と自分の外見に惹かれただけという理由で総一郎さんがプロポーズしてくれたとしたら、条件が合う女性が他にいたなら、私でなくても他の誰かでもいいのかしらって……そう、思っていました。
私の代わりになる女性が、この世の中、どこかにいるんじゃないか、と……」

 本当に私でいいのだろうか。
佳奈の心を揺らす、結婚に対する漠然とした不安。

「この世界のどこかにいるんじゃないかって言われたら、正直、佳奈さんじゃなければダメってことはないと言うとしか言いようがないな。
でも、佳奈さん以上の人が見つからなかった、佳奈さんが最上の相手だった……とも考えられないか?」
「崎さんにとって託生さんが最上の相手だったと?
ほかにもっと自分にふさわしい人がいるかもしれないとは考えませんでしたの?
……ごめんなさい、葉山さん。こんな言い方してしまって」
「いえ、いいですよ」

「すみません、ありがとうございます。──あの……、崎さんは結婚を決めた時、迷いませんでした?」
「だったら、佳奈さんが言うところのオレにふさわしいってどういう人だって言うんだ?
オレが好きになったのは託生で、オレは託生とずっと一緒にいたいと思った。
好きな相手が結婚相手、それだけじゃダメなのか?」

「好き」という想いが、「一緒にいたい」という気持ちを生みだす。
一緒にいて楽しいと、もっと一緒にいたいと望みたくなる。
好きな人を自分だけのものにしたくて、誰にも渡したくなって。
好きな人と自分が一緒にいることを他の人に認めてほしくて、できたら祝福してほしいと願う。

「好き合う者が一緒に暮らす。それを法的に世間が認めるのが結婚という手続きだ。
法的に守ってくれるっていうんだ。その特典を利用しない手はないだろう?
佳奈さん、好きじゃない相手と結婚をしても不幸になる。それはわかるだろう?
総一郎氏は佳奈さんが好きなようだ。では佳奈さんは? 総一郎氏を好きなのか?」

 本当に彼でいいのだろうか?
彼と一緒になって幸せになれるのだろうか?
彼は私を選んだことに後悔しないだろうか。

「……結婚して、こんなはずじゃなかったって言われるのが怖いんです。
一生寄り添う気持ちで嫁ぐのに。すぐに飽きられそうで……」

『美人は三日で飽きる』という言葉がある。
確かにぼくはギイの美貌に見慣れているが、だからと言ってドキドキしないってことじゃない。
ギイのちょっとした表情にカッコいいなーって見惚れてしまうなんてしょっちゅうだし、さりげない仕種にきゅんって胸が締め付けられるなんてのもいつものことだ。

「えっと、飽きるってことはないんじゃないかな。
美人に飽きるんじゃなくて、ただ慣れていくんだと思う。
目が慣れていって、自分の普通って基準が美人の奥さんになっていくんだよ。
そしたら、外でも他に目がいかなくなるんじゃないかな。ときめかないっていうかさ。
だって家に帰れば、自分の大好きな綺麗な人が自分を待っててくれるんでしょう?
それにただ綺麗な人がそこにいるんじゃなくて、その綺麗な人は自分のこと想ってくれてるんだよ?
毎日がドキドキしっぱなしで飽きるなんてことないと思うけどな」

 だって、好きな人は見ていたいものだから。
それが綺麗の人だったら尚更だ。

「佳奈さん、総一郎さんのことすごく好きなんだね。
いつか自分から離れてしまうんじゃないかって今から心配しちゃうくらい、好きなんだ」

 不安が解決されないまま結婚の話だけが進んでいくから、ますます不安になる。

「だったら、納得するまで相手にぶつかっていったらいい。
少なくても漠然とした不安を感じることだけはなくなるさ。
喧嘩して破談になったら、この縁はこれまでのことと割り切ってしまえ。
結婚した後、喧嘩して離婚するより、破談のほうがまだましだからな。
ぶつかるんだったら今だと思うね」

 結局、佳奈の不安は、ふたりの結婚というより、家の繋がりを固めることがまずは第一とばかりにそちらの話が先行してしまって、当の結婚するふたりの間に正面向き合って話し合う機会が少なすぎることがそもそもの原因だったようだ。
原因がはっきりすれば、解決策が見つかるのも早い。

 即座にギイは佳奈に、総一郎をこの場に呼び出すように言い放った。

「今、見知らぬ男と一緒にいる。男は総一郎氏を呼び出せと言っている。
一時間以内に来なかったら婚約解消だ、とでも言えばいいさ」
「そんな無責任な。総一郎さんにも都合ってもんがあるだろうに」

「婚約者が、ふたりっきりの場所じゃないとはいえ、見知らぬ男と会ってるんだ。
気にしなかったら嘘だろう。ヤキモキするに決まってるさ」

 ギイの言葉に賭けたくなったのか。
意を決した佳奈は、ギイのその言葉をそっくりそのまま真似て、電話口に出た総一郎に、「今、初対面の男性と一緒にいます。彼があなたをここに呼び出せと……。一時間以内に来てくださらないと婚約解消します」と言い放った。
すると、ブチッと突然通話は切れてしまって、「怒ってしまったのでしょうか」と佳奈が不安そうにぼくらを見つめてくる。

「これで慌てなかったら、そんな男、こっちから振ったほうがいい。
成田物産が東条院の手持ちの土地に魅力を感じているなら、結婚なんかしなくても成田側からコンタクトを取ってくるさ」

 結婚と事業を秤(はかり)にかけないことだ、とギイは言う。

「アレだな。仕事と私、どっちが大事ってのと一緒だ」

 おどけるギイに、佳奈がやっと笑顔を見せた。
佳奈の不安はまだ拭われたわけではないが、彼女は結婚に対する不安を解決する糸口をしっかりと掴んだようだった。

「やっぱり佳奈さんは笑ったほうが美人ですよ。その笑顔があれば大丈夫。
どんな男でもイチコロです。但し、オレと託生は別にしてだがね」

 それから三十分ほど過ぎた頃、「もうオレたちはお役御免でいいかな?」とギイが席を立った。

「はい。ありがとうございました」

 佳奈が、ぼくとギイを交互に見つめながら礼を述べる。

「葉山さん、崎さんもお幸せに。私もこれから頑張ります」
「うん、お互い頑張ろう」

 それからぼくたちは佳奈と別れて、ホテルを出た。

 そして、「喉、渇いてないか? そこの喫茶店でお茶でもしよう」というギイの言葉に頷いて、目に止まった近くにあった喫茶店の木製の扉をふたりでくぐった。

 通りに面したテーブル席に座り、しばらく黙って珈琲を飲んでいると、ガラス窓の向こう側に、背広を片手に抱え込んで、汗水垂らして必死に走っていくサラリーマン風の男が通り過ぎて行くのが見えた。

「恋する男は必至だねえ。まあ、婚約破棄がかかってたら必死にもなるか」

 にやりと笑って、ギイがぼくを見る。

「もしかして彼がそう?」
「まあな」

「でも、どうしてこんなに時間ピッタリに? ギイってば計算してた?」
「託生から、佳奈さんの話を聞いた時点でちょっと調べといた。
成田物産の本社はここから地下鉄で二十分の先の駅近くにあるとか。
東条院の経営状態と手持ちの資産、とか……?」

「そっか。……あ、もしかして、ぼく、ギイに心配かけちゃってた?」
「いや。ただオレが興味を持っただけさ。
託生、おまえはそのままでいいんだ。
それに、オレだって誰にも負けないから、さ。もちろん、総一郎氏にもな。
託生が帰ってこいって電話かけてきたら、世界中のどこにいようが必死こいて帰ってくるから。
だからおまえも我慢だけはしてくれるなよ」

 どんな方法を使っても、一目散に託生のところに帰ってくるから。

 甘く囁くようにそう言って、ギイはぼくの瞳をじっと覗き込んできた。
いろんなことを抱え込んでしまうぼくの癖を、ゆっくり気持ちをほぐすように、「約束だ」と見つめてくるギイ。

 瞳の淡い茶色がすごく綺麗だなって思った途端、急に何だかせつなくなった。

「うん。わかった。どうにも我慢できなかったら、その時はちゃんと言葉にするよ。約束する」

 不安というものはどうやら伝染するものらしい。

 何が不安なのかわからないまま、気持ちがどうにも落ち着かなくて、ただ、ギイといるこの瞬間が夢みたいで怖くなる。

──これが佳奈が抱いていた不安なのだろうか。

「何だか怖いな」
「何が?」

「こうしてふたりでいられるのが」
「だったら、ふたりでいることが当然。必然。そう思っとけよ」

「……だね」

 ぼくが静かに目を伏せると、ギイはテーブルを挟んだ身体を伸ばしてきた。
気配に気がついて、身体を起こそうした瞬間、腕を引かれて、瞼の上に、チュッとひとつキスを落とされた。

「ギイっ! ここ喫茶店!」
「結婚直前の熱愛カップルがイチャイチャして何が悪い?」

「悪くはないけど、他人にしてみたら公共の迷惑にもなるんだから」
「そうでもないぜ。ほら、皆さん、喜んでらっしゃるじゃないか」

 ギイに促されて周りを見渡せば、胸の前に手を組んで、「きゃ〜♪」と満面の笑顔を向けてくる女性客の多いこと……。
「もっとして〜」という恥も外聞もない黄色い声に、大和撫子の絶滅の危機を目の当たりにしたような気持ちになった。

「せっかくだ。ここはご期待に応えようじゃないか」
「その場合、誰が期待してるってのさ」

「もちろん、オレに決まってる♪」

──……って、ギイのお調子者っ! ここは公共の場だってのにっ!!!

 もちろんこの後、キスのお返しに、ぺちーん、と見事なビンタが決まったことは言うまでもない。





 好きな人と一緒にいる幸せ。

 好きな人と一緒になる幸せ。

 この幸せがいつまでも続きますように

 生きとし生ける物として、ふたりの上にいつか必ず訪れる別れの日が、できるだけ遠くでありますように。





 後日、リハの休憩時間に佐々木がぼくのところにやってきた。

「どうだね、あの話はうまくまとまったかね? あの後、すごく気になってねえ。
これからもっと春らしくなっていい季節を迎えるからね。
うちの奥さんとも、どこかデートに出けるのも楽しいだろうねって話してたんだよ。
東条院さんからは、いい方を紹介してくださってありがとうございましたとそれはそれは丁寧なお礼の電話をいただいてね。私も鼻が高かったよ。
で? あれから何度かふたりでデートでもしたのかね?」

 余程、自分の取り持った仲に興味があるらしい。
「どうなんだい。教えてくれていいだろう」とお預けをくらった犬のように期待をこめてぼくを見つめてきた。

 ここまで期待されてはあやふやな言葉では逃げられないだろうな、と観念する。
はっきり言わないと、また変な誤解を生むこと請け合いだ。
それは困る。

 ぼくは覚悟を決めることにした。

「今度、ぼく、結婚が決まりました。来月には結婚します」
「いやいや、そうかね。それはよかった、おめでとう。こうなるんじゃないかと思っていたよ。
それにしても、半月の間に偉く早く決まったもんだね」

「あ、いや、相手は東条院さんではありませんよ。
彼女は今月末、別の男性と挙式することが決まっています。ぼくの相手は、他の人です」

 ぼくの相手──というくだりで、ギイの顔が脳裏に浮かんだ。
自分の婚約者の麗しい容貌を思い浮かべただけで、胸がギュッと締めつけられる。

 だから、わかった。
ああ、ぼくはこんなにギイが好きで、ギイと結婚するのがものすごく嬉しいんだなあって。



 人の命には限りがある。 永遠などないって知ってる。
だから、ギイのそばで笑って生きて、限りある時間を大切に分かち合いたい。
ギイが飛び立つ最後の一瞬まで、ばくはギイとともに生きてみたい。

 願わくば、ぼくを選んだギイが幸せになりますように。
ギイの笑顔をこれからもずっと見ていけますように。
ギイの想いも、ぼくと同じでありますように。

 恥ずかしくて、めんどくさいことも多いだろう。
気遅れすることもあると思う。
でも、堂々と背筋を伸ばして、ぼくはギイと一緒にふたり、これからの人生を歩いて行く。

 まずは、その一歩を踏み出そう。



「結婚相手は日系アメリカ人の男性です。高校の時の同級生なんです。
今後、彼がこちらにも顔を出す機会もあるかもしれません。その時はどうかよろしくお願いします」

 誤解のないよう、これ以上もないくらいはっきりと、ぼくは佐々木さんに結婚する報告をした。

 驚きで言葉が出ない佐々木を残して、ぼくはステージを降りてゆく。

 周りの人の視線がとても熱くて痛い。
それでも、ぼくは胸を張って、前を向いて歩いていく。

 心もとなくなって、また迷うかもしれない。
不安にもなったりするかもしれない。

 それでも。

 一歩踏み出せば、ほら、そこに……。

「お、託生。今、終わったのか?」
「あ、ギイ。迎えに来てくれたの」

「せっかくの休みだからな。時間は有効に使わないと。ってことで、これからデートしようぜ」

 輝かしい未来が、今、この瞬間も、大きく手を広げて、笑顔でぼくを待ってくれているのだから──。

                                                         おしまい


material * NOION



*** あとがき ***

   最後までのお付き合い、ありがとうございました。
   
当サイト、moro*onのサイト開設六周年記念作品「Engage blues」はいかがでしたでしょうか?
今回は、またまた珍しく続きものとなりました。
「歩兵の変革」のその後のお話です。

短い婚約期間を謳歌するふたり……。
特にギイは浮かれちゃってます(笑)。

で、浮かれてるといえば。
二人が入った喫茶店で、「きゃ〜♪」と喜んじゃってる場面がありますが、
私とえみこさんのふたりはしっかりこの『お客さん』に入ってます。
あ、でもこのお話を読んでくださった方も、もちろん『お客さん』仲間…ですよね♪
「ラブラブな二人、見てみて〜」の『お客さん』メンバー募集中!
……なんちゃって(笑)。

ここまでいい加減な設定のお話を最後まで読んでくださり感謝します。
このお話を少しでも気に入ってくださったら嬉しいです♪

いつもご贔屓にありがとうございます。
これからも、moro*onをよろしくお願いします。

最後に、このお話は、
原作「タクミくん」シリーズの文庫本「プロローグ」までの設定での未来編となっていることを明記しておきます。

by moro


moro*on presents


この作品の著作権は、文・moroにあります。
なお、ルビー文庫「タクミくん」シリーズはごとうしのぶ先生の作品です。著作権などは角川書店様にあります。
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