「ギイ、好き。……きみが、好きなんだ──」


刹那の芽吹き



 ハッとして目が覚めた。
そして、自分の置かれている状況を目にして、咄嗟に頭が真っ白になった。

 さっきまで夢を見ていた。それはわかる。わかっている。
声に出したのも覚えている。

 でも、何を叫んだのかまでは覚えていない。
声を出したという口を動かした感覚と自分の声らしき声を耳にした記憶だけが残っているだけで、内容のほうはさっぱりだった。

 けど、自分が寝言を言ってしまったのは確かで。
言ってしまったと気付いた瞬間、焦って起きた自覚もある。
その証拠に、今も胸がドキドキと高鳴っている。

 とはいえ、この胸のドキドキが止まらないのは夢見が悪かったせいだけではないと思う。

 この、『自分を見つめる視線がすごく多いから』という状況も、その一因じゃないだろうか──。

「ど、どうしてみんながここにいるの……?」

 まず目前にいた章三に目が留まった。
その章三の肩の先には八津宏美もいる。
矢倉柾木も野沢政貴も吉沢道雄もみんなこちらをじっと見ていて、にやにやと人の悪そうな笑みを浮かべていたり、ぽかんと魂の抜けたようなかをしていたり。
その表情はさまざまだけど、みんな興味津々にぼくを見ているのは察することができた。

──それにしても、自分の部屋に、こんな豪華な顔ぶれがどうしてたくさん揃っているんだろう……。

 疑問に思って周りを見渡せば、自分の部屋だと思っていた場所はまったく見覚えのない部屋で、あれ?って感じの違和感を強く感じた。
ベットがひとつしかないのはギイの部屋と同じだったけれど、それでも、ここはどう見ても三階ゼロ番ではない。
床の隅に無造作に積まれた雑誌には車関係のものが多く、ざっと見たところ英文の経済誌はひとつも見当たらなかった。

「えっと……。ここ、どこ?」

 だが、このぼくの発現は、どうやら周囲にとってすごく意表をついたものだったらしい。

「おい、大丈夫か?」
「葉山くん、記憶はしっかりしてる?」
「酔いつぶれたの覚えてないのか?」

 いろんな言葉を一気にかけられた。
ちょっと頭が追いつかなくて、困ってしまう。

 わずかながらだけど頭痛がするから、余計に頭が働かないでいる。
それでもぼくの頭の中では、まずいなとかなぜか反省したり、どういうことなんだろうとか疑問符を浮かべたり、目まぐるしくいろんな気持ちが吹き荒れていた。

 そのうち、知った感じの浮遊感に思い当たって、「ぼく、お酒飲んでたんだ……?」と呟くと、
「そうそう。俺んとこで飲み会しようってことになって、それで飲んでたら、葉山、突然寝ちまったんだよ。
思い出したか?」
矢倉柾木が、「ここ、俺の部屋」と顎をしゃくってみせた。

 そこでぽくは現在地がやっと把握できたのだった。

「つまり、ここは一階ゼロ番?」

 そんなささいなことに安心感がどっと溢れて、身体の力がすうっと抜けていったことに自分でもすごくびっくりする。

「そう。やっと思い出したか」

 それからみんな、ギイの知り合いが酒をくれたので飲み会をすることになったことや、その酒はその知人の自家製の果物酒で、杏、梅、李、リンゴで焼酎に漬けられた酒だったこと、ぼくは最初、炭酸水で割ったものを飲んでいたのだが、リンゴ種は甘いからストレートで飲めると言って、自分の限界をわきまえずに調子に乗って飲んでいたこと……などなど、現在までの状況説明を懇切丁寧にしてくださった。
そこまでされるとぼくの記憶もなんとかく戻ってきて、一気に穴があったら入りたい心境に陥った。

「甘くて飲みやすいって言っても度数はそれなりにあるからね。飲みすぎはやっぱりまずいよ」

 笑顔を浮かべていても、さすがに二階の階段長の言葉はずっしりと重く、すごく実感がこもっている。
「ごもっともです」とここはもう項垂れるしかない。

「それにしても葉山の寝言には驚きだな。『ギイ、好き』なんてびっくりだ。
ギイの奴、間が悪いなあ。せっかくのおいしいとこだったのに。ちょうど今、部屋出てったことなんだぜ」

 矢倉が言うには、ギイはぼくのために三階ゼロ番まで胃薬を取りに行っているということだった。
どうやらぼくは、寝端(ねばな)に「気持ち悪い」と言ったらしい。

 恥ずかしながら、このあたりは見事に記憶にない。
あったとしても困るだけだけど……。

「『ギイ、好き』なんていいよねえ、熱々だ。一度は僕も言ってみたいよ」
「野沢、おまえが言うと洒落になんないぞ」

「そうかな。だったら赤池が言ってみたら? 案外似合うかも」
「冗談だろ?」

「お、赤池の愛の告白? 見物じゃね」
「そこの外野、ウルサイぞ!」

「でも、意外だな。葉山くんっていつもそんなに熱烈なのかい?」
「おお〜、吉沢のナイス突っ込み! そこらへんはマジに聞きたいとこだよな」

 からかうような大人びた笑顔を複数向けられて、
「ち、ちが……、誤解だよ。それはヘンな夢見ちゃったから……」
しどろもどろで弁解をしようと目を泳がせたら、矢倉の目がキラっと光ったように見えた。

 見間違いだろうか?
いや、今もしっかり輝いている。どうみてもあれは好奇心に満ちた目だ。
どうやら無駄に輝いているように見えるのは気のせいではない気がする。

 これが本能というものなのか、自然と身体が壁際へと引いていた。

「どれどれ。お兄さんにその夢の話を話してごらん。じっくりと聞いてやるからさ。
悪いようにしないから、な?」
「そうだよ、葉山くん。ヘンな夢ってのはあとを引くからね。
それにどんな夢でも正夢になる可能性だってある。
だからね、誰かに話してしまえば正夢にはならないっていうしさ。
いい夢だったんじゃないなら、尚更話しちゃったほうがいいと思うよ」

 矢倉に続いて、野沢政貴が身を乗り出してきた。
さしずめ舌を嘗め回す狼が二匹いるようだ。

「何だかすごく強引な気がするんだけど……」

 笑顔がすごく怖いのはどうしてだろう。

「そんなの葉山の気のせい気のせい」
「葉山くん、これは親切心で言ってるんだよ」
「そうだそうだ」

 ぼくはどうやらタイミングよく、酔っ払いたちに極上の酒の肴を提供してしまったらしいと気付いた時には、すでに四方を完全に囲まれた後だった。

 こういうのを四面楚歌っていうのかな、なんて、ノンキにも考えてしまっていたぼく自身、相当酔っ払っていたことに気付くべきだったのだろうけど。
だいたい酔っ払いというものは得てして酔っている事実を認めたがらないものだという常識を、この時はすっかり頭から抜けていた。

 そして、酔った人間の執拗さは、一度食らいついたら放さないスッポンのようなものと相場が決まっているのだった。

「さあ、白状しろ。葉山」

 章三の頬がわずかにだけれど火照っている。

「気付けにこれでも飲んで。ほら」

 政貴から、炭酸水で割った梅酒を強引に渡された。

「ぼく、もうお酒は……」
「これはほとんどジュースだから大丈夫」

「大丈夫って言ったって、これお酒じゃ……」

 口で断りながらも、試しに一口飲んでみると、炭酸の弾ける感じが強くて酒の味はほとんどしない。
ほのかに梅の香りと甘さが残るくらいで、確かにこれは全体的にすっきりとした「ジュース」だと思った。

 寝て起きて喉が渇いていたのもあって、すごくおいしい。
ちびちびと口に入れていると、頭の痛みも少しだけ治まってくるような感じがする。
何て現金なぼくの身体……。
炭酸水の量が今のぼくにちょうどよかったのだろうと一応弁解しておこうか。

「そんで?」
「ほらほら、お兄さんに話してごらん」
「そうそう、悪いようにしないから」

 優しい言葉と穏やかな笑顔に、ついうっかり気が緩んでしまいそうになるのもこれまた酔ってるせいかもしれない。
「でも……」と戸惑い、「やっぱりそれは……」とぼくは躊躇するのだけど、彼らにはぼくの揺らぎを霧散してしまうくらい、恐ろしいほどの勢いがあった。

 にたりと笑って、「ほれほれ」「さあさあ」と迫るように顔を近づけてくる。
その迫力にぼくは逃げ腰になってジリジリとうしろに下がるのだが、この人数となるとさすがにここがひとり部屋とはいえ、人ひとり分の居場所は限られてしまう。

 案の定、ぼくの背中はすぐに壁に行き着いた。
これでぼくの退路は完全に断たれてしまった。

 結果、覚えている限りの夢の出来事を、ぼくは話すことになってしまったわけで。

 そうして、ぼくはぼやけつつある内容をひとつひとつ思い出しながら、夢を再現してみせたのだった──。





「崎くん」

 夢を見ていた時、これは夢だとすぐにわかった。
なぜなら、今のぼくはギイのことをそんなふうには呼ばないから。

「崎くん」

 実際、ぼくがそう呼んでいたのは一年前まで。
忘れもしない二年に進級したあの入寮日、ギイがそう呼ぶように強要して以来、ぼくは「ギイ」と呼ぶようになった。

 今では最後に「崎くん」と呼んだのはいつだったかすら覚えていない。
おそらく去年の夏には完全に「ギイ」になっていたと思う。

 呼び方を変えるというのは、なかなか難しいことだ。
突然、親密度が一気に上がった感じがして、すごく恥ずかしいし、照れくさい。
だから、初めのうちは「崎くん」の「さ」がつい出てしまったりして、すぐには「ギイ」に慣れなかった。

 みんなが「ギイ」と気安く口にするから、すごく簡単なことだと思っていた。
だけど、実際はそうではなくて、「ギイ」と口にするのにすごく抵抗があった。
ふたりの距離が縮んだことを周囲に知られるのはやっぱり勇気がいるし。
とにかく、ぼくがそう呼んでいるのを誰かに聞かれるのは、最初とても気恥ずかしかった。

 だって、一年の時、級長だったギイは何かとぼくに話しかけてくれたのに、ぼくはギイの気遣いに感謝するどころか、あからさまに邪険に扱っていたのだ。
二年に進級して偶然にも同室になったからといって、もともとギイとあまり仲がいいとも言えないぼくが、急に親しみをこめて「ギイ」と呼ぶのはやっぱり違和感ありまくりだ。
あの頃、ぼくがギイと一緒にいたり、彼を「ギイ」と呼びとめたりすると、不躾な視線をよく向けられたものだった。
でもそれは当然だと思う。

 それでも、ぼくが「崎くん」と呼ぶと、すぐにギイが、「ギイだろ」と逐一指摘してくるから、ぼくは嫌でも「ギイ」と呼ぶようになっていった。
ぼくが今、「ギイ」とすんなり呼べるのも、すべてギイの努力の賜物と言ってもいいかもしれない。

 いつの間にか、「ギイ」と呼ぶことが普通になっていて、「崎くん」と呼んでいたのが遠い過去となっている。
それがすごく不思議で、一方で、すごくくすぐったいくらい幸せに思う。
自分がギイの恋人であることをひしひしと感じて、いいのかなと思いながらも、ほんわかと心が温かくなるのが止まらない。

 だから、この瞬間、ぼくが「崎くん」と呼んでいるそれは、たぶん現実じゃないと素直に思えた。

 滅多にない、と言えるかどうかわからないけれど、ぼくとギイとたまに言い争いする時がある。
だけどそんな時ですら、ギイのことを突き放すように他人行儀的な「崎くん」なんて呼び方をぼくは使ったことはない。

 記憶があやふやなところがあるから絶対とは言い切れないのが残念だけど、ぼくが覚えている範囲ではギイと付き合うようになってからは一度もそんなふうに呼んだことはないと思う。

 だから、今更、ぼくが「崎くん」と呼ぶなんて考えられなかった。

 そんなふうに疑問と確信がだんだんと頭の中を占めていくごとに、尚更、これは夢なんだという思いが大きくなっていった。

 これは、夢──。
そう、もしもこれが夢なのだとしたら、この夢はおそらく、一年の頃をなぞるような、そんな夢なのだろう。

 おそらく、なんてあやふやな言い方しかできないのは、ぼくが「崎くん」と呼んでいるその相手の姿がはっきりと見えた感覚がないからだ。

 目の前にその相手がいる。その相手をぼくはちゃんと見ている。それは確かだ。
それでも、ぼくには相手を見ている感覚はあっても、彼がどんな顔をしているのかわからない。
真っ黒な影となっているわけでもなく、うっすらとぼやけてるわけでもない。
見えているのに見えないでいるというのが一番近いだろうか。
ぼくが呼び止めようとしている人は、「ギイ」という強い存在感を発散しながら、ぼくの夢の中に存在していたのだった。

 顔がわからない相手なのに、それでも彼はギイなんだとぼくの感覚すべてが知っていて、それがまた不思議でもなんでもない世界。
とにかく、それはとても現実的なようで現実とは違う場所だった。

 そして、その夢の中のぼくは、ギイのことを「ギイ」って呼びたくても呼べずにいた。
「ギイ」と呼ぼうとしても、どうしても声にならない。
けれど、「崎くん」と呼ぶだけなら声に出せた。それは夢なのにはっきりわかっていた。
だからギイを呼び止めたいのなら、夢の中のぼくは、「崎くん」と呼ぶしかなかった。

「崎くん」とぼくはギイを呼んだ。

「崎くん! 崎くん!」

 こちらに気付いてもらいたくて、何度も呼び続ける。

「崎くん!」

 それでも、ぼくがいくら叫んでもギイは誰かと談笑したまま振り向かない。
ぼくの声はぼくにしか聞こえないらしく、ギイにはまったく届いていないようだった。

 その事実に行き着くと、次の瞬間、夢の中のぼくはそのことになぜかあっさりと納得していて、疑問にも思わなかった。
不思議なことに、ここでのぼくは遠く離れてゆくギイをじっと見つめるしかないのだと正確に悟っていたのだった。

 ギイを呼び止めるのは諦めるしかない。
それは変えられない事実だとわかっていた。

 けれど、ギイがぼくに気が付かなくても、ぼくは彼の名を呼び続けた。
ぼくがそうしたかったからだ。

 ギイに振り向いてほしい。その望みを捨てるのは辛かった。
何もしないまま諦めるなんて嫌だった。

 ギイが好きで、そばにいたいと思っている。
そんなぼくの気持ちをぼくはちゃんと知っていた。

 そのほんわかとあたたかな気持ちを大事にしたくて、こっそりと口の中で内緒の呪文を唱えてみる。

 するとどうだろう、身体がほんのりと暖かくなった。
さっきまで寒いとか冷たいとかの感覚などなかったのに、急に胸のあたりが熱をもって、なんだかぽかぽかしてきた。

 もう一度、ひっそりと誰にも聞こえないように口の中で紡いでみる。
ぼうっと遠くに消えたはずのギイと友人たちのうしろ姿が再び現れた。

 声にするには「ギイ」は無理らしい。けれど、「崎くん」なら呼べそうだとぼくは知った。
だから、「崎くん!」と声を張り上げて呼んだのだけど、そうするとギイの姿は遠ざる。

 遠ざかる小さい背中を見ていると急に不安が増して、胸が苦しくなるぼく。
どうしても待ってほしいのに、ずっと先の道を行ってしまうギイをぼくは呼び止められないでいた。

 届かないギイの背中に向かって、「待って」の代わりに声にならない呪文を唱えると……。
これまたなぜか、さっきまで友人たちに囲まれながら楽しそうに笑っていたギイの背中はぴたりと止まった。

「崎くん」と声で叫べば遠ざかり、心で「ギイ」となぞればそれ以上は遠くに行かなくなる。
けれど、ギイとの距離はとても遠くて、どんなに声を張り上げたところで、ぼくの声が届かないのは同じだった。

 すでに小指の先ほどにギイのうしろ姿は小さくなっている。
その遠い距離が心の距離のように思えて、とても怖かった。
はちきれんばかりに気持ちが溢れに溢れて、ぼくの胸をぎゅっと締め付ける。

 そこで初めて、「ギイが好き。好き、なんだ……」と内緒の呪文をぼくは声に出してみた。
いつの間にか、声に出せるようになっていた「ギイ」。
だが、ぼくが「ギイ」と呼んだ途端、ギイはまた歩きはじめた。

「ギイ……、崎くんっ! 待って!」

 何度呼び止めても、今度は歩みを止めようとしないギイ。

 だったら、と思い直して試しに呪文を声にしてみたのだけれど、やはりギイの歩みは止まらなかった。

 それでも、「好きなんだ」と自分の気持ちを言葉に出せたことが嬉しくて。
少しだけぼくは気持ちは楽になって、ほっと安心できるのだった。

 たとえ一時的なものだとしても、苦しさ、哀しさ、寂しさから切り離されることはありがたかった。

 だから、それに味をしめたぼくは、何度も楽になるその呪文を呟いた。

「ギイ、好き。きみが好き……」

 ふと遠くを見やると、ギイの姿はもう少しで消えるくらいに小さくなっていた。

 このままじゃ消えてしまう。いなくなってしまう。
ぼくをひとり置いてどこかに行ってしまうギイをどうしても呼び止めたくて、思いっきり「ギイ!」と叫んでみる。

 すると、わずかながら、ぼくの声がギイに届いたのだろうか。ギイが振り返ったように見えた。
キョロキョロと周りを気にしているのだろう。遠くのシルエットがゆらゆらと揺れ動いていた。

「ここっ! ぼくはここだよ!」

 ぼくは揺れる人影に懸命にぼくの存在を知らせるのだけど、ギイは姿が見えない声の主を探すことは諦めたようだった。
再び、ギイは友人たちと歩き出す。

「ギイ、待って!」

 力の限り叫んでも、もう彼は振り向かない。

「ギイ、こっちを見て!」

 うしろ姿が遥かに遠い。

「ギイ……どうして……」

 何を案じているのかもわからないまま、今度ははっきりと、声を明確に、自分の気持ちを確かめるように、ぼくは再び唱えてみるのだった。

「ギイ、好き……。ギイが好き。どうかおいていかないで。きみが、好きなんだ」──と。





 飲酒した自覚はあるのに、自分が酔っているのか、その判断がつかない。
恥ずかしいとか、これを言ったらまずいとか、そういう感覚が鈍感になって何も考えずにただ頭に思いついたことをそのまま口にしてしまう。
ここまでしゃべってしまったのだから、どうせなら全部しゃべってしまえと誰かが耳元で囁いていて。
自分はどうしてこんな話をみんなにしてるんだろう。こんなの自分の奥底を暴露するようなものじゃないか。
本来なら、こんな夢、正直にぺらぺら話していいはずがない。
つらつらと夢の話をしている間、そんなふうに自分の行動にずっと疑問を感じつつ、そのくせ無性に何かを話していなければ……といった焦燥も抜けなくて、しゃべられなくてもいいことまでしゃべってしまった。

 こんなのはオカシイとわかっているのに、それでも口は止まらない。
それはすでに酔っている証拠なのだろうか。
すでにぼく自身、自分の行動が理解不可能になってた。

 頭の隅ではこれまた別のことを考えていて。
どうしてこんな夢を見てしまったのか、その原因らしきものを掴んだような気がして、一瞬にして、すとんと納まるべきところに気持ちが納まったような、そんな安堵感に包まれた。

 その安堵感がひたひたとぼくを覆いつくすようになると、今度は最近見知ったひとつの顔が念頭を占める。
その時にはすでに夢そのものよりも、その人物にぼくの意識は向かっていた。

「夢を見たのは、たぶんどこかで自分でも気になってたんだと思う。
実はさ。今朝、ロビーで誰かがギイのことを『崎くん』って呼び止めてたのを聞いちゃったんだ」

 なぜかこの時のぼくは、酔っているとは思えないくらい気持ちも頭の中も、突然、霧が晴れたように、この上もなくすっきりとしていた。

 さっきまで思い出せなかったことが不思議なくらい、すらすらと記憶が解かれてゆく。

「そしたらすぐにギイの声がして、『ギイでいいよ』って言ったのが聞こえて……。
ちょうどぼくは曲がり角を曲がったところで、たぶん向こうは気付かなかったと思うんだけど、『崎くん』なんて最近は滅多に聞かないから何だか気になって、ついつい聞き耳立てちゃったんだ……」
「相手に心当たりは?」

 章三に訊かれて、「一度も話したことはないけれど、何度か顔を見たことがある生徒だった。たぶん、同級生だと思う」と、ぼくは答えた。

「もう二年以上も寮生活をしていて寝食ともにしているんだから、さすがに生徒全員の顔くらい目にしているとは思うけど。
全校生徒と話したことがあるかというと、ぼくの場合、それは絶対ないし。
実際、彼が同級生かどうかは本当のところすごく怪しいんだ。
けど、下級生だったら、普通だったら、「崎先輩」とか「ギイ先輩」とか言うはずだろ?
だいたい『崎くん』なんて『くん』付けで呼ぶとしたら同級生くらいだと思うし」

 顔を見たことがある程度のその彼とは、ぼくは一度も同じクラスになったことはない。これは断言できる。
クラスメイトの顔くらいはさすがにぼくでも区別がつくのだ。

 けれど、彼とは今までほとんど接点がなかったのも確かで。
ぼく自身、それほど誰彼かまわず話しかけるような性質ではないのもあって、もしかしたら慣例的な挨拶くらいはしたかもしれないけれど、少なくともぼくには彼と面と向かって話した記憶がまったくなかった。

「でも、実は、顔を見たというのもここ最近の記憶しかなくて。
つまり、彼の存在をぼくが認識したのはごく最近のことだと思うんだけど……」
「何だそりゃ。自分のことなのにはっきりしない奴だな」

「しょうがないじゃないか。ぼくは普段から人間ウォッチングしてるわけじゃないんだから」
「それにしても葉山は他人に興味なさすぎだ。そのくせ、余計なクビは突っ込みたがるから手に余る」

「それはすみませんでしたね」
「投げやりなすみませんを聞いても有難みは全然ないぞ」

 章三は本当に容赦がない。
ぐさぐさ突かれたらこっちだって傷つくんだぞ。

 ちょっとだけジロッと睨んでやった。
すると少しは言いすぎた自覚があるのか、片方の眉をわずかにピクンと反応させて、章三はゴホンとひとつ咳払いした。

「とりあえず、思い出せるだけ思い出せ。相手がギイと面識あったのは確かなんだな?」
「たぶんね……」

 あの時の彼は息を切らしながら、『崎くん! やっと見つけた』と今にも体当たりしそうな勢いでギイを呼び止めていた。
あれを初対面とは言わないだろう。

『まったく大げさだなあ。何をそんなに急いでるんだ。廊下を走ると絞られるぞ。
それに、オレのことはギイでいいよ。ギイ。次からはそう呼んでくれ』

『え? ああ、うん。それより、中山先生が至急来てほしいって』
『それでわざわざオレを探してくれてたのか? わかった、サンキュ』

 ギイが笑顔を向けると、彼の顔が喜びで染まったのがわかった。

『どういたしまして、崎くん』
『崎くん、じゃない。ギイだ』

『あ、そうだね。でも俺、きみのことは崎くんって呼びたいんだよ』
『へえ……。ま、いいけどな。それじゃオレ急ぐから』

 こんなささいなことが気になったのは、きっと彼が言った「崎くん」がすごく弾んだ声に聞こえたからだろうか……。

 そんなぼくの気持ちを機敏に察したのか、
「それはつまり、ギイが『ギイ』って呼べって言っても『崎くん』にこだわるその相手に葉山くんは嫉妬したって、そういうこと?」
野沢政貴が微妙なところを突いてきた。

「どうだろう、よくわからない。でもそうなのかもしれない。
だって、どれだけの人がギイって呼んでると思う?
赤池くんだってみんなだってギイのことは普通にギイって呼んでいるじゃないか。
でもさ、みんながそう呼ぶのは、『ギイ』のほうが親しみがある呼び方だからだよね。
ギイって呼んでいいって言われて、それでもギイって呼びづらくて呼べないのならまだわかるんだ。
この中じゃ、たぶんぼくがギイって呼ぶの一番遅いクチで、実際、ぼくも最初はそうすんなりとギイって呼べなかったし……。
でも、彼は違うんだ。あえて『崎くん』って呼ぶことを選んでる気がするんだよ」
「そんなの人の勝手だろ。そう呼びたきゃ呼べばいいさ」

 章三の言うことはもっともだ。
そんなささいなことを気にするほうがおかしいというその意見はきっと正しいのだろう。

 でも、気になるのだから仕方がない。

「ただ……何となくいいなっていうか。羨ましいなって思ったんだよ」

 ギイがぼくを好きでいてくれて、ぼくもギイのことが好きで。
ギイがぼくの恋人だということは、ぼくだってちゃんとわかっている。
わかってはいても、自分でもきちんと説明できないもどかしいような気持ちを、ぼくは今、実際こうして抱いていて、ヘンに気にしているっていうのが事実なのだから、この気持ちを簡単には否定できない。

 人の心は生きている限りいつも揺れ動いている。
いつだってすっきりきっぱりと割り切って考えられるとも限らないし、ましてや永遠に安定しているということはない。
ささいなことに不安になったり、心を動かされたりしたとしても、それは当然でおかしいことではないし、それでも心の奥底にある気持ちを大事にしたいと思うから、きっと相手や自分を信じていけるんだと思う。

「馬鹿らしい。ホントに今更だな。おまえだって一年の時はそう呼んでいただろうに。
それとも何か? ギイに直接、『ギイって呼んでくれ』って言われるのが今更羨ましいって?」
「それは……、ぼくもそう言われたし、確かに言われた時は嬉しかったけど。でも、それだけだよ。
ぼくだって、今じゃもう、ギイのことはギイとしか呼べないしね。
でもそうじゃなくて……。ぼくが言いたいのはさ、彼が呼び方を変えないこともそうだけど、あの時、彼が『崎くん』って呼んでるのがすごくいい感じに思えたんだよ。
ぼく、あんなふうにギイのこと『崎くん』なんて呼んだことなかったなってさ。
ちょっと反省しちゃったんだよね」

 一年の頃、何かとぼくに突っかかってきた上級生がいた。
ぼくの態度が余程気に入らなかったのだろう。
細かいことに逐一言いがかりをつけては見下した目でよく挑んできていた。

 ぼくもある意味、大人しく流されるタイプではなかったから、睨まれたら睨み返した。その繰り返し。
謝って流してしまえと思ったこともあって実行したこともあったが、相手の目には皮肉れた態度に映ったのだろう。
謝っても、嫌味にしかとってもらえなかった。
そうなると、何をしても火に油を差すようなもので、もう泥沼だった。
上級生にしてみれば、ぼくは生意気な下級生でしかなく、今思い返してもあの一年間はとにかく衝突が耐えなかった。

 そして、そうやってぼくが問題を起こすたびに駆けつけて来てくれたのはギイで。
仲裁に入ってくれていた彼を、周囲はまるで救世主のように見立てていた。
けれど、その時のぼくにとってギイの親切は、余計なお節介でしかなく……。

 自分に構うな。構ってくれるな。
そんな皮肉れた態度が上級生たちの癇に障ったのだろうことは今ならすごくよくわかる。
でも一年の時のぼくは自分を守ることで精一杯だったから、そこまで気を回すことができなかった。

 どうにでもなれとすべてを投げていたあの頃。誰も信じられなかったぼく。
「葉山、大丈夫か」と気にかけてくれるギイに対しても、「きみには関係ない。ぼくのことは放っておいて」とぼくは意固地な態度を繰り返した。

 楽しげに、「崎くん」なんて呼んだ記憶など一度もない。

「だって、本当にいいなって思ったんだ……」

 だから、あの同級生の彼がギイのことを嬉しそうに「崎くん」と呼ぶのがすごく羨ましかった。

「一年の時、ぼくもあんなふうに呼んでみたかったなってさ。ちょっと憧れちゃったんだよね……。
ってわけで、それだけの話。ごめん、つまんないこと言っちゃった」

 酔いの助けもあって、普段なら吐露したりしないことをつらつらとしゃべってしまった。

 場がしらけてしまったな、と思って、もう一度ごめんと言おうとしたら。
 
「そんなの今からでも遅くないよ。ギイのこと、崎くんって呼ぼうよ」
「お、そりゃおもしろそうだな。その案のった!」

 八津と矢倉が調子をそろえた。

「え? でも、ギイはみんなにギイって呼んでほしいんだと思うよ。それなのにいいのかな。
ギイ、気を悪くしないかな?」
「そんなの平気だろ。気になるんだったらギイを巻き込んじまえばいい」

 吉沢の懸念を、いつもはストッパー役のはずの章三が言い含める。

「よし、それならいいか。今からギイのことは『崎くん』って呼ぶことにする。
もし間違えて、『ギイ』って呼んだ奴は全員にジュースを奢ること。名付けて『崎くんゲーム』!
もちろん、負けたヤツはギイにも奢るんだ。これでどうだ?」
「ちょっと待ってよ。そんなのギイに悪い……」

 お調子者の矢倉の提案に意義を唱えようとしたぼくを止めたのは、普段はおっとりタイプで知られる野沢政貴だった。

「ね、葉山くん。こんなのもたまにはいいと思わない?
だって『崎くん』なんて、確かに今じゃ、みんな滅多に口にしないもんね」

 階段長のひとりだけあって、強靭な心臓の持ち主である政貴は何でもないことのようにさも簡単そうに言った。

「そうそう。顔をつき合わせて何年一緒に寮生活してると思ってるんだ。
二年前の入寮当初ならともかく、普通なら今更『崎くん』はないよな。
こんな遊びでもしない限り、今後もチャンスはないかもしれないぜ」

 援護にまわった矢倉の言葉に、外野も「そうだそうだ」と合いの手を打った。

 そんなふうにみんなに押し切られて、結局、ぼくも「崎くんゲーム」をすることになってしまったのだけど……。

「ギイ、どんな顔するかな?」
「そりゃヤツにはおもしろくないだろうさ」
「ギイって言っちまったら正直に申告しろよ。みんな誤魔化しはナシだからな」
「そういう矢倉が一番あやふやにしそうだよね」

「するかっつーの。俺は正直者で知られてるんだ」
「ほら、そういうところがほら吹きじゃない」

「うるせ」

 そして、矢倉は全員の顔を見渡して、ニヤリと笑った。

「いいか、今からスタートだからな。ゲームが終わるまでこれからはすべて『崎くん』だ」





 薬を手に一階ゼロ番に戻ってきたギイを、みんなが「お変えり、崎くん」と笑顔で迎える。

 その思いがけない歓迎振りに一瞬身を引いたギイの顔に、『気にいらない』という文字がはっきりと浮かびあがった。

「何だよ、突然。これは新手の嫌がらせか?」

 それはそうだろう。
いきなり一線を引かれたような、そんな仕打ちをされたら誰って気になるし、傷つくだろう。

 ギイの心中を察した野沢政貴が代表して、違う違うと手を振ってきっぱり否定しながらギイを宥めにかかった。

「とんでもない。ただね、ちょっとしたゲームをしようってことになってね」
「ゲーム?」

 ギイは、ホントか?と確かめるようにちらっと章三のほうを見た。
ギイの視線を自分に向けられるのは当然とばかりに受け止めて、章三も肩を竦めて答える。

 そんなふたりの無言の会話に割って入ったのは矢倉だった。

「そういうことだ。誰が一番早くギイって呼び間違えるかってね。まあ、単なる遊びさ」

 そうして、矢倉は事後報告を詫びながら、ゲームのルールをギイに簡単に説明した。
一通りのルールを聞いて納得したのか、ギイも諦めたように笑って尋ね返す。

「つまり、これは期間限定ってことか」

 ただのゲームと聞いて納得したのだろう。
そして、こういう場面ではギイはとても前向きな行動をとる人だった。

──前向きっていうか。ちゃっかりしてるとも言うんだけどね……。

「それで? オレは迷惑料がもらえるのか?」

 悪乗りはギイの得意とするところでもある。

「もちろん。ギイには誰が負けてももれなくジュースを奢ってもらえる権利があるってことで。
それでちゃんとギブアンドテイクになってるだろう?」
「そいうことなら、まあいいか」

 その後、しばらくして飲み会は続いたのだけど、みんな本当にすごかった。

「崎くん、そこのグラスとって」
「そんで? ここんとこ、一年坊主たちは落ち着いているのかい、崎くんや」
「例の件だけど、蓑岩があとで崎くんに相談したいって言ってたぞ」

 ぼく以外の全員が淀みなくすらすらと「崎くん」を連発して、みんながみんな一度も間違えないのだ。

 ギイもギイで普段どおり笑顔で返して、まるで今までずっと「崎くん」と呼ばれていたかのように振る舞うものだから、みんな役者だなあと呆れるくらい、みんなの変貌振りにぼくはついつい見惚れてしまうのだった。

 ここまで見事に見せつけられてしまうと、ぼくひとりだけ「ギイ」と呼び間違えるのはやっぱり癪なもので、負けたくないという気持ちになる。
俄然、ぼくも間違えないように言わなくちゃ、と気を引き締めた。

「ほら、託生。薬持ってきたけど、どうする? 一応飲んでおくか?
さっきよりは大夫具合よさそうだけどな」
「あ、うん。さ、崎くん、あの……ありがとう。もう大丈夫みたいだから、薬はやっぱりやめとくよ」

 そんなふうに、みんなが難なくクリアしてきた「崎くん」をぼくはギリギリのところで突破できたのだけど、たったこれだけのことに、ちゃんと言えた〜とどっと疲れを感じてしまった。
どうやら肩に力が入っていたみたいだ。
言い終わった今、一気に力が抜けたようなすごい脱力感を感じている。

 でも気になるのは、ぼくの「崎くん」に対するギイの反応である。
気になってちらっとギイを伺ってみると、呼ばれた側のギイはといえば、珍しいものでも見たかのようにわずかに目を見開いて、驚いたような顔をしていた。

 いつまでもじっとこっちを見ているものだから、ぼくはこれまた落ち着かなくなって。

──うっ……。は、恥ずかしい。恥ずかしくて直視できない。慣れないことはやっぱりするもんじゃないっ。

 咄嗟に視線をギイから床に落として、唇をぎゅっと噛んでギイからの言葉を待ってしまった。

「託生」

 ギイがぼくを呼んだ。

「たーくみくん」

 顔を覗き込むように下から伺ってくる。

「な、何?」
「顔、あげて?」

 そんなこと言われても今は困る。

「恥ずかしがることないだろ。一年の時はそう呼んでたじゃないか」
「そりゃそうだけど……。でもそんなのずっと前のことじゃないか。
今更こんなふうに呼ぶのはやっぱりちょっと抵抗あるよ」

「そうか? でもオレはちょっとカンドーしたけどな」

 そして、ギイは甘えるようにこう言い添えた。

「さっきのいいな。また『崎くん』って呼んでくれよ。
オレ、託生がそんなふうに呼んでくれたのって初めて見た気がする」
「え?」

 一年生の時、ぼくはギイのことをずっと「崎くん」と呼んでいたのに、ギイは『初めて見た気がする』だなんてヘンじゃないか。
ぼくは違和感を感じた。

 だが、咄嗟に感じたその違和感をもっとしっかり理解したくて努力しようと考えをめぐらしているところに、「おいおい、そこのバカップル。いい加減にしろ」と横からお叱りを受けてしまったから、たどろうとしていた道筋がぷつりと切れる。

「邪魔するなよ、章三。せっかくのいい雰囲気を何ぶち壊してるんだよ。
そのうち絶対おまえ、馬に蹴られるぞ」
「寝言は寝てから言え。何が馬に蹴られるだ。
この場合は馬耳東風、馬の耳に念仏なのはおまえのほうだろが。せめて誰もいないところで口説けよ」

──口説けって……。赤池くん、余程酔ってる……。

 そして、ぼくが内心思ったようなそれを、実際、本人に突っ込んだのは矢倉だった。

「ほー、赤池も理解を示すようになったもんだな。誰もいないところだったら口説いちゃってもいいんだ?」

 揚げ足を取って、にやにや笑いながら章三の肩を抱いて言う。
章三は肩に回された腕に一瞥しながらも振り払おうとはしなかった。

「視覚公害……いや、この場合は聴覚公害か?
それよりはマシだ。少なくとも僕の心の平穏は保たれる」

 そんなことを言って、章三は再び、ぐびりぐびりとグラスを傾けた。

「公害って……。おまえ、そりゃひどすぎないか?」
「公害がお気に召さないなら、お目汚し……、あ、いや、お耳汚しだな」
「それも充分ひどいと思うけどね」

 そして、夜は更けてゆき……。
翌日には、『一階、二階、四階の階段長に加え、風紀委員長がギイに対し、一見よそよそしく「崎くん」と呼びだした』のニュースが一陣の風となって、瞬く間に祠堂学院高等学校を吹き抜けたのだった──。

 その噂が広まった当初、すわ何事かと怪訝そうに伺っていた生徒たちも、「崎くん」の呼びかけに笑顔で応じるギイの姿を何度も目にしたからか、数日後には、ちらちら気にする程度の反応に落ち着いていた。
結局、勇気ある生徒がいなかったとも言えるが、面と向かって階段長たちに質問するまでは至らず、「崎くんゲーム」はこのまま大きな局面を迎えないまま、いずれ終局を迎えだろうと誰もが思っていた。

 ところがそこにひとりだけ、質問ではなく、申し立てて来た生徒がいた。高林泉である。

「ずるいっ、ぼくをノケモノにして! ぼくも仲間に入れろ!」

 ふたりの間に隠し事なしと豪語する泉である。
吉沢道雄からこれまでの経緯を聞いて来たのか、
「ぼくも『崎くん』って久しぶりに呼びたい。っていうか、そう呼んだ記憶すらぼくにはないくらいなんだもん。
呼んでみたいよ。いいだろ? いいよね? ぼくも呼ぶからね!」
そんなふうに勝手に喚き散らしたのち、章三の「別にいいけど」の了承をもぎとると、満足そうな足取りで嬉々として去っていった。

 泉がこのゲームを発展させてしまうとは、この時、誰が想像しただろう。

 この泉の参戦が、その後のゲームの方向性に意外な影響を与えることになるとは誰も予想していなかった──。





「ねえ、崎くん。醤油取ってよ」
「あ、崎くん。三階行くなら途中まで一緒しよ?」
「崎くん。ぼくのことは『泉くん』でいいからね」

 こうと決めたら泉の行動は早い。
その後、泉は意味もなくひたすら『崎くん』を連発して周りを唖然とさせ、周囲の反応に無関心を決め込みながらも満更でもない顔で始終ギイに付きまとい続けた。

 一方、ギイはギイなりに考えがあるのか、微笑ましげに泉のこの行動を容認する態度を貫くつもりらしく、諌めるわけでなく笑顔で平然と対応していたので、ゲームの参加メンバーたちはとりあえず、しばらく静観することにしたようだった。

「高林は好き嫌い多いよな。ちゃんと食べないと大きくなれないぞ」
「うるさいなー。ぼくはこれでいいんだよ。
だって崎くんとこんだけ身長があるからこそ、この角度でこのカッコイイ顔見れるんだからさ」

「そりゃどうも。ありがとさん」
「いえいえ、どういたしまして。それよりぼくのことは『泉くん』だよ。ほら、言ってみて」

 甘くとろけそうな笑顔でギイを見つめる泉が、「ほらほら言った言った」とギイに催促するさまは、傍(はた)から見たらカッコイイ彼氏に甘える女の子の図でしかない。
泉がグラビアの美少女顔負けの美少年だから、一見したところまったく違和感がなく、ギイの西洋風の煌びやかな面立ちとあいまって、そこだけが別次元の世界を作り出していた。

 おもしろくないのは一年生たちだった。
普通でもギイの半径一メートルの立ち位置と取るのは難しいのに、普段にも増して強敵が現れたのだ。

 最初はひとりひとりがさりげなく泉とギイの間に割って入ろうとしたり、ギイの関心を引こうとしていたのだが、泉の大胆な行動力になすすべもなく、そのうち複数の生徒で協力し合ってギイのまわりをガードするようになった。
どんな方法を取ろうが、とにかく泉の接近をはだかることを第一の使命としたらしい。

 だが、粘り強さと根性と度胸だったら泉も負けなかった。
ギイの同級生という立場を利用して、「ごめんねえ。ぼくたち三年のことだから、ちょっと崎くんを借りるよ」などと言って、一年生には関係のない三年生独自の行事や話題を持ち出してギイを強引に連れ出す手に出た。
ギイの腕を胸に抱いて仲の良さを見せ付けて、相手が一瞬怯んだところでギイを連れ出すその手腕は見事というしかなかった。
もちろん、用事が済んだからといって素直にギイを下級生に返す泉ではない。
消灯時間ぎりぎりまで三階ゼロ番に入り浸って、一年生の入る隙間など作らなかった。

「ホント、よくやるよ」
「高林くんって根性あるねえ。それに器用だ。よく間違えずにあんなにすんなり言えるよなあ」

 章三と政貴は感心したように、ギイの周りを蝶のように付き纏う祠堂一の美少年の姿を目で追っってゆく。

「葉山もうかうかしてられないな。それとも高林ならいいのかね」
「赤池くん、それどういう意味さ」
「まあまあ。彼の場合は本命がほかにしっかりいるからね。そんなに心配することないんじゃないかな」

「それにしちゃあ『崎くん』にべったりしすぎてないか? 吉沢と喧嘩でもしてんのかもな」

 咄嗟の思いつきで出た自分の言葉にちょっと考えたように一拍置くと、章三は、そういう噂を聞いてるかと政貴に目で尋ねる。

「どうだろうね。僕はそんな話は聞いてないけど?
第一、今朝だって吉沢とふたりで一緒に仲良く食堂に来てたしね。たまたまじゃないの?」
「たまたま、ねえ。三度も重なりゃ偶然とは言わんのだがね。
第一、高林のあれは三度どころの話じゃあない。それにあいつはいつだって台風の目だからな」

 そしてその章三の勘はあながちハズレてはいなかったようだ。
いつの間にか「ギイくんゲーム」の中心的人物になっていた泉が、ある日突然、こんなことを言い出したのである。

「ねえ、葉山さ。『崎くん』はやめて、今度は『義一くん』にしない? いいだろ?
そういうことで他の人にも伝えといてよね」
「え? 『義一くん』?」

「そ。あと先に言っとくけど、ぼくは別に葉山から義一くんを奪うとか、そんなつもりは毛頭ないから。
ただ、これはぼくのプライドの問題なんだ。
だから今は葉山にしてみればちょっとおもしろくないだろうけど、ちょっとだけ我慢してよね」

 突然の「義一くん」への変更は、ギイにもすぐさま伝わったらしい。
泉の「義一くん」発言があったその日の夜、章三が気を利かせてくれたお蔭で、ぼくは三階ゼロ番に行く機会を得ることができたのけれど。
その時、ギイが、「別にいいけど、佐智に呼ばれてるようで何となくいやだなあ」とこっそり本音を漏らしたのをぼくは耳に留めていた。
つまりそれは、すでに泉から新しいルールを持ちかけられていたということで。
あまりの用意周到さに少しばかり難色を示しながらぼくがそれを指摘すると、「頼むから高林相手に妬いてくれるなよ」とギイはからかうように笑い返してきた。

「高林のやつ、『ぼくは葉山に譲ったんであって、ほかの人間が割り込むのを許したわけじゃないっ』ってオレにも断言してたんだよなあ。
どうにも腹に一物あるようには思えないんだよ」

 ギイは、ぼくが泉の勝手ぶりに憂いているとでも考えて、そう言ったのだろう。

 確かに泉がギイに固執しているように正直見える。
けれど、ぼく自身、ギイからその話を聞く前に、すでに泉本人からそんな感じの話をされていたから、納得もできていた。
だからと言って、少しも不安を感じなかったというわけではないけれど……。

 でも、そんな嫉妬交じりの感情を抱いているなんて、知られるのはちょっと悔しいし。

 そんなふうに、ギイの前で尾首にも出さないでいたら、ギイのほうが我慢できなかったようで、「前言撤回。少しは妬いてくれよ」と苦笑しながらぼくにキスしてきた。

「ぼくだって、ちょっとは妬いてるよ」
「ホントか?」

「うん。でも正直言ってヤキモチ半分、憧れ半分かな。
『義一くん』って呼ぶのも滅多にできない経験だしね」
「ま、そういうことなら今度は『義一くん』を楽しむとするか。託生も精々頑張れよ」

「……ホントに楽しそうだね。ちょっと意外かも」

 泉の人柄もあって(?)、一階階段長、矢倉柾木を先頭とするほかの参加メンバーの了解も得ないまま、その日のうちに泉の提案が採用決定となり、これにて「崎くんゲーム」は一旦終了。
自動的に「義一くんゲーム」に移行した。

 とはいえ、ギイではないが「義一くん」なんて、ギイの幼馴染みの井上佐智じゃあるまいし、一度は挑戦しようとしたものの、やっぱり言い馴れなくて。
ぼくには「義一くん」の壁はやっぱりすごく高かった。

「どうしよう……。ほかの呼び方でもっといいのないかなあ」
「気に食わないのなら葉山が新しい案を出せばいいだろ。ただし、あの高林が賛同するかは疑問だがね」

 当初の主旨はこの時、すでにみんな忘れているようだった。

 ゲームの発起人たちを無視して新たなルールを築く泉は、天性のアイドル気質全開で攻めまくり状態だ。
章三も矢倉もみんなが泉は絶好調だと言っている。
けれどぼくには、泉が何かにムキになっているように感じられた。

 なので、ちょうど食堂で席が隣になったのを機会に泉に少し尋ねてみた。

「『義一くん』なんて、親しき仲しか呼ばないしだろうし、やっぱりインパクト強いよね。
一年生もさすがに高林くんが出ていくと蜘蛛の子を散らしたようになるもの」
「でもまだまだこんなの手ぬるいよ、葉山。油断は禁物だからね、わかってる?」

 てっきり泉は一年生を蹴散らせて本懐、とばかり思っていたのに、そうではないと言う。

「前にも言ったけど、今のぼくの態度が葉山にとっちゃおもしろくないことなのはわかってるんだ。
でもぼくだっておもしろくないんだよ。ここまで来るともう意地だ。負けてたまるか!」
「ごめん、話が全然見えないんだけど……。高林くんは特定の誰かと争ってでもいるのかい?」

 泉は一年生を相手にしているわけではないのだと言った。
教師相手に目くじら立てるわけでもない、とも付け加えた。
つまりは泉の目的とする人物は二、三年生ということで。

──高林くんが気に触るようなそんな態度をとる人物が最近いただろうか?

 ぼくには全然心当たりがなかった。

「葉山って相変わらずトロイよね」

 これまたグサッとくる一撃だった。
泉は傷心なぼくを一瞥し、ついでにわざわざ盛大な溜息を漏らしてから、やっと明確な答えをくれたけど、その一瞥と溜息は、ぼくの傷口に塩を塗りこむようなものだった。

 それでも頑張って、笑顔を作る。引きつってないならいいけれど。

「葉山さ、体験入学のサギシのこと知らないの?」
「体験入学のサギシ? サギシって……人を騙すあの詐欺をする人って意味……じゃないよね?」

 咄嗟に疑問に思ったことをそのまま素直に尋ねたら、泉の視線がお化けでも見るような感じに見開かれた。

「そんなわけないだろ。まったく葉山と話していると力抜けちゃうよ。
サギは鳥の鷺。それに司るで『鷺司』だよ。
って、もしかして葉山。新顔の体験入学生のこと知らなかったの?
葉山さ、昔よりはちょっとマシになった感じだけど、それでももうちょっと他人に興味持ったほうがいいんじゃないの?」

 ありがたいアドバイスありがとうございます、とこの場合は言っておこう。
そんなふうにこちらが下手に出なければならないと思わしめるほど、ぼくを見つめる泉の視線は冷たかった。

「だいたい、初対面からしてぼくはあいつが気に入らなかったんだ。
あいつ、ちょっとギイに纏わりつきすぎ!
ギイだって忙しいのにさ、何かとちょっかいかけてきて。
特にぼくがギイのそばにいると、決まってギイに話しかけて来るんだからっ、嫌になるよ。
ゲームでみんなが『崎くん』って言い出したら、すかさず自分は『義一くん』に変えちゃってさ。
何様のつもりなんだって訊きたいよ。
でも、ぼくが『義一くん』って呼んでるのを聞いてすごく驚いてたのは見物だったな。
ふふん、いい気味。ザマーミロだね」

 一気にしゃべられて、ぼくの頭はおいてきぼりをされそうになっていた。
とりあえず、ギイって呼んじゃってるんだけどいいのかな、などと突っ込みところがないわけじゃなかったけど、この際脇に置いといて。
泉の競争心を擽(くすぐ)るような伏兵が現れたというこの事実のほうが今は大事だとぼくは判断した。

「つまり、鷺司くんって体験入学生がいて、その人がギイのことを『義一くん』って呼ぶからゲームのルールを変えたってこと?」
「そうだよ。どうやらあいつ、自分だけギイの下の名前で呼んでることに喜びを感じてたようだったからさ。
だからゲームのルールを『義一くん』に変えてやったんだ。
自分だけじゃなんだぞって、おまえだけトクベツじゃないんだぞって見せつけてやったのさ」

 我が意を得たり、とほくそえむ泉の横顔は少女のようにとても綺麗だったけれど、どこか含むところがあるような怖さを滲ませた笑みだった。
余程、鷺司という生徒が気に入らないらしい。

 それほどギイを追っかけまわしているのならぼくも見たことがあるはずなのだけれど、タイミングが合わないのか、そういう新顔を見た覚えはない。
そうは言っても、一年生の顔を全部覚えているかと言われたら、わからないと答えるしかないし、もしかしたら今までに一年生として出会っていた中に鷺司なる人物がいたのかもしれない。

 どちらにしろ、今のところ泉に分があり、鷺司という人物を出し抜くことに成功しているということはわかった。

 そして、泉と別れた後、ぼくは、ぼくと泉が「ギイ」と呼んでしまっていたことはしっかり省いて、たまたま廊下で会った章三にその話をしてみた。

「あン? 鷺司? ああ、帰国子女のか? E組に転入してきた奴だな」
「E組って三年の?」

「ああ」

 やはり、というべきか。章三はちゃんと鷺司のことを知っていた。
ちょっと拍子抜けしてしまう。
ぼくが章三に何かを教えるということは滅多にないので、少しは期待していた分、残念だった。
いつも「トロイ」と言われているから、今回くらいは先手を取ってみたかったのにな。

──それにしても三年になって、今更入学体験?

「噂では、親の都合で数年前からタイだかマレーシアにいて、来年は受験だからって今年試しに一時帰国してるらしいな」
「なるほど、そういう意味の入学体験なんだ……」

「葉山、奴が気になるのか?
まあ、確かに鷺司は義一くんにお熱みたいだな。だが、当の義一くんは気にしてなかったぞ。
あれは存在意義をアピールしてるだけだから無害だってさ」
「無害?」

「ま、義一くんが気に留めてる点はアピールの目的と害する対象だろうからな。
第一、義一くんがその手のことで気にする対象ってのは限られてるだろうが。
つまりは、高林にとってどうだかは知らんが、葉山にとっては無害ってことさ」

 これまたよくわからないことを言い残して、章三は「それじゃあな」と軽く手を上げてさっさと行ってしまった。

──ぼくにとって無害で、もしかしたら、高林くんにとっては有害かもしれない?

「何だよ、それ。余計わけがわからなくなっちゃったじゃないか……」

 とにかく、その鷺司という生徒に会えば何かわかるかと思い、もう一度、泉を探すことにした。
鷺司の顔がわからないまま鷺司は探せない。
まずはどの人物かを教えてもらわないと、と思ったのだ。

 だが、それは泉より先にばったり会った八津宏美が教えてくれた。

「あの眼鏡をかけてるのが鷺司陽一だよ」

 遠目に見ても、あれだけべったりギイにくっついていれば、さすがにギイに執着しているという噂にも頷けるというものだった。

 あれこれギイに話しかけて、鷺司はギイの返答を嬉しそうに待っている。
だが、ふたりの姿は泉のようにギイに甘えるようなものではなく、かといってギイの関心を惹きたい一年生のそれとも違ってて……。
どう説明したらいいだろう。
あえて言うなら、友人同士が楽しく語り合っている程度のものにしかぼくには見えなかった。

「だからぼくにとって無害?」
「ああ、さっきの話? そうだね、高林にとってはやっぱりおもしろくないだろうね。
だって、ギイをめぐっての一種のライバルみたいなもんだろ?」

 八津には先ほどの章三の言葉を相談してあった。

 鷺司という生徒がどんな人物なのか。
ギイの人を見る目を信用していないわけではないけれど、人によって態度を変える場合もある。
そうなると、彼の本質はどれが本当なのだろうか、ぼくにはますます判断がつかなくなってしまう。
とりあえず、とにかく出来る限りいろんな人から聞いてみて、鷺司陽一に対する印象がギイに近いか泉に近いか、とにかくみんながどうの受け止めているか、まずは知りたかった。

 ちなみに八津はどちらかというと泉派だった。
鷺司ははっきり泉をライバル視していると言う。
対して、章三はギイ派で、ぼくもどちらかといえばギイ派だった。
鷺司の態度に無理に出しゃばったり、押しつけるようなところは見受けられなかった。

──う〜ん。どっちつかずだなあ。

 本人に声をかけてみれば、また別の印象を覚えるのもしれないけれど……。
ぼくはギイのように、相手が初対面の人だろうが誰だろうが、気安く声をかけることに抵抗がない性質とは違う。
人見知りをしてしまうほうだし、それなりに話す努力はしようとは思うけれど、場を盛り上げるのがうまいわけでもないし話し上手でも聞き上手でもないから、わざわざ自分から初対面の人に話しかける勇気を奮い起こすのはなかなか難しい。

 最初から相手がこちらに心を開こうとしているとか、興味を持ってくれているとか。
何かのきっかけを与えてくれるのなら、ぼくとしても切り出しやすいのだけれど。

 もしかしたら初対面のぼくが勝手に話しかけたことに対して、相手が不快に思ったり、話すのを苦痛に感じて沈黙、なんてことになってしまったら、そうなるとぼくもそれ以上は話せなくなって、しまいには会話が続かなくても別にいいやと諦めてしまうのが自分でもわかっているから、軽い気持ちで知らない人に声をかけるなんてことは極力避けたい。

──第一、内心を探るように声かけられるなんて、誰だって嫌だもんね。

 そんな弁解するような考えに浸ったのち。

──幸いなことに噂の鷺司陽一の顔はわかったし、ぼくの第一印象はそれほど悪いものではなかったんだから、とりあえず今はよしとしよう。

 そんなふうに自分自身を納得させたぼくは、「行こうか」と八津に声をかけた。

 すると。

「お、託生。それに八津。これから寮に帰るのか」

 目聡くぼくを見つけたギイが、普通に同級生に声をかけるように呼び止めてきた。

「うん、そうだけど。義一くんは?」

 八津が頷いて、ギイに尋ね返した。

「オレはこれから野暮用。あと一時間は寮に戻れないな。
そういや、託生は鷺司、初めてだったよな。こいつは葉山託生。
八津は前に会ったから知ってるだろ? で、こっちが鷺司陽一だ」

 予測しなかった出会いに心の準備のないまま、ぼくは、「初めまして」とありふれた初対面の挨拶をして、「帰国子女ってどこから?」とか、「向こうでは現地の学校に行ってるの?」とか、少しだけそんなたわいない話をした。
そして、「またね」とか「あとで」とか、これまた普通の同級生なら言いそうな別れの挨拶を交わして、その場を離れようとした。

 が、その時、ぼくたちと反対方向に歩いてゆくギイと鷺司の会話が何となく聞こえてきて──。

「義一さん。俺、実のところ、日本の大学を受験するかどうかを迷ってるんだ。
イギリスかオーストラリアかアメリカか……まあ、そこらへんを考えてるんだけど、日本以外の国に留学してもいいかなあって思っててさ──」

 どきん、と胸に響いた。

──義一さん? 「義一くん」じゃなくなってる?

 わけがわからなくて混乱した。

 寮に帰ると、矢倉が、「おいでおいで」と手を振ってぼくと八津を呼び止めた。
どうやら待ち伏せをしていたらしい。

 聞けば、泉からの新たなお達しが届けられたのだと言う。
まだこのくらいなら予想内の範囲だとその時思ったのは、ぼくにしては上出来だろう。

「また変更だってよ。今度は『義一さんゲーム』になったらしいぞ」





 崎くん。義一くん。義一さん。ギイの呼び名がころころ変わってゆく。

 けれど、最後には必ず振り出しの「ギイ」に戻る。最初からそれが、ギイとの約束だった。





 そして、ゲームのルールが「義一さん」になった四日後──。

「え? 高林くん。今何て言ったの?」
「だーかーらー、ゲームは終了って言ったの!」

 ぼくは突然、ゲームが打ち切りになったことを泉から知らされたのだった。

「は? 終了? これまた急だね……」
「だって鷺司のやつ、帰っちゃったんだよ。だからぼくも別にもういいやって思ってさ」

「もういいや?」
「そりゃそうさ、張り合う相手がいないんじゃつまんないじゃないか」

 結局、ぼくが鷺司と話したのは「初めまして」と挨拶したあの一度きりになってしまった。
体験入学で祠堂に入ってきた彼は、あれから三日もたたないうちに祠堂から去ってしまったらしい。
ぼくも噂で聞いただけなので詳しいことはあまりわからないが、今頃、彼が異国の空の下にいるのは確かなのだろう。

「せっかく少しは骨のある奴を見つけたと思ったのにな」

 泉は幾分、つまらなそうに呟いた。
ちぇっ、と舌打ちをしながら、窓の外を見やる視線は少しさびしそうに見える。

 ある意味、泉の好敵手だった鷺司陽一。
彼の不在は泉の気概を削がす効果を生みだしたようだ。

 だが、わからないのは、矢倉と八津の会話だ。

『まあ、これはこれでよかったんじゃないか? 結局、余計な荷物は背負わないで済んだんだから』
『まあね。これに関しちゃ俺も矢倉と同意見かな。
今回初めて無自覚ってのもたまにはいいのかもって思ったな。
自覚したところで行き場がないんじゃ辛いだけだし。
だったら最初から知らないほうが彼にとっては幸せだからね』

 これである。

 ちなみに、ゲームそのものの結果としては、すでに決着はついていた。
結局、泉とぼくの負け。
ゲーム終了となった時、泉とぼくの「ギイ発言」が発覚したためだ。
ごまかしようにも事実なので、仕方なく、ぼくたちはふたりでみんなに珈琲パックをおごったのだった。

「やれやれ、やっと終わったか」

 そして、現在、三階ゼロ番にて、ギイはその勝利品の珈琲を片手に、突然のゲーム終了の報告にほっとしたように笑っている。

「おごりの珈琲ってのは格別だよな」

 そして、日頃の疲れが溜まっているのか、首の後ろを揉みながら、
「まあ、波立たずして終わってよかったと言うべきか」
そう言って、また一口飲んで、喉の渇きを潤した。

 言葉は違えど、意味的には矢倉たちと変わらないそれ。
ギイが矢倉たちと似たような発言をしたものだから、ぼくは何となく引っかかりを覚えた。

「あのさ、それってどういう意味? 矢倉くんたちもそんなこと言ってたけど。
結局、鷺司くんのあれはどういうことだったの?」

「あれ? ああ、アレね。
そうだなあ、鷺司としては、数週間の体験入学で得た経験と日本の友人たちとの楽しい交流の思い出を胸に無事帰れたわけだから、『終わりよければすべてよし』だったんじゃないか?」

 そのギイの言葉の抑揚の中にもっと深い意味が隠れているような、そんな勘が働いたのは、ぼくにとっては珍しいことだった。

「でも、彼って高林くんに張り合っていたよね。何だか小さな子が宝物を取り合いしているようにさ」
「へえ、託生にしちゃ鋭いな。そうだよ。鷺司は高林が気になっていた。それは確かだよ」

 外国は呼び捨てが普通だから、くん付けや、さん付けに憧れていた。
日本に来たら、友人をそんなふうに呼んでみたかった。
そんなところに舞い込んだ、泉の挑戦的な態度。
「ちょうどよかった」と、そんなふうに鷺司は語っていたと、ギイは話してくれた。

「オレも帰国子女組だから、そういう感覚がないかって訊かれたよ。
オレは特別そんなふうには思わなかったけど。
でも、ミスターやミズとか、英語やほかの言語もそうだけど、男や女で区別する敬称が多い中で、日本語の『さん』付けなんかは男女の区別なくて便利だよなって話はしたな。
でも託生が訊きたいのはそういうんじゃないんだろ?」
「だって鷺司くんが高林くんを気にしてたのは確かだし。
それに、無自覚が幸せなんて聞いちゃったら気になるよ」

「そうだな。託生の勘は正しいよ。
オレが言った『気になっていた』もそんなうわべだけの気持ちばかりじゃない。
なあ、託生。自分の気持ちってのは普通、本人が一番よく知っているはずだよな。
でも、たまに本人よりも第三者のほうがよく見えることだってあるんだよ。
鷺司の場合は本人が気づいてなかった。それに気づいた面々も知らないふりをした。
だってそうするしかないだろう? 気づかせてどうなる? どうにもならないだろう?」

『気づかせてどうなる?』──そのギイの言葉でわかってしまった。

 鷺司は泉に惹かれはじめていたんだってことに。
もしかしたら、恋をしはじめていたんだってことに。

 でも、恋心に気づいたところで、泉にはすでに吉沢という恋人がいる。
それに、恋している自分を気づくということは、同性に惹かれてしまった自分に知るということだ。
それはやはりショックが大きいだろう。

 だから、気づいたみんなは、知らないで済む気持ちならば知らないままでいるほうがいいと考えた。
泉に抱いた鷺司の淡い恋情はいいことは何も生み出さない気持ちだったから。

「好き」という気持ちに気づいて認める。
一見簡単のように思えて、実はとても難しいことなのかもしれない、と思う。

 ギイが好き。
この気持ちにもし気づかなかったら……。
自分の気持ちを認めなかったら……。

ぼくとギイは、今もきっとすれ違ったままだっただろう。

 恋していることに気づいたから、今のぼくがある。

 けれど、気づかないほうがいい恋もあることを、ぼくは知った。

 気づいた瞬間、辛さだけを残して、心を傷つけてしまう恋。

 割り切れない気持ちはまだあるけれど……。
知らないほうがいい恋もある──それもまた、ひとつの真実に違いないのだろう。

「高林は鋭いようで、鈍いとこがあるからな。あいつは天真爛漫というか。
吉沢は鷺司の気持ちに気づいていたようだったけどな。
吉沢にだって高林の恋人としての自覚があるからな。だから恋人を信じようとしたんだ。
だからこそ、あいつは高林のやりたいようにさせていたんだろう。
それに高林の気持ちを縛りたくないってそう思ったんだろうさ。
恋人を信じながら、吉沢はずっと我慢してたんだよ。あえて気づかせることはしなかったけど。
それでも信じ続けるってのは並大抵な想いじゃない。
モテる恋人を持ったあいつの宿命とはいえ、黙って見守るなんてのはオレには出来ない芸当だな」 

──そうだよね。
きっと吉沢くんだって、高林くんを信じながらも、きっと気づいてほしくなかったのかもしれないね。

 鷺司が自分の恋に気づかないでほしい。
泉が鷺司の気持ちに気づかないでほしい。
そんなふうに願ってしまっても、それは泉の恋人ならば仕方のないことだ。

 誰だって、ライバルは増やしたくないのだから。

「鷺司くん、ちょっとかわいそうだな。このままだときっとせっかく生まれた気持ちも萎んでしまうよね」
「そうかもな。けど、このくらいで萎んでしまうなら、その程度の気持ちってことだ。
だから、知らぬ存ぜぬが身のためなのさ」

 気づいてもらえないまま育ててももらえなかった恋心は、鷺司が次に泉に会った時、消えてしまっている可能性が高い。

「何だか、やりきれないな……」
「でも、気づかないのは自分が悪いんだ。第一、そんなの他人に親切に教えてもらうもんじゃないだろ?」

「そうだけど……」
「オレも吉沢も矢倉も八津も、それに章三だって。誰にでもいい顔するのなんてのは無理だ。
託生が思っているほどオレたちはそんなに親切じゃない。
他人の恋路に首を突っ込む趣味もないし、自然消滅しそうな恋を拾って育ててやるほどオレは世話焼きじゃないんだよ。
実際、オレは吉沢の気持ちを知ってて、高林の気持ちが吉沢にあるのも知ってる。
今回はたまたま鷺司の横槍を止めた形になったかもしれないけど、ふたりの関係を決めるのは当人たちだ」

「うん。それは確かにそうだよね。他人が決めることじゃない、よね」
「それに、最後に決めたのは鷺司なんだ。鷺司は自分の気持ちに蓋をした。
もしかしてって疑問に思った瞬間だってあるはずなんだ。
でも、その小さなきっかけを無視することにしたのは鷺司で、本人がそう選んだんだ。
オレたちがどうこうするなんて最初から無理だったのさ」



 気づこうと努力する。気づかないように目をそらす。
どちらも自分の意思次第。

 そうして、ひとつひとつ選んで、誰しもが自分の未来を決めていく──。

 もし、ぼくがぼくの気持ちに気づかなかったら、今がなかった。
だから、今のぼくは、ぼくが選んで望んだ未来のカタチなんだ。

──気づけてよかった。

 心から、そう思う。 



「鷺司のことはともかく。今回のゲームはオレにとっちゃすごくラッキーだったな。
崎くんってのはちょっとキタぞ。託生、一年の時はここんとこに皺作って呼んでたもんなあ」

 そう言って、ギイがぼくの眉間を指して、つんつんと突っついてきた。

「あんなふうに笑顔で託生に呼ばれたことなかったから、結構カンドーした」

 あー、あの頃は苦労してたんだよなあ、とか。
こんなささいなことすら叶えるのが難しかったんだよな、とか。
振り返るとすごくせつなくなって苦しくなったんだと、ギイは笑いながら告白してきた。

「でも、やっぱり託生には『ギイ』って呼ばれたいよ、オレ」
「うん」

『ギイ』──。
それはプライベートだけ許されるトクベツの名。

「同じ『ギイ』でも託生が言うとトクベツになるんだ」

 恋人が呼ぶ自分の名すら、すごく愛しくなって。
ふたり一緒にいる。それだけのことにすごく価値があるんだと知れて。
すごく嬉しくなるんだ、とギイが囁く。

「おまえだけが呼んでくれるトクベツな名ってのも捨てがたいんだけどさ。
でも、託生が『ギイ』って呼ぶの、オレ好きなんだ」

 ぼくだけのギイの名。それはとても魅力的に感じられて、ちょっとだけドキドキした。
ついでにそのドキドキはぼくの心の琴線を弾いてくれちゃって、思わず思い出し笑いをしてしまった。

 それを見止めて、「何?」と訝しげにギイが尋ねてくる。

 想像すればするほど、ぷぷっ、と、噴出してしまって。

「たーくーみ〜」

 ギイが拗ねるように甘えてきた。

「ごめんごめん。あのね、何か思い出しちゃって。
この間さ、ぼくだけの呼び名ってどんなのがあるかなって考えてたら、ちょっとここにピピピって来るものがあったんだ」

 すると、へえ、とおもしろそうにギイが促してきた。

「試しに言ってみな? どんなの?」
「あ、いや。ギイに言うほどのものでもないから」

「そう言われるとますます聞きたくなるだろ。ほら、言ってみろよ。気に入ったら採用してやるから」
「え、ホント? あ、でも、そんな大層なものじゃないし……、やっぱりいいよ」

「託生。言ってみろって。な?」
「あー、うん。それじゃあ……、『ぎっちょん』」

「は?」
「だから、『ぎっちょん』」

「ぎっちょん?」
「そ。何かぽんぽんってリズム感があってかわいい感じだと思わない?」

 ところがギイの反応は、ぼくの想像とは大夫違っていた。
すごくビミョーな雰囲気を醸し出して、複雑そうな顔を向けてきた。

 そして、ぼくが何か言う前に、「却下」とギイはすげなく言い捨てたのだった。

「今にも、首と胴が切り離されそうな感じがすごく不気味」というのがギイの理由で。

「え〜、すごくかわいいのに」
「どこがだ? それだけはやめてくれっ!」

 苦虫を潰したような顔をするギイがすごくおかしかった。

 いつもは冷静沈着のギイが、本気で嫌がっているのが伝わってくる。
こんなギイはとても珍しい。

 しかし、ここまで面と向かって嫌がられるとなぜか楽しくなってくるもので……。
もしもこの先、喧嘩とかする時があったら、その時は『ぎっちょん攻め』もいいかもなんて、ぼくはイジワルにも思ってしまったのだった。

 でも今はとりあえず、ぼくだけしか言えない告白を。

「好きだよ、ぎっちょん」

 言葉にすると、好きだなって気持ちがますます泉が沸き出るようにあふれてきて、きゅっと胸が苦しくなる。
けれど、この苦しさも、恋すればこそ。

 いろんな葛藤を交えた何ともいえないギイの表情(かお)がとても愛しい。
ギイのいろんな表情が身近に見られるのがすごく嬉しい。

 そして、このギイの笑顔を世間では『苦笑』と言うのかもしれないな、などと頭の隅で思いながら、
「たーくみクン、意地悪するとお仕置きしちゃうぞ」
ギイから贈られる珈琲味のキスを、ぼくは唇の端で受けとめた──.。

                                                         おしまい


material * NOION



*** あとがき ***

最後までのお付き合い、ありがとうございました。
当サイト、moro*onの111,111hits記念作品「刹那の芽吹き」はいかがでしたでしょうか?

気づかない恋もある。気づかないまま、消えてしまう恋もある。
それが不幸か幸せか、それを選ぶのはその人次第……。
そんな恋の始まりを描いたお話となりました。

「駒沢瑛二救済活動」「ニャンコ語約定」などゲーム感覚のお話を書くのはすごく楽しいです。
この「刹那の芽吹き」が、楽しい雰囲気の中にいろんな想いが絡み合うような、
そういうお話になっていたら嬉しいです。

最後に、この作品は111,111hitsをゲットしてくださったなたねさまに捧げます。
なたねさま、「刹那の芽吹き」を気に入って頂けると幸いです。

いつもご贔屓にありがとうございます。
これからも、moro*onをよろしくお願いします。

by moro



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