*** ご注意 **

この「歩兵の変革」は未来編です。

全体的に、世の中のあり方をはじめ、現実には到底ありえないホラ吹き設定になってます。
また、未来編ということで、原作との相違点が多いと思われます。

そのようなお話が苦手な方、または、ご理解していただけない方は、申し訳ありませんがご遠慮ください。
「どんなんでもOK! ドンと来い! 笑って許してあげよう!」という心の広い方のみ、どうぞ〜♪




歩兵の変革



 世界有数の大都市二ューヨーク。
その空の玄関口であるジョン・F・ケネディー国際空港はマンハッタンより東南へおよそ二十キロの位置にある。
増改築を重ねたその巨大空港には、毎日海外から多くの便が発着している。

 ちなみに、昼前に日本から出発した飛行機は、予定通りのフライトならば同日の昼前に到着する。
正確には、出発した時間よりもおよそ十五分ほど遡った時刻に。

 ぼくはデジタル表示が示す現地時間を見て感慨深く思った。

「何だかタイムスリップしたみたい……」

 これまでにもアメリカの土を踏む機会が何度かあった。でも、いつ来てもこの国は緊張する。
一種のトラウマなのかもしれない。

「技術のアメリカ、情緒の欧州」という言葉をいつ誰から聞いたのか忘れてしまったけれど、音楽を志す者のひとりとして、「ああ、なるほど」と思わしめる言葉だと思う。

 その言葉をぼくの恋人が以前から知っていて誘ってきたのか、ただの偶然なのかはわからないけれど、ぼくが音大進学を志望した時、ギイは自国アメリカのジュリアード音楽院の留学を最初ぼくに勧めてきた。
アメリカには俗に五大音楽院と呼ばれる音楽大学があり、ジュリアード音楽院はそのひとつだ。
確かに技術を磨くにはこれ以上の学び処はないだろう。

 ぼくはかつて、自分の弱点は技術にあると思っていた。
それを強く思ったのは音大受験の時で、だからジュリアード音楽院とはいかないまでも、ほかのアメリカの音楽院への留学を本気で視野に入れていた時期もあった。
とはいえ、結局は日本の音大に進学したわけだけど……。

 特に大学一、二年の時に技術不足というトラウマに悩まされ続けたぼくにとってアメリカは、やっぱり意識しないといられない国なのだろう。

 飛行機を降りて空港内に入って。物珍しげにキョロキョロと周りを見渡して。
背の高い黒人の警備員や体格のいい職員たちが英語で会話しているのを見かけると、「ここはもうアメリカなんだなあ」とじわじわと実感してきた。
同時に、思わず身体がブルッと武者震いする。

 自由の国、アメリカ。
ぼくにとってアメリカという国は、「解放的で、自由と引き換えに責任を重んじる国」という印象がとても強い。
気を引き締めなきゃ、と思わせる、どこか迫力みたいなものが感じられる国。

 ぼくはこの国が嫌いではない。
むしろギイが生まれ育った国であるし、どちらかといえば憧れの国でもある。

 ただし、英語がわかれば……、の話だけど。

 昔ほど苦手意識はないけれど、どうしても英語圏に来るとぼくは見構えてしまうところがあって、ギイに言わせれば、「ドイツ語のほうが名詞に男性、女性、中性と性があるわ、それぞれ格変化があるわで大変だろうに」となる。
ぼくからすれば、そのままローマ字読みをすれば何とか通じるドイツ語よりも、ローマ字読みでは何のことやらとんと通じない英語のほうがわかりづらい。
楽譜などもドイツ語表記が多いので、ぼくにはどちらかというとドイツ語のほうが馴染みがあると言ってもいい。

「いっそ、ピロートークを『日本語禁止、Only English 』にしてみるか?」

 ギイがおどけてそんな提案をしてきたこともあったけど、ぼくの耳には英語は子守唄にしか聞こえないので、「そのまま眠ってもギイが文句言わないって約束できるんならどうぞ」と言い返してやった。

 当然、ギイは「託生の意地悪、横暴」と文句タラタラ吐いていたが、英語を聞いてると眠くなるのは条件反射みたいなものなんだから仕方ないじゃないか。

 とはいえ、これでも今では多少の進歩があった……と願いたい。
英語にしろドイツ語にしろ、もともとはラテン語から発展した言語なので、スペルが似ているものが多い……と無理矢理こじつけつつ、十年前に比べたら少しは英語もわかるようになってきているんじゃないかと希望的観測を抱いている、が正直なところだろう。

 結局のところ、言語に対するぼくの向上心は昔から薄っぺらのまま。
言葉は度胸だ、いざとなったらジェスチャーでどうにか切り抜ければいい、とどこかで思っている。
今までそれで何とかやって来れたので、だから余計、英語を覚える気が起きないのかもしれない。

──確かに話せたらそれなりに楽しいんだろうけど……。

 今回のニューヨーク行きが決まった時も、どうにかなるさの勢いで、ぼくは自力でギイの自宅へ行く気満々でいた。
マンハッタンを目指す人間はぼくだけではないはずだし、みんな何とかしてるんだから、ぼくだって何とかできるはず。
空港からマンハッタンまでエアートレインで行こうか、バスを使おうか。
それともギイがそんなに心配するならタクシーを利用しようか。
ガイドブックを開いて、わくわくしながら迷った。
最終的には、悪く言えば無計画、よく言えば臨機応変に対応することにして、現地の混み具合で決めることに落ち着いた。

 そんなこんなで、すでにギイには「迎えはいいから」と連絡してある。
どちらにしろ、四半期末を控えたこの時期のギイの忙しさは秒殺ものなのだ。
ギイの出迎えなど、米粒ほども期待などできない。

 日本の会社では半期決算が主だが、アメリカでは四半期決算が幅を占めている。
決算の良し悪しは経済の動向を予想する札となり、日本では半年後の、アメリカでは三ヵ月後の経済状況を予告していると言っていい。

 そんな多忙な三月のこの時期に、ギイに空港へ迎えに来てなどと我がままを言えるはずがない。
それでなくてもふたりですごすためにと島岡さんに無理を言って、ギイは二日間の休暇をもぎ取っているのだ。
これ以上、島岡さんをはじめ、多くの部下の方々にシワ寄せが行くのはひどく心苦しかった。

 バイオリンケースを片手に入国検査を通過し、さっさとスーツケースを受け取って税関を済ませようと荷物受け取り場所に意気揚々足を運ぶ。
ギイに会えるのは二週間ぶりだ。足取りも軽くなるというものだろう。

 恋人の秀麗な容貌を思い浮かべて、思わず頬が熱くなる。
余程浮かれていたのか、気がつけば、珍しくもフンフンと鼻歌まで出ていた。
頭の中では、エアートレインとバスとタクシーがぐるぐる回ってワルツを踊っていて、心はすっかりマンハッタンに飛んでいた。

 しかし、ぼくの足取りは突然ピタリとそこで止まってしまった。
ただ唖然と立ちすくむしかなくなる。

「……コレは何事?」

 荷物受取場所は人、人、人の坩堝(るつぼ)になっていた。
目の前に拡がる状況を悟った瞬間、ぼくはマンハッタンが遠くなっていくのがわかった。

──嘘だろう?

 まず、その人の多さに驚き、これがすべて自分と同じく、ターンテーブルにスーツケースが出てくるのを待っている人かと思うと一気に気が滅入った。

 前の便の荷物の搬出が遅れているのか。それとも事故でもあったのか。
ターンテーブルに出てくる荷物がどの飛行機のものか画面に表示されるのだが、ぼくが乗ってきた便の順が巡ってくるのはしばらく先のようだった。
当然、ぼくのスーツケースも当分出てこない。

 それでも、大事なバイオリンは手荷物扱いで機内に持ち込んでいたので、手元にあるからまだ安心できた。
そうでなかったら、ぼけっと突っ立って待っているなんてしていられなかったと思う。

 周囲は剣呑(けんのん)な雰囲気が立ち込めていた。
怒鳴って怒る外国人(ここではぼくのほうが外国人なのかもしれないけど)もちらほらいる。
同じ日本からの便で来た人たちなのか、ぼくと同じくらいに荷物受取場所にたどり着いた日本人のカップルや団体客たちが、すごく心配そうに画面を見ながら、これまたぼくと同じように、「嘘だろう」を連発していた。

 そして、それから待つこと一時間。
やっと順番が回ってきて、スーツケースを無事受け取ることができたのだが、しかし案の定、その先の税関もすごく混んでいて、ぼくは何度目かわからない溜息をつくことになった。

 今度も先ほどと同様、特にすることもなくて、ひたすらぼけっと時間が過ぎるのを待つしかない。
これからのスケジュールや次のコンサートで弾くコンチェルトのこと。
ギイに会ったらどんなことを話そうかなとか、喉が渇いたなあとか。
頭の中でいろんなことを想像するくらいしか時間の潰しようがなくて。
そのうち暇つぶしに、前に並んでいる女性三人のおしゃべりに耳を傾けたりもしてみた。
友人同士の旅行なのか、ガイドブックを開きながら、あそこに行こうとかここにしようとか楽しそうに話している。
彼女たちもマンハッタンに行くのにエアートレインとバスとタクシーでどれを選ぼうか悩んでいた。

──悩みどころはみんな一緒か……。でももう立ちんぼはたくさんだ。

 ぼくはこの時にはすでに、誰が何て言おうと絶対タクシーで行こうと心に決めていた。
早く順番が来ないかな、と時々列の先のほうを気にして見たり、ジンジンと痺れてきた足の裏の疲れを誤魔化すように何度か背伸びを試みたりもしたが、時間が早く過ぎるわけでもない。

 結局、税関を通過するのにも二時間近くかかってしまい、
「やっと出られた。よかった……」
空港を出た時には心から安堵したというか、ぼくは完全に脱力しきっていた。

 だからだろうか。
やっと入国を果たして、タクシー乗り場に向かう時はもうフラフラで、精神的にも肉体的にも疲れきっていた。
インフォメーションの看板が目に入って、やっと異国の地を踏めたのだと少し安心していたのかもしれない。
ドンッと背中を押された拍子にスーツケースから手が離れてしまって、あっと叫んだ時にはすでに知らない誰かが担いでいた。

「ちょ…、待って!」

 しまった、と思った時にはもう遅く、日本語でいくら叫ぼうが周りの人からは白い目で見られるだけで、誰もぼくの言っている意味など理解してくれない。

 それでもぼくの慌てように気づいた人が、駆け足で去ってゆく男を指差しながら早口で何か言ってくれたけど、ぼくには彼が何を言ってるのかよくわからなかった。

『荷物』とか『泥棒』とかの英単語が聞き取れるくらいで、何の解決にもなりやしない。

 でも、そのうちその彼がぼくのことをラッキーボーイと呼んだのだけはわかった。
見ると、タクシー待ちで溢れかえる人の群れから離れたずっと先のほうで、ぼくの荷物を取り返してくれた人がいる。
どうやら犯人は逃げてしまったようだけど、幸運なことにぼくの荷物は無事のようだ。

 その大恩人の彼が、わざわざぼくのほうへスーツケースを持ってきてくれようとしていた。
遠目にスーツ姿の男の人だとわかる。

 荷物を取り戻してくれた人にこれ以上お手数をおかけするのも忍びなくて、
「Excuse me……. Pardon……」
スーツケースを受け取りにぼくはたくさんの人を振り分けながら、その人に近づこうと走りだした。
が、突然、ぼくは横から伸びてきた腕に二の腕を捉(つか)まれる。

「相変わらず隙だらけだな。この国でそんなふうじゃ命取りだぞ」

 見知らぬ男が日本語で話しかけてきた。

──え? こんなとこで日本語? 日本人? 

 話かけてきた男が日本人だということも、相手はぼくを知っているらしいことも、すべて寝耳に水の話で。

「俺の顔を忘れたのか。葉山くんはシアワセものだな」

 その少し皮肉れた言いように引っかかるものを感じて、ぼくは相手の顔をじっと見た。

 色黒の肌に銀縁眼鏡がひどくアンバランスに思えた。
でも、彼の皺の寄ったビジネススーツとその精悍な顔立ちは何となくしっくり来るものがある。

 ぼくが何て言っていいものか戸惑っていると、彼は胸ポケットから名詞を取り出し、ぼくに向かって突き出してきた。
途端、某経済誌編集部の肩書きと「佐貫久敏」の名が目に飛び込む。

「佐貫、さん……?」
「ツレナイな、俺にとってはきみとの出会いは運命だったのに。
それにしても、俺の一生を変えた張本人とこんな場所でばったり会えたってのも何かの縁ってヤツか……?」

 普段聞きなれない「運命」という言葉が耳に残って落ち着かなかった。
佐貫と名乗る男との運命だなんて、ぼくにはまったく心当たりなどない。

「これも神様の思し召しかね……」

 にたりと笑う、いかにも人の悪そうなその彼の笑い方がすごく気に障って嫌な気持ちになる。
思わずぼくは腹部を手で押さえた。
わずかにちくんと痛みが走ったような気がしたのは気のせいだろうか。

「おいおい、こんなところでまた入院なんてのはよしてくれよ」

 勘弁してくれよ、と彼が嫌そうにぼくを見る。
その表情は、これ以上ぼくとは関わりになりたくないと語っていた。

 それにしても、彼の物言いからすると、この人はぼくを確かに知っているようだ。

──入院? そんな経験あったっけ……って……。

「あっ」

 思わず声をあげてしまった。

──思い出した……。

 入院といったら普通は長期入院のイメージを思い浮かべるものだ。
だから、なかなかわからなかったけれど、ぼくは彼の言う通り、確かに入院した経験があった。

 思い出したくもない記憶……。

 数年前の出来事を回顧する。

 当時の不安と緊張が津波のようにぼくを襲い、今まさに食いちぎろうとしていた。

「もしかして、あの時の……」

 そう、彼こそは、かつてぼくを入院に追い込んだ、その張本人だった──。





 もう九年前になるだろうか。

 祠堂学院高等学校を卒業して迎えた十八の春。
音大に入学してはじめてレッスンを受けた時、その講師は言った。

「ぼくのはドイツのなんだけど、きみのバイオリンはイタリア製かい?」

 お国柄とは楽器の音にも出るらしい。
フランスのものは華やかさに、ドイツのものは重厚さに、ハンガリーのものは軽快さに富み、そしてイタリア製のバイオリンはオールマイティーと言われている。

 その講師のそれは特に低音が響くバイオリンらしく。
聞き比べがしたいから、としきりにその講師はぼくのバイオリンを貸してほしいと言ってきた。

 相手はぼくの担当講師。ぼくは彼の生徒である。
だが、ぼくははっきり、「すみません、これは借り物なんです」と断わった。
それでも執拗に「いいじゃないか、ちょっとくらい」と言ってきたので、ギイには悪いなとも思ったのだけど、「コレの持ち主がほかの人への貸し出しを許してくれないんです」と、ぼくはデマカセまで口にした。

 こういうシチュエーションでバイオリンを誰かに貸しても、ギイはたぶん怒らないだろうとは思った。
でも、ぼくが嫌だった。
昔からギイのことを知っている井上佐智ならともかく、見ず知らずの人に安易に差し出せるほど、ぼくは心広くない。

 それにぼくに弾き方の違いや音の出し方の工夫を教えてくれるために貸すのならともかく、彼はただ、ぼくのバイオリンに興味を示しているだけだった。

 このバイオリンはぼくにとって特別なものだ。思い入れもすごくある。
だから、余程のことがない限りは他人への又貸しは極力避けたかった。

 でも、入学したての新入生にそんな偉そうな口を効かれたら、講師という立場の人間としては当然おもしろくない。
以来、ぼくは前半期の間中、他人よりも二倍多く課題を出され、練習量を倍にせざるを得なくなった。
加えて、作曲者の経歴なども調べるよう言われたため、練習の合間にレポートをまとめる時間も要した。

 そうなると、必然的に睡眠時間を削らないと課題は間に合わない。
毎日がまさに時間に追われる生活となった。

 睡眠不足に悩まされながら、「バイオリンがうまくなるためなんだ、頑張るしかないじゃないか。
勉強するために大学に入ったんだから課題を出されるのは当然なんだ」と自分を納得させながら踏ん張ったけど、それでもさすがに「当てこすりの批評」はすごく堪(こた)えた。

 いくらちゃんと練習をしていっても、助言ひとつくれるわけでもない。まともな感想すらくれない。
それだけならまだしも、「葉山くんにはこんな曲は楽勝でしょう? そんなに素晴らしいバイオリンがあるのだから」と皮肉で返され、課題曲の数だけが増えていくだけのレッスン。

 だからといってぼくから投げるわけにもいかない。

「ぼくにだってぼくなりの意地があるんだ。負けてたまるか」

 ヘンなところで負けず嫌いが発揮して、その意地だけで練習をこなし続けた。

 確かに楽器の良し悪しで音は変わる。それはぼくも理解している。
けれど、その音を奏でるのはあくまで演奏者である。
同じ楽器で弾いても華やかな音を出す人もいれば、しっとりとした情緒溢れる音を作り出す人もいる。
同じ楽譜、同じ楽器でも、弾く人間によって解釈も違うし表現の仕方も異なる。
まったく違う音楽になるからこそ難しくも楽しいのだ。
音楽の魅力も醍醐味もそこにあると言ってもいい。

 だから、その講師の言いようにはカチンと来た。
素晴らしいバイオリンがありさえすればすべてうまくいくみたいな考え方は、ぼくには到底受け入れられなかった。

 ストラディバリウスは誰からも名器と呼ばれているのは事実だし、そんな大層なバイオリンを手にする資格がぼくにあるかどうか、まだ自分でもわからない。
だけど、ギイの気持ちはわかってるつもりだから。

 ギイがぼくに使ってほしいと言って、これはぼくのバイオリンだと言う。
ギイがそう言ってくれるから、ぼくは遠慮なくこれを使わせてもらっている。

 以前、井上佐智がこのストラディバリウスで手本を見せてくれた時、音が羽を広げたような感覚を味わった。
それは彼の演奏技術とこのバイオリンが持つ本来の響きが編み出した音であって、ぼくはすごくその音に惹かれ憧れた。

 でも、もしも誰かに、いつかあれと同じ音を出せるようになれるのかと訊かれたら、ぼくは「たぶん無理」と答えるだろう。
卑下するわけではなく、それは井上佐智というバイオリニストだけが出せる音だと思うから。
ぼくにはぼくの、ぼくしか出せない音を求めていかないといけないんだ。

 彼のように人を惹き付けられるほどのすごい音を出せるようになりたい。
彼の音を真似するのではなく、ギイから贈られたこのバイオリンとぼくとでしか出せない音を追求したい。

 だから、担当講師にどんな仕打ちをされようが、バイオリンがうまくなれればいいと思ってぼくはずっと我慢したし、後期のレッスン担当は変更希望を出すつもりでいたので、とにかく半年だけ我慢すればいいと自分に言い聞かせて乗り切った。
そして実際、希望通り、後期の担当はその講師ではなく大原教授になったので、ぼくは心からホッとしたのだった。

 バイオリン科の主任教授である大原教授は、門下からプロのバイオリニストをたくさん輩出していることで知られた先生だった。
大学内でも実力者であるらしい。同じバイオリン科の友人がそう言っていた。

 聞きたところによると、この音大へ入学する際は、大学につてがある先生のレッスンを受けるのが普通らしくて、課題曲の傾向と対策をみっちり叩き込まれて試験に臨む生徒が大部分らしい。
そういう意味では独学で受験を乗り切ったぼくはすごい異端で、期末試験で大原教授の目に留まったのはとても幸運だったと言える。

 大原教授は前期期末試験の実技試験の審査主任でもあられ、その折のぼくの演奏を気に入ってくださってレッスンを担当してくださることになったらしいのだけど。
大原教授のレッスンは、昔習った須田先生のレッスンをどこか思い出させた。

 後期がはじまって一ヶ月ほど経ったある日のレッスン前だっただろうか。
「先日、須田と飲んだよ。葉山くんは須田の教え子だったんだね。どうして言ってくれなかったんだい」と、水臭いな、と拗ねるように大原教授がぼくをなじったことがある。
その時、恩師ふたりがなぜかダブって見え、すとんと何かがぴったりと胸に納まったような感じがした。

「須田先生とお知り合いなんですか?」
「同じ師についた兄弟弟子さ。さて、ここで問題だ。どっちが兄弟子だと思う?」

 大原教授は厳しいだけでなく、お茶目な先生でもあった。

「須田の秘蔵っ子を預かるとはなあ。縁ってのは面白いもんだ。
何にしろ、須田が基礎を築き上げたとあっちゃそれこそ手を抜くわけにはいかんな。
きみが上達しなかったら須田は私の指導力を疑ってくるだろう。それもちと悔しいしな。
悪いが容赦はしないよ、いいね?」

 大原教授はぼくにすごく期待をしてくれた。それは申し訳ないほどで。
レッスンはとても厳しかったが、時間があると時々だがお茶にも誘ってくださった。

「練習はもちろんだが、とにかくいろんな経験をしなさい。
音楽に限らず、その経験すべてがきみの音に反映するんだ」

 自らの失敗談を交えながら、求める音への欲求の難しさとやりがいをぼくに教えてくださった大原教授は、ぼくのゆくべき道を灯してくれる尊敬できる先生だった。

 そして、音大での二度目の春を迎えてすぐのこと、
「葉山くん。きみ、コンクールに出てみないかい?」
ぼくはその年の秋に開催される学生対象の国際コンクールへの出場を大原教授から示唆された。

「コンクールの優勝者には副賞としてオーストリアへの留学がある。
技術を磨きにアメリカに行くのもいいかもしれんが、私はきみのその情緒感溢れる音をもっと伸ばしてほしいと思う。
技術は必死になって練習すればいつかは身につく。
だが、きみの音が持つその膨らみは誰もが持てるものじゃない。
だから、きみには期待したい。ウィーンへの留学を狙うつもりで頑張りなさい」

 音楽の都、ウィーン。
かの街は、夜な夜なオペラやコンサートがそこかしこで催されていると聞いている。

──ウィーンか……。

 祠堂学院高等学校を卒業後、ギイは宣言どおり、ほとんど毎週のようにぼくに会いに来てくれていた。
どうしても用事があって、会えない週もあったけど。
それでも彼はできる限り時間を作って、頻繁に日本に来てくれていた。

 ギイのことだ。暇なんてあるはずがない。
来日するための時間のやり繰りは相当大変なはずだった。
だから留学するなら、できればギイがいるアメリカへ行きたいとぼくは思っていた。
少しでもギイの負担を軽くしてあげたかったのだ。

 でもそうなると、大原教授の助言に反することになる。
ぼくはすごく考えさせられた。

 留学先がアメリカだったらギイのそばにいられる。
ギイのそばで音楽を学べられたらどんなにいいだろう──。
そう望むぼくがいる。

 一方で、それだときっと甘えが出てしまうかもしれない。
留学するのは音楽を学ぶためになのに。
大原教授はぼくの将来を思って、ぼくが伸ばすべき音楽の方向性を示してくださったのに。
自分の足でちゃんと立っていない身でギイのところに行っても、ギイにおんぶに抱っこになるだけだ──。
そんなふうに迷うぼくもいた。

「弓の使い方をもっと丁寧に! もっと溜めてから根元まで弓を一気に引いて……! そう! 力強くっ!」
「はい!」

「そう……そうだ。……違うっ! そこはスル・タスト! 柔らかく、くぐもった音にして……」
「はい!」

 コンクールの本選へ進むには、予選を勝ち進まなければならない。
夏の終わりに予定されている一次予選まで、あと三ヶ月もなかった。
一次予選に向けての練習はますます過熱していった。

 そういう状況下で、悩む暇などないってほど練習に明け暮れていたはずなのに。
時々、ふっと気が緩んだ瞬間など、気がつけば、つい物思いに耽(ふけ)ってしまう。

 ギイのこと。将来のこと……。
頭の中でグチャグチャといろいろと混ざっていて、あれこれどうしたらいいんだろうってぼくなりに考えるのだけれど、結局、答えが出るわけでもなく──。

「自分の音をちゃんと聞いて。左手だけに意識を向けるな。もっと弓を使って表現するんだ。
この部分でコマ寄りに弾くことがあとの流れにどう影響するのか、曲のイメージを頭にしっかり描いて弾くように」
「はい」

 五月の時点ですでにぼくは、大原教授から二次予選、三次予選の課題曲の指導も同時進行で受けていた。

──今後、本選の選曲が決まったら、今以上にますます扱かれるんだろうな。

 つまり、ぼくはもちろんのこと、大原教授も優勝狙いの意気込みでもってこのコンクールに本気で挑んでくださっていたのだった。

 そうなるとますます留学のことが頭に引っかかって。
何しろ場所は海外だ。言葉の壁の問題も考慮しなければならない。
英語でさえ苦手としているぼくである。
ドイツ語を母国語にしているウィーンでなんてホントにやっていけるんだろうか……。

 とはいえ、本気で狙うと言っても優勝する確証などどこにもない。
優勝するかどうかもわからないうちに……とこれじゃあ取らぬ狸の皮算用じゃないかと自嘲しながらも、そんなこんなで悩みは尽きなかった。

 時間が許す限り懸命に練習して、大原教授の厳しいレッスンに臨んで、次の課題をもらって、また練習して。
その繰り返しの充実した忙しい毎日を送っているのに、ぼくの奥の奥のところで何かが吹っ切れないところがあって、どこか釈然としない。

 やれるだけのことはやろうと頑張っているのに。もっと頑張れるはずだって思っているぼくがいる。
そう思うのはやっぱりどこかに迷いがあるからなのか。

 自分ではどうにも解決できなくて、ギイにも何度か相談したことがあった。

「ぼくはどうすればいいのかな。こんな悩み、優勝してからすればいいのにってわかってるんだけど。
もしも仮にそうなったらって思うとグルグル頭の中で回っちゃってどうにもならないんだ」
「それこそ優勝本気で狙ってるからそんな悩みも出てくるんだろ?
実際、射程範囲内ってことだからこその不安なんだ。いい兆候じゃんか。
いいじゃないか、ウィーンに行けよ。あそこは治安もいいし、いい街だぞ。
日曜ごとに一緒にミサに行くのもきっと楽しいだろうし、絶対託生にとって勉強になるさ」

「一緒にミサ?」
「そ。ミサ。ウィーン少年合唱団。日曜、教会に行けば信者じゃなくても聴けるんだよ。
ミサに参列するんじゃなくて、観覧席っていうのかな。上の階に客席が用意されててさ。
誰でも整理券買えば聴けるんだ。
生演奏だし、場所が教会だから音がすごく反響してさ、臨場感溢れてる。託生もきっと気にいるって」

 そんな調子のいいことを言いながらも、急に顔つきを一変させて、「ま、それもこれも優勝できたらの話だけどな」と、わざとぼくにプレッシャーかけるギイはすごくイジワルだった。

「いいか、託生。これはチャンスなんだ。コンクールに出られるのも、いい先生に巡り会えたのも。
全部おまえが自分で掴んだチャンスなんだよ。だからさ、持てる手札全部使うつもりで優勝狙っていけって。
ほかの奴らだってそうやって挑んでくるんだろうから。
おまえ、手を抜いてる余裕なんてあるのか? ないんだろ? そんな余裕こいてたら足元掬われるぞ」

 ギイが発破をかけてくれているのはわかる。
コンクールに出たくても出られない人たちだっているのも確かだし、大原教授のレッスンを受けたくても受けられない人だっているのもぼくは知っている。

 確かにぼくは恵まれてるのかもしれない。
だからと言って、それに甘んじているぼくではない。

「そうだね、ギイ。そんな余裕なんてぼくにありっこないよね。やるだけやってみるよ。
あとのことはすべて結果が出てからだもんね」
「そうそう。留学したいんだったらオレが費用出してもいいし。
オレに頼るのが嫌だったら奨学金を受けてもいいんだ。
だから留学のことはこの際脇においといて、まずはコンクールっていう異空間の雰囲気を味わうつもりでいけよ。
おまえ、競争とか他人と比べられるの元々好きじゃないだろ? だからこそ、逆に楽しむつもりでさ」

「楽しむつもりで、ねえ。あのねギイ、ただの演奏会じゃないんだよ? 審査されるんだし。
ホントに楽しめると思う?」
「大丈夫、おまえ前科あるし。そんなの佐智のところで経験済みだろ」

 ぼくがどんな演奏をするのか、痛いくらいに探るようなそんな視線を浴びる恐怖。
確かに、かつてぼくはそれを経験している。
それも憧れの演奏者である井上佐智の目の前で。

 アレに比べたら、遠くに座る顔も知らない審査員などまだマシなのかもしれない。

 なるようにしかならない。
そんなふうに思えるようになって、やっとぼくは形振り構わないでバイオリンにのめり込めたのだった。





 夏至が近いからか、夜の七時になってやっと外が暗くなってきた。
空が明るいと、一日が終わったような気にならないためか、六月に入ってから一日がとても長く感じられる。

 充実した生活を送っているせいだろうか。
日没後もおよそ二時間くらいは昼の延長のような気分が抜け切れなくて、身体的には疲れていても、心情的には「まだまだこれから」みたいな高揚感が燻っている時が多い。
一息つけるのは夜の九時くらいで。
実際、九時が近付くにつれ、ぼくはベットに寄りかかるようにしてじっと動かなくなる。
手には携帯を握り締めて、ただひたすらじっと待つ。

 携帯のアナログ表示の時計を見て、「あと一分か」と思い。
パッと数字が変わったのを確認して、「よし」と一息吐く。
一分過ぎると「あれ?」みたいな気持ちになって、二分、三分と数字が増えると焦りが生まれてそわそわしてくる。

──もう、五分遅れたくらいでホント情けないな。

 午後九時。それは、ギイが電話をかけてくれる約束の時間だった。

 そして数分遅れの待ち人からの電話が今夜も鳴る。
ぼくは慌てて通話のボタンを押した。

『Mornin' Takumi』

 ギイが「おはよう」とわざと挨拶するのはいつものことだった。
だからぼくもわざと「こんばんは」と返してやる。
今ではそういうちょっとした応酬もふたりの大事なコミュニケーションになっていて、そんな些細なやり取りが、ぼくの胸をほんわかと温かくしてくれる。

 だが、その日のギイは、ぼくの「こんばんは」のあとに『ごめんな』って謝ってきた。
ぼくは何がごめんなんだろうと、少し身構えた。

『どうしても抜けられない用事が入っちまって今月の後半はそっちに行けない。
次、会えるのは来月になりそうなんだ』
「え……」

『その分、夏休みに入ったら埋め合わせするから』
「あ……、うん。わかった。ギイ、仕事? 大変だね」

『いや、そうじゃないんだ。実はさ、知り合いの結婚パーティが二週連続土曜に入っちまって。
行かないわけにいかないんだよ。ホント悪いな』
「そっか、ジューンブライドだもんね。結婚シーズンかあ」

『そういや今日、大学帰りに近くの教会を通ったら人がたくさん集まってたなあ。
もしかしたらあれもそうだったのかもな。
でもまさかこんな間近になって招待されるなんてミスもいいとこだ。
お陰で三週間も託生に会えないじゃんか。もう参るよ』
「うん。ぼくもちょっと驚いた」

『ちょっと?』
「あー、いや、結構ショック。ぼくだってギイに会いたかったから」

『たーくみ、今のはキタぞ。ここにおまえがいたら絶対キスしてた』
「ははは、出来るものならしてみてよ」

『よーし。今度会ったら覚悟しとけよ。
それにしても、つくづく墓参り、先にしといてセーフだったな。それがまだ救いだったよ。
とにかく来月は絶対行くから』
「うん」

『七月か。その頃にはもう梅雨入りしてるよな』
「どうだろう。確かにそういう時期だよね。でも今年は空梅雨かもって噂もあるし。
雨で鬱陶しいのも勘弁だけど、夏が暑いのもぼく嫌だなあ」

『でも大学は冷房効いてるんだろ?』
「うん。あ……そっか、そうだよね。大学で涼めばいいんだ。ギイ、あったまいい〜。それって妙案かも。
ギイがこっちに来ないならその分頑張って練習することにしようかなあ。
レッスンルーム、朝早いと空室も多いし。雨降って地固まるってこういうこと?」

『託生、それちょっと違うって。それじゃまるでオレが行けなくなってよかったみたいじゃんか』
「いや、そんなつもりは……。ごめんごめん」

『いいけどな。託生が天然なの今に限ったことじゃないし』

 電話をしているとギイがものすごく近くにいるような感じがして、ニューヨークの崎家の本宅にいるなんて全然思えない。

 ギイと電話をしていると、あっという間に時間が経ってしまうのはいつものことで、ギイはこれから一日がはじまろうとしているのに、ここままずっと話していたくなってしまうのもいつものことだ。

『託生。もう時間だ。また明日電話するから……』
「うん」

『おやすみ、託生。よい夢を。愛してるよ』
「うん、おやすみギイ」

 ちゅっ、と受話器から音がして、ぼくは通話を切った。

 ぼくから通話を切るのがふたりの仲で約束事になっているのは相変わらずだ。
ぼくが切らずにいるとギイがいつまでも電話を切れないでいるのも何年経っても変わらない。

 会いたい人は遠いところにいるけれど。でも、声を聞くだけでも安心する。
とはいえ、いつでも会いたいと望んでしまうのも正直なところで。
カレンダーをパラリと捲って、土曜日ふたつ分を指でたどってたら、はあ、と大きな溜息が零れてしまった。

「三週間も会えないのかあ……」

 言葉にするとますます虚しさが襲ってきた。

 だから、ぼくは。

「六月なんて大嫌いだ……」

 カレンダーをペチンと指で弾いて八つ当たりするしかなかった。





 気象庁が沖縄の梅雨入り宣言をして、続いて九州あたりもそろそろという時期、ぼくにとって寂しい魔の三週間がはじまった。

 紫陽花の花が綺麗に紫色に色付いて、道端を鮮やかに彩る夏の初め、たまたま友人たち数人と帰りにカフェでお茶しようってことになって、ぼくは駅に向かって歩いていた。

「オレたち、もしかしてつけられてる?」

 隣りに座るピアノ科の小林修也がそんなことを言い出したものだから、彼の近くにいたぼくとチェロ科の斉藤道隆はお互い顔を見合わせた。

「うしろ見るなよ、気づかれるから」

 同じバイオリン科の加瀬一成が「マジかよ」と顔を乗り出してきて、一緒にいた三人の女の子たちをちらりと見る。

「念のため、帰りは彼女たち、家まで送っていこうぜ」
「ああ、そうだな」

 カフェに入ってからそのことを女の子たちに説明して、今日は早めに切り上げようってことでみんなで同意する。
先日、ふたつ先の駅で無差別に三人の人が刺された事件があったばかりだったので、この手の話に誰もが過敏に反応するのは当然だった。

「日本も治安が悪くなったよなあ」
「警察は何やってんだよ」
「とにかく、警察は事件が起きてからじゃなきゃ動かないって話だからな。
未遂も何もない現時点の状況じゃ交番に駆け込んだどころで追い払われるだけじゃねえ?」

 結局、その日は男のほうが比率が多かったので、それぞれの方向に別れて女の子を送ってゆくことになったのだが、ぼくともうひとり、指揮科の水沢弘樹は免除された。

「おまえら、この近くなんだろ? いいよ、俺たちでなんとかなるから」
「でも悪いよ」

 ぼくらふたりは大学近くのアパートに住んでいて、あとのメンバーは電車通学で実家や賃貸アパートから通っていた。

「平気平気」
「じゃ、次回は俺たちも手伝うってことで。葉山もそれでいいよな?」

「もちろん。じゃあ今回はごめん。くれぐれも気をつけて」
「おう」
「送り狼になるなよっ!」
「っるせー」
「葉山くん、水沢くん。また明日ねっ!」
「バイバーイっ!」

 その後、帰り道を歩きながら、この世の中危なくなったよな、とか、今日のフルスコアは消しゴムかけが大変だった、とか。
水沢とそんなとりとめもない話をしながら五分ほど歩いてゆくと、二十四時間営業のコンビニの前に差し掛かった。

「葉山、オレこっちだから」
「ああ、うん。じゃあまたね」

「おう。また明日なっ!」

 軽く手を振ってからアパートに向かおうとする。

 だが、ふと目に留まったガラス越しのコンビニの店内の陳列した商品に、冷蔵庫の中身が寂しいことが思い出されて、少し買い物をしていこうかどうしようか、ぼくはしばらくその場で逡巡した。

 店内には何人か学生らしき客がいて、レジに並んでいるのが見える。
車が通るたびにガラスに走り去る車体を映して、反射したそれが一瞬光と影の虚像を作った。

 そのガラスに映った、変に出っ張った街路樹を見つけて、「あれっ?」と不思議に思う。
振り返ると、街路樹に寄りかかるように男の人が立っていた。

 こちらをじっと見ている。鋭い視線だった。

 ぼくは昔から、人にじっと見られるのが好きではない。
だからその時も視線に晒されるのがとにかく嫌で慌ててコンビニに入っていった。
奥の飲物のコーナーのところに行き、伺うように外を見る。
すると、その男は煙草に火をつけてるところだった。

──誰かを待ってる? 誰を?

 だらしなく着崩れた背広が幹に擦れている。
服が汚れるのは気にならないようだった。

 とりあえず、男は無視して、缶ジュースとおにぎりを選んでレジを済ます。
店から出てからは足早で家に帰った。

 うしろに耳を澄ましながら、時折速度を変えてみる。
まさか、と思いつつも、最後は駆け足になっていた。

──ぼくをつけてる? どうしてぼくを……?

 部屋に入ってカーテンを引く。
カーテンの隙間から外を見ると誰もいなかった。

──気のせいだった?

 誰かに見られているというのは落ち着かない。
ぼくは目立つのが好きではない。
なぜだか、痛くない腹を探られているようなそんな感覚に陥ってしまうのだ。
それが嫌だから、他人の視線を集めるのは昔から苦手だった。

 しかし、だからといって、ぼくはステージで上がる体質というわけではなく。
だから、大原教授からはすごく珍しいタイプだとヘンに褒められたことがある。

──まあ、アレを褒められたと言っていいのかわからないけどね。

 アパートに帰ってからも帰り道で感じた余韻をぼくはしばらく引き摺っていた。
けれど、ちゃっかりしたもので、ギイから電話をもらった途端、ぼくの心臓は別のことにドキドキして、不安とかはどこかに飛んでいってしまった。
だから、ぼくはギイとのおしゃべりをいつもどおり楽しもうとしたし、実際楽しめた。

「だんだんこっちは夏らしくなってくよ。今日は三十度あったってニュースで言ってた。
こう暑いと喉乾くじゃない? だから帰りにみんなとお茶してきたんだ。
そしたらチェロ科の斉藤くんがコンクール終わったらでいいから一緒に室内楽しようって誘ってくれてさ。
今度、四重奏しようってことになったんだ」
『へえ、室内楽か。託生が第一バイオリン?』

「どうかな。第二でもぼくはいいんだけどね。でも今からやりたい曲がたくさんあって、すごく楽しみなんだ。
室内楽だと小作もたくさん出来るしさ」
『まずは目の前のコンクールを片付けてからだけどな』

「もう。それはちゃんとわかってるよ。だから終わってっからって言ってるだろ。
ギイ、プレッシャーかけないでよ」
『ははは、悪い悪い。
いやさ、今日の託生は何だか浮かれているような、何となく落ち着きのない感じがしてさ。
だから、つい、な』

「浮かれてる? そんなことないよ。何だかね、ギイとこうして話してると安心するっていうか。
ちょっと気になることあったから、その分楽しい話をしていたいっていうか」
『気になること?』

「うん。実はさ──」

 その日の出来事をギイに話して聞かせるのは日課になっていたので、ぼくは駆け足で帰ったことを含め、隠すことなくギイに伝えた。

「しばらく女の子たちもひとり歩きしないようにするって言ってたし、大丈夫だと思うんだけどね。
気にしすぎかもしれないけど、うしろ見るのがやっぱり怖くて。つい走っちゃった」

 ぼくが言い出したことがあまりにも突拍子もないことだったのか、ギイは一瞬、言葉に詰まったようだった。

『大丈夫か? 託生、気をつけろよ』
「うん」

『日本も安心していられないな』
「まったくだよね」

 それから、今日のニューヨークは二十度弱だぞ、羨ましいだろう、だの。
昨日、章三からメールが来て夏休みになったら久しぶりに会いたいって言ってた、だの。
そんな話をギイがいくつかしてきて。

『章三にはオレから連絡しておくから今度三人で会おう。
章三とのことは予定決まったらあとでメールするから』
「うん。わかった」

『じゃあな。おやすみ、託生。愛してるよ』
「うん。おやすみ、ギイ。また明日」

 電話を切ってから、祠堂時代、鉄壁の風紀委員長として一目おかれていた章三の真面目くさった顔がふと頭に浮かんだ。

 章三と会うのこの前の花見以来になる。

「花見がしたい」

 この春、そう最初に言い出したのはギイで。
そしてその調子でギイは「花見にはやっぱり章三のお手製料理だろ。完璧な和食が食べたい」とこれまた我がままを押し通した。

 満開の桜の木の下、重箱を挟んで三人でいくつもビールを空けたあの春の宵。

 最初のうちこそ、
「もお! まだ未成年だろっ」
「葉山だって今更だろが」
「まあまあ。これは麦の炭酸飲料。あくまでジュースでいいだろ?」
そんなカンジだったけど。

「来年は二十歳を過ぎているから堂々と飲めるな」なんて言って、ギイは祠堂時代ですら慣れたように飲んでいたのを棚上げしつつ、缶をいくつも開け、章三やぼくにも当然のように勧めてきた。
何だかんだと言っても章三もぼくもビールが嫌いなわけじゃないので、結局勧められるままに飲んでしまって。
そこらに空き缶が転がる時にはぼくもほろ酔い気分になっていて、すごく気持ちよくて身体も気持ちもふわふわしてた。
途中から調子に乗って自分から「乾杯〜」と音頭をとって何度も缶をぶつけ合ってしまったような気がする。
プシュッ、の炭酸が抜ける音がすごく気持ちよくて、その音が聞きたいばかりに飲んでいた節もある。

 あの夜は、久しぶりに三人で楽しめた花見だったと思う。
そして翌日の二日酔いさえなければ、花見の思い出はさらに楽しいものになっていただろう。

──あのギイでさえ、頭痛の糞食らえって愚痴ってたもんなあ。

 夜遅く、花見を堪能したふたりはそのまま流れ込むようにぼくのアパートに泊まっていった。
翌朝、「味噌汁が飲みたい」と頭を抱えながらリクエストしてきたギイに対し、「葉山、インスタントあるんだろ? そいつを出せ。ギイ、自分でお湯注げよ」と、これまたコメカミを抑えながら章三が言い放っていたのをぼくはすごく覚えている。
ぼくも章三が作ってくれるお味噌汁を期待していたひとりだったからその記憶はとても鮮明なのだ。

 誰も動きたくなくて。誰も動こうとしなくて。
結局、あの春の宵の翌日は午前中いっぱい、三人してだらだらと寝て過ごしたのだった。
よくぞ急性アルコール中毒にならなかったと思う。

──あの日、あんな飲み方は二度としないようにしようって三人で誓い合ったけど、果たしてギイと赤池くんは覚えているのかなあ。

 ものすごく怪しい。

 ギイは章三がいるとやや気が緩むところがあって、いつもよりもお酒を飲むピッチが早くなる。
章三が最後には介抱してくれるって安心感がどこかにあるのかもしれない。
その章三はと言えば、もともと自分のお酒に対する許容範囲がわかっているのか、デロデロに酔った姿をぼくらに見せたことがほとんどない。
だからあの晩、章三が酔いつぶれたのにはホントに驚きだった。

──でも、赤池くんの気持ちもわからなくはないなあ。

 週末ごとに来日しているとはいえ、ギイが日本にいられるのは丸一日もない。
章三も大学があるし、ギイはギイで来日した時の貴重な時間のそのほとんどをぼくと過ごすのに費やしているものだから、ふたりが会う時間はほとんどないくらいだ。

 ギイが来日しているのをどこからか知って、仕事関係の人から時々電話がかかってくることがあるけれど、余程のもの意外はギイもさすがに断わっているようだし。
それでも断われない場合は仕方なく重い腰を上げてるけれど、そんな時は決まって、ギイは明後日の方向に向かって「馬に蹴られてしまえ!」とののしっている。
そして、仕事に出かけても必ず夜までに片付けて、ぼくのところに帰って来るのだ。

 来日するのはぼくに会うためと豪語しているギイ。
それは本当なのだろう。

 ギイが日本にやってくる時は通常、アメリカを金曜の午後出発して、翌土曜の夕方、日本に到着する便に乗ってくる。
飛行時間、約十四時間と偏西風の関係でとても長いフライトになる。
帰りは日曜の午後の便に乗って、同じ日曜の同じ時間帯にニューヨークに到着する。こちらの飛行時間は十二時間強。
ただしこれはギイがニューヨークの本宅にいる場合だ。
ギイは今、アメリカでニューヨークとボストンを行き来している生活をしている。
ギイが通っているハーバード大学はボストンにあるので、そこから日本に行き来するとなるとシカゴ経由になったりする。
このルートは乗り換えもあるので、余計な時間がかかってしまうのが難点だ。

 土曜の夜から日曜の昼までしかないぼくらの逢瀬の時間はとても短く、ふたりでどこかにゆっくり出かける時間などないに等しい。
前々からスケジュールに日本での仕事が入ってたりすると連泊することもあるけれど。
それすら結局は仕事のための連泊なので、ギイの自由になる時間はいつもと同じくらいしかない。

 ただし、長期休暇となれば話は別で、あの花見も春休みだからって計画したようなものだった。
あの時は休みが取れたから三日間日本にいられるとギイが嬉々として言ってきて、章三シェフを強引に担ぎ出したのだった。

──あの夜の赤池くん、久しぶりにギイの顔を見たって言ってたし。
きっと彼なりに浮かれてたのかも……。

 味噌汁が作れないと口をへの字にしながら頭を抱えて唸っていた章三と、そんな章三の姿をからかいながらイテテと頭痛に顔を引きつらせていたギイ。
あの朝のふたりの顔が脳裏に浮かんで、思わず頬が緩んだ──。





 生暖かい夜風が三階の窓から吹き込んで、カーテンがゆらゆら揺れている。
あと数日で夏至となる六月の風は春の風よりもやや乾いているように感じられた。

──でも、それこそあと数日後には、じめじめとした湿気の多い風がきっと吹いているんだろうなあ。

 祠堂の山に吹く風とは全然違う都会の風。
初夏といってもおかしくない季節なのに、上着がほしくなるくらい冷たい風が時々、吹く。
でもその風の冷たさも、あの山の風の凛とした凍るような冷たさとは違う。

──なぜだろう。特に今夜はあの山の風が懐かしいな。

 楽譜を取り出し、今日のレッスンで注意された箇所の確認をざっとしてから頭の中で曲をイメージする。
あまりにも何度も捲っているせいか楽譜の端に皺が寄っていて、少しだけ切り目が入っていた。

──あとでテープでも貼っておこう。

 バイオリンの楽譜というものはうまい具合に作られている。
休符など、改頁ができるタイミングで捲れるように工夫されているのだ。

 そろそろ寝ようと窓枠に手をかけた時、三日月が綺麗に見えた。
アパートから少し離れた先の街灯がパチパチと点滅している。
一番近い街灯の明かりが煌々と照って、アパートのアプローチ入り口のアーチの影を道路に描いていた。
それはとても綺麗な曲線で、今にもポキッて折れそうなほど細い月のようだった。

 その道路に描かれた細い月の上に、小さな赤い明かりが放物線を描いて落ちる。
誰かが煙草を投げ捨てていた。

 男の姿は逆光になっていてよくわからない。
けれど、男がこちらを見ているのだけはわかった。

 途端、背中にぞくっと冷たいものが走る。

 疲れたように木に寄りかかるシルエット──。ぼくは確かに見覚えがあった。





 翌朝から、ぼくはいつもよりも早く大学に行って練習するようにした。
コンクール以外のことは何も考えたくなくて、とにかくバイオリンにだけ向き合っていたかった。

 アパートから出る時、不審者がいないか確認したが、不自然な様子は何も見受けられなかった。

 朝の大学は人もまばらでひっそりとしている。
大学のレッスンルームも空室が多い。
ぼくはひとしきり練習してから、時間を確かめて音楽史の講義を受けに教室に向かった。

 教室では昨日一緒にカフェに寄った顔ぶれが揃っていたので、その後の話を聞くことができた。

「つまりは何もなかったってことだろ? 気にしすぎだったんじゃね?」
「でもマジだったらヤベェじゃん」
「まあまあ。じゃあ、そういうことでみんないいよな?」
「ああ」

「お、葉山。おはよ」
「昨日はお疲れ」

 どうやら、二、三日様子を見ようということに話がまとまりつつあったところにぼくが顔を出したらしい。
簡単に今までの経緯を教えてもらって、「葉山もそれでいいよな?」と同意を求められた。

 ぼくが感じた昨日のことをここで言うべきかどうか迷っていると、すでに話題はお気に入りの喫茶店のおすすめメニューの話に移ったあとで、そのうち講義が始まってしまったのもあって、話を戻す機会を完全に失ってしまった。
結局、ぼくも二、三日様子を見てみようと自分に言い聞かせて、その日は落ち着いたのだった。

 だが。

 ぼくの杞憂は現実となってしまった。

 何もなかったのはその日だけで、翌日から学校帰りや夜など、いつも誰かに見られているような嫌な感じにぼくは始終付き纏われるようになった。

 アパートの窓も開けると誰かが隠れるような瞬間を目にする。
カーテンを開けるのがだんだんと怖くなっていって、そのうちカーテンを開けることはしなくなった。

 見られている。それがすごく怖い。

 ギイは今、アメリカではない国にいるようだ。
来日しないと決まった途端、島岡さんがギイのスケジュールにに海外出張を次々と入れたらしい。
ぼくが講義を受けている時間に何度かメールをくれたけれど、空港だったり出かけ先だったりと一箇所に留まっていることはなく、とても忙しそうだった。

 ぼくに電話をしたいらしいのだけど、ぼくが受けるいつもの時間帯は向こうではどうやらランチタイムらしく、
『イラリア人の食欲はオレの比じゃないぞ。託生だったら半分は残してるな』
『ベルギーはフランス料理系だから結構うまいぞ。ムール貝をバケツでおかわりしてる客とかもいた。
託生に見せたかったな。おまえ、ぜったい呆れるか驚くかだろうなって想像するのすごく楽しかったよ』
『今、ロンドンにいる。アフタヌーンティは嫌いだ。長いしだるい。一緒に飯食うなら託生と食いたい』
接待などでギイの身体は完全に拘束されているようだった。

 欧州のいろいろな国を仕事で移動しているのだとしたら、電話はもちろんのこと、メールを頻繁にするのもきっと大変に違いない。
それでも、メールなら時間ができた時に読んでもらえると思って送る。それはお互い様だ。

『相談したいことがあるんだ。電話待ってる』

 ぼくからはそうメールしておいたけれど、ギイからはその返事はなかなか返って来なかった。

 ユーロの下落がロンドン証券所の株の動きに影響を及ぼしたというニュースが飛び回っていたから、もしかしたらギイが欧州に向かったのもそのせいかもしれない。
今、この瞬間さえ、ぼくとの定期連絡に支障が出るほどギイは走り回っているのかもしれない。
ギイの立場を考えると、ぼくばかりの都合を押し付けるのも悪くて気が引けた。

「メールが来ないからって文句は言えないよ……」

 ぼくにはぼくの生活があるようにギイにはギイの生活がある。
そう自分に言い聞かせるのは祠堂を卒業してからの習慣だ。

「もう少しだ……。えっと、あと一週間? そしたらギイはアメリカに戻るはずなんだから」

 ギイが以前、友人の結婚式に出席するって言っていたのを思い出す。
アメリカに戻ったら、さすがに忙しいギイでもぼくに電話をかけるくらいの時間が作れるかもしれない。

 だから、ぼくはそれを支えにバイオリンの練習に励むことにした。

──不安に思ったら堕ちてゆくだけだ。我慢しなきゃ。

「我慢、我慢」「大丈夫、大丈夫」「もう少し、あとちょっと」
それらの言葉を念仏を唱えるように何度も呟きながら、夏用の薄い掛け布団を頭まで被って、ここしばらく開けていないカーテンから目を逸らして眠りについた。

 今夜も月が出ているのだろうか。
月明かりは、今日もあの男の影を落としているのだろうか。

 あの黒い影が今も窓を開けたら見えてしまうのかと思うと怖かった。

 身体を丸めて、抱き締めるようにベッドにもぐる。

「ギイ……、会いたいよ……」

 欧州はアメリカ大陸よりも遠い気がした──。





「なあ、葉山。コンクールの練習はうまくいってんのか? おまえ、やつれてるぞ」

 その日、ぼくはたまたま水沢弘樹とコンビニの前で出くわした。
「買い物?」の目配せに頷き返して、連れ立って店内に入る。
ペットボトルがたくさん並んでいる商品棚を前にして、どれにしようか選びながら、水沢はぼくをちらりと見て、「大丈夫かよ」と話しかけてきた。

「練習は何とかついてってるんだけど……」

──どうしようか。話してみようか。

「ケド?」
「この間の、つけられてるって話。もしかして、ぼくかもしれない……」

「え? おまえ、尾行されてんの? 何やらかしたんだよ」
「ぼくは何もしてないよ。でも、何となく視線を感じるんだよ。
だって、ぼくなんて気にする人なんかいないはずなのに……」

「おまえ、それは無自覚ってもんだろう? 葉山さ、もしかして自分がホープだって意識ねえの?」
「ホープ?」

「そ。三年、四年を押しのけて学内選抜通って、おまえコンクール出場が決まったんだろ?
しっかりホープじゃん」
「学内選抜? そんなのあったっけ?」

 受けた覚えもないし、聞いたこともまったくなかった。

 だが、その寝耳に水の話に違和感を感じたのはどうやらぼくだけではなく、「それ、マジで言ってんの?」と水沢は呆れたと言わんばかりに溜息をついてみせた。

「去年の期末の後期実技。アレ、学内選抜を兼ねてたんだよ。おまえ、もうちょっと噂に敏感になれよー。
そんなんじゃ出場権かっさられたほかの奴らが、すっげーかわいそうだろが!」
「えっ? あれって学内選抜兼ねてたの?」

 その実技試験なら確かに覚えている。
課題曲がぼくの好きな曲だったから、いつも以上にノリノリで練習してしまった。
その分、ほかの学科試験勉強が進まなくて。
特に英語は試験直前まで教科書とノートを見直ししてて、他人の関心事など気にする余裕すらなかった。

「葉山ってさ、典型的な一点集中型だよな。コレだってのがあるとほかが見えなくなるタイプ。
そんなんだから噂に気づかないんだよ。とにかく、おまえは注目されてるの。
あの大原センセが付きっきりってのも珍しいって話なんだぜ。もっと自覚しろよー」
「あー、でも……」

「でももクソもねえ! とにかくバイオリン科だけじゃなく、ほかの科でもおまえってば有名なんだからさ」
「えっ、それは困るよ!」

「困るって、そりゃ無理な話だろ。おまえ、あの国際コンクールに出るんだろうが。
目立つに決まってんじゃん」

 権威あるコンクールだとは聞いてはいたけれど、まさかそれほど注目されてるコンクールだとは知らなかった。

「どうしよう」
「どうしようもねーよ。おまえ、そんなことより、誰かに付き纏われてるって話、ホントなのか?
バイオリン狙いかもしれねーから気をつけろよ」

「え? バイオリン? どうしてそう思うの?」

 今度こそ唖然とぼくを見て、水沢は、「おまえはアホか」と吐き捨てた。

「おまえのバイオリン、いい音するじゃん。結構しただろ、それ。
ちなみに道隆のチェロ。あれ、二百万するぜ。加瀬のバイオリンは四百万って聞いたことある」
「え? 斉藤くんのチェロってそんなにするの? 加瀬くんのも……。みんなすごいの使ってるんだね」

「すげーのはおまえのだろうが! 段違いだろがっ! いい加減悟れよなあ」

 そうは言われても、このバイオリンはぼくのではないから。
ホントに純粋に、みんないい楽器を手にしてるんだなあって思っただけなのに。

「……あのさ、このバイオリン。ホントはぼくのじゃないんだよ。借りてるんだ」
「うへ? 葉山のじゃないって? マジ、借り物? よくそんな大層なモノ貸してくれたなあ」

「うん、そうなんだね。知り合いがね、バイオリン弾かないからって言ってさ。
最初は断わったんだけど……。
ぼくが受け取ってくれないならどうせ誰にも弾いてもらえないバイオリンなんてって言って、その場で壊すぞって脅されたんだよ。
そんなわけで成り行き上、今はぼくが使ってるんだけど……。
確かにこれはすごくいいバイオリンで、みんながすごいって言うのもわかるんだ。
ぼくが使っていいのかも正直悩んだ時もあったし……。
でも、ぼくに弾いてほしいってその人が言ってくれなかったら、きっとぼくはあのまま、バイオリンをやめていたかもしれない。
だから、ぼくが今こうしてバイオリンを弾いていられるのはこれのお陰なんだ。
だから、これはぼくを音楽の道に進ませてくれたバイオリンで。
けど、それ以上にこれは、これの持ち主が大事にしているバイオリンだからさ。ぼくも大切にしたいんだよ」

「でもさ。その持ち主、バイオリン壊すって言ったくせに大事にしてるってのはヘンじゃね?」
「うん、っていうか。ぼくじゃない人には渡したくないみたいで」

「ああ、なるほど。それなら納得かな。……さっきのさ、誤解しないでほしいんだけど。
道隆のチェロとか加瀬のバイオリンの話、俺しただろ?
だからってさ、おまえの腕、蔑ろにしたってわけじゃねえんだぜ。
葉山はやっぱりうまいと思うよ、俺。バイオリン科の中でもトップクラスだと思う。
けど、コンクールに出場する奴でおまえくらい弾ける奴って、こう言っちゃなんだけど、ほかにもいると思うんだ。
でも、何て言うのかな。おまえの音ってもっと聞いていたい気にさせてくれるっていうか。
独特なんだよ、ものすごく。俺だってこれでも一応指揮志望だからな。音の聞き分けが専門なわけよ。
つーことで、そのバイオリンの持ち主がおまえだから弾いてほしいって思うのもわかる気がするんだよな。
大原先生もさ、きっとおまえに期待するのは、練習すればおまえはもっと化けるって思ってるからじゃねえのかな?」

 そうなのだろうか。だとしたらすごく嬉しいけど。

「なら、ますます練習頑張らないと……」
「そうそう。精々頑張ってくれや。でもマジ、おまえ気をつけろよな。家のカギ、ちゃんと確認しとけよ?」

 ちらっと水沢がぼくのバイオリンを見た。

「うん、わかった」

 それから飲物とお菓子をいくつか買って、ふたりで一緒にコンビニを出た。
水沢が周囲を見渡し、「大丈夫そうじゃん」と明るく笑ったので、ぼくも笑って「うん」と応える。

「じゃあな。カギ忘れんなよ!」
「うん、また明日っ!」

 コンビニで水沢と別れてアパートに戻ると、ドアを開けた途端、部屋がもやっとしてて、高い湿度に眉間に皺が寄るのがわかった。
目が無意識に湿度計に吸いつけられる。

「まずいなあ。乾燥剤、もうひとつ入れておこうかな」

 エアコンのスイッチを入れて、涼しい風が出てきたところで一息ついた。

「バイオリン狙いか……」

 水沢が言うとおり、その可能性がないとは言い切れない。
この借り物のバイオリンは、コレクターにとって生唾モノの一品なのだろうから。

──ギイにメールしておこう。

 何かあってからじゃ遅いし、用心することに越したことはない。

──メール、いつでもいいから読んでよね、ギイ。

 一縷の希望を抱きながら、ぼくは今日のことを書いてメールを送った。
するとその夜、シャワーを浴びて浴室から出てくると、着信メールが一件入っていた。

「盗難保険に入ってるから大丈夫……? もし盗まれても保険会社が探してくれる?
保険会社ってそうこうこともしてるんだ、へえ……って感心してる場合じゃないって。
まったくギイったら、バイオリンよりも託生のほうが大事だって言われても困るよ。
これはそんじょそこらのバイオリンとは違うのに……」

 すると、即座に新しいメールが届いて。
今から搭乗するから数時間はメールもできないと書いてあった。

「ギイ、相変わらず飛行機に乗ってばかりだなあ。今度はどこの国に行くんだろう。
時差次第じゃ電話は期待できないなあ……」

 ここしばらくギイの声を聞いていないことに一抹の寂しさを覚える。

「ギイはギイで頑張ってるんだから、ぼくはぼくでやれることをしなきゃ! とにかく譜面の読み込みしよう。
暗譜する分もあるし、とにかく頑張らないと!」

 自分で自分に気合を入れて、鞄の中から楽譜を取り出した。

 ぼくは大丈夫。きっと大丈夫。

 ぼくだけの呪文を心の中で何度も唱えながら──。





 翌朝、大学に行く時、物陰からこちらを覗く男の姿がちらほらと視界に入って目障りに思った。
大学の帰り、尾行はもっと大胆になっていて、堂々とぼくをつけてるのがわかった。

 男の影がちらつくようになって以来、ぼくはいざとなったら警察に飛び込めるように交番の位置をいくつか確認しておいた。
もちろん、携帯電話はすぐさま連絡できるようにいつも手に持ちながら歩くようにしている。
夜、暑いからといって網戸で寝るのもやめた。この際、電気代がかかっても仕方ないと諦めて、扇風機やエアコンで凌いだ。
ぼくにできる範囲の防犯はすべてしておいたつもりだけど、だからといって絶対大丈夫というわけではない。
ぼくにだってぼくの日常がある。怖いからと言って、アパートに閉じこもってばかりもいられないのだ。

 翌々日の週末はどうせフリーなのだからと思って、ぼくは目一杯レッスンルームの予約を入れておいた。
コンビニでおにぎりを買い込んで、途中昼時にラウンジで軽い昼食を摂った以外は朝から晩までバイオリンを弾き続けた。
日が暮れてきて、室内が薄暗くなったのに気づいた時には予約時間を過ぎていて、慌ててバイオリンを片付けて大学を出た。
バイオリンを弾いている時だけは男のことを考えなくて済んだのもあって、練習することは苦ではなかった。

 日が伸びて、一年で一番昼が長い季節だったのが幸いした。
明るいうちに外での用を済ませてアパートに帰るのが、最近のぼくの日課になっている。

 とはいえ、心配事があると食欲も減る。
もともと自炊が得意なほうではないので、パンやおにぎりを買って簡単に済ませてしまうことも多く、栄養は偏りがちになっていた。

──いい加減、ちゃんとした食事をしないとやばいな。ここに赤池くんがいたら絶対怒られてるところだよ。

 栄養バランスと健康にとても煩かった友人の顔を思い出して、久しぶりに今日はまともなものを食べようと殊勝な気持ちになる。
通りを歩いていると、ちょうど魚の焼けるいい匂いがしてきて、余計、空腹が思い出された。
目に付いた定食屋の暖簾をくぐると、「いらっしゃいませ! 何名様ですか?」と威勢のいい声がかかる。
「ひとりです」と応じて、カウンター席の椅子に座り、客の中で魚をおいしそうに食べている人を見かけて、ぼくも珍しく魚が食べたくなって鯖の味噌煮定食を注文した。

 祠堂の学食で食べていた頃は魚が苦手だったけれど、今ではそうでもない。
ひとり暮らしをするようになって極力食べる努力をしてきた成果が少しずつ表れてきたのだろうか。
今も骨を取るのが苦手なのは変わらないが、最近では秋刀魚の塩焼きも鯵の干物もおいしいと感じられるようになってきた。

──あれから二年も経ってないのに。ぼくも年取ったってことなのかなあ……。

 鯖の上に乗っていた生姜の欠片を箸で取り除きながら、ぼくは心の中でそっと呟く。

──ギイもちゃんと食べてるのかな……。

 鯖の味噌煮、大豆とヒジキの煮物、漬物。そして、定番の豆腐とワカメの味噌汁とホカホカの白いご飯。
目の前のスタンダードな和食のメニューを目にしながら、きっとギイが食べてるのはこういう料理じゃないんだろうなと何となく思った。

 あと一週間。それまで我慢。

──ギイ、会いたいよ……。





 その男は隠れるということをすでにやめていた。
ぼくの尾行はますます大胆になっていて、もういい加減にしてほしい、とぼくのイラツキと不安は最高潮を迎えてつつあった。

 そして、その日、真昼の最中(さなか)の大学の正門で、その人はぼくの前に姿を現した。
射抜くように太陽の光が男を照らす中、男の足元には短い濃い影が伸びていた。
やはり、ぼくを尾行していたのは、みんなでカフェに行った日に見かけたあの男だった。

 ぼくが無視して通り過ぎようとすると、
「葉山さん? 葉山託生さんでしょ?」
その男はぼくの名をはっきりと口にしながら親しそうに呼び止めてきた。

 首元にタオルを巻きつけながら、おそらく望遠レンズ装備なのであろう厳(いか)ついカメラを首からかけて、ぼくの顔を覗き込むように屈み込む。

 咄嗟のことでどうしたらいいのかわからないまま、ぼくが動かないでいると、「こういう者だけど」と無理やり手に名刺を握らされた。

 見るとそこには「ルポライター」の文字が印刷されている。

「Fグループの御曹司、崎義一さんを知ってるよね? きみ、確か高校の時の同級生だろう?」
「それが何か? ぼくに何のご用ですか?」

 昼の空は青く澄んで、男の顔をはっきりと顕にしていた。

──喉がいやに乾くな。

 唇がカサカサしているのがとても気になった。

 その男は日に焼けた肌に笑顔を浮かべていたけれど、浮ついた印象はなかった。
眼差しはとても鋭く、ぼくの出方を伺っているのがよくわかった。
小さな虫を棒切れの先で突っついて、どんな動きをするのか上から見下ろして遊ぶ無邪気で残酷な子供のように、彼はぼくを試している。

「最近はきみのところに来ないけど、彼はどうしたんだい?
……きみ、彼とすごく仲がいいんだな。彼はきみのこと、すごく気に入っているようだけど?」

 ぼくが黙っていると、畳み掛けるようにどんどん質問をぶつけて来る。
まるで弾丸のようだと他人事のように思った。

「毎週のように彼、きみのところに来てたじゃないか。それなのに最近はさっぱり姿を見せない。
どういうことか知ってるなら教えてほしいんだがねえ」

 知っていたとしても教える義理などこちらにはない。

「黙ってたらわからないよ。何とか言ったらどうなんだい」
「ギ……、崎くんのことは確かに知ってます。
ですが、ぼくは今彼がどこにいるのか何をしてるのかなんて知りません。
彼は忙しいのは昔からだから。
あなたが何を知りたいのかは知りませんが、ぼくがあなたに答えられることなんて何もないと思います」

「昔からの知り合い、ね……。きみたち、すごく仲良さそうだもんねえ。祠堂の時はルームメイトだったんだって」
「それが何か? 祠堂は全寮制ですから。彼の元ルームメイトがそんなに珍しいですか?」

「そりゃ珍しいよ。いいねえ、ルームメイト。
あの御曹司と一緒の部屋で過ごしたことがあるなんて、それだけでも自慢してもいいことだよ」
「話がそれだけなら失礼します。それと、もうぼくの周りをウロチョロするのはやめてください。迷惑です。
ぼくはあなたと遊んでるヒマなんてないんです」

「冷たいねえ。でも、きみからは離れられないな。
だってあの御曹司がわざわざアメリカから誰かに会いに来るなんて余程のことなんだぜ?
噂で聞いたけど、毎週来てるんだって? どうして最近は来ないのかな?
きみたち喧嘩でもしたのかい?」
「喧嘩なんて。たとえそんなものしてたとしてもあなたは教える義理はありません。
あなたの用がそれだけなら失礼します」

 ぼくは早くそこから離れたかった。
どこでもいいから男の姿が見えないところに行きたかった。
だが、踵を返したぼくに、その男がうしろから声を張り上げて、その存在感を押し付けてきた。

「きみは知ってるかいっ?! 今期の国会で同性結婚法の法案が出されたことを!
決議も間近、前代未聞のスピード可決になるって話だ。
アレもかの御曹司が一枚絡んでるっていう情報を掴んだんだけど?
ふふふ、何のために……なんてそんな野暮なことは今は訊かないでおいてやるよっ!」

 ぼくは唇を噛み締めながらとにかく足を動かした。

 ギイが同性結婚法の施行を望んでいたことはぼくも知っている。

──だって、あれは……!

 あれはぼくの父がギイに突きつけたことなのだから。

 毎年、正月の元旦にギイはぼくの実家に挨拶に来ては、ぼくとのことを認めてほしいと頭を下げている。
そんなギイに父は毎年、無理難題を言っては追い返しているのだ。

 同性結婚法もそうだ。
彼はいつだって真剣にぼくのことを考えてくれて。
これが施行されたらオレたちにとってもラッキーだろ、なんて言って、ぼくの知らないところでギイは動いてくれている。

 週末、ギイがぼくのところに泊まりに来た時、ぼくがお風呂に入っている間とかちょっと買い物に出てる時とか、そういう時間を見繕ってギイがどこかに電話をしているのをぼくは知っている。
それは日本語だったり英語だったり、どこの国の言葉なのか、たぶんフランス語か何かだと思うけど、ぼくがわからない言葉でギイは話している。

 仕事関係なのかもしれない。でも、きっとそれだけではないはずなんだ。
ぼくの父が口にした難題の解決策を常に頭に入れているギイだから、もしかしたら日本にいる時も動ける時に動こうとしてくれてるのかもしれない。

「お父さんが言ってたの、気にしないでいいからね」とぼくが言うと、ギイは、「大丈夫、何とかするから」と笑ってぼくの頭を撫でて抱き締めてくる。

 同性結婚法の法案が提出されたからと言って、世間の偏見がなくなったわけではない。

 でもぼくもギイが好きで、ギイもぼくを好きでいてくれて。
ふたりで一緒にいたいと願っても、それを応援してくれる人もいれば、黙認してくれる人や黙殺する人がいて、そして中には、認めてくれない人や嫌悪をあらわにする人も当然いる。

 もしも法案が通っても、世間に同性結婚が浸透するまでには長い時間がかかるだろう。
でも、法的に認められるということは、ぼくたちのような関係を世間が正式に承認するということだ。
何もないところから一歩進んだ状態になるわけだから、ぼくとギイにとっては父のことはともかく、ぜひ国会で通ってほしい法案だった。

「よかった。今、ギイが日本に来れなくてちょうどよかったかも。こんな調子じゃギイに悪いよ。
迷惑かけるとこだったな」

 あのルポライターがぼくに張り付いているのはギイの写真を撮るためなのかもしれない。
ぼくと一緒に映ったところを狙っているのかどうかはわからないけれど、このままあの男の思惑通りにはなりたくない。

「ギイにしばらく日本に来ないように言ったほうがいいのかな……」

 あと一週間だと思えたから我慢できたのに、しばらくギイに会えなくなるかと思うと身体の力がすぅっと抜けてゆく。

──嫌だ、今すぐにでも会いたいのに。ギイに会いたい……。どうしてギイと会うのを邪魔するの……?

 好きな人に会いたいだけなのに。ギイを好きになっただけなのに。
どうしてぼくを放っておいてくれないのだろう。

 興奮した気持ちのままでバイオリンを弾くのはよくないことだとわかっていた。
感情がそのまま音に出てしまうからだ。
でも頭で理解していても、自分でもどうにもならない。
案の定、翌日のレッスンで大原教授が渋い顔で「何をやってるんだ」とぼくを窘めた。

「少し頭を冷やしなさい。音が乱れている。そんな音ではバイオリンもかわいそうだ」

 レッスン開始から十分程度で「今日はもう帰るように」と言われてしまったぼくは、「すみません、気をつけますからもう一度お願いします」と粘ったのだけど、何度弾いてもやっぱり駄目で。

「いいから今日はもう帰りなさい。だけどこれは覚えておきなさい。
コンクールのプレッシャーはきみだけが感じることではないのだよ。
上を目指す者ならば、誰もが通る道なのだからね」

 ただし明日までに何とかするように、の温情を頂いたのがまだ救いだった。
ぼくは大原教授にお礼を述べてからレッスンルームをあとにした。

「ぼくは何をやってるんだ……」

 ギイのことやあのルポライターのことが気になるからといって、コンクールとは別物だ。
わかっていたつもりでいたのにもかかわらず、ごちゃ混ぜにしたぼくが悪い。

 大原教授はぼくがコンクールのことで悩んでいるように思われたようだけど、ぼく自身、そこまで懸命にコンクールに向かい合ってなかったことがここにきて浮き彫りになってしまった。

「このままじゃいけない。何とかしなきゃ……」

 そうはいってもぼくに出来ることなどたかがしれている。

──どうすればいいんだろう。





 だが、ぼくよりも先に動いた人がいた。

「葉山くん、きみのあの御曹司は怖いねえ」

 ぼくがアパートに帰ってくると、ドアの前であの男が待っていた。
それも別れの挨拶をしに来たと言うのだ。

「どうして急に……」
「そりゃあ商売上がったりだからさ。きみの写真を持ち込んだところでどこも買っちゃくれない。
それじゃこちとらオマンマ食ってけないのさ。
しっかし、いくら御曹司とのツーショットじゃないからって信憑性がないって見てもくれねえのはおかしいだろう?
だから調べてみたのさ。そしたらどうだい。
あの御曹司の写真はもとよりきみのもFグループが許可しない限り表沙汰に出すのはまずいっていうじゃないか。
スクープなんてものはそんな許可なんかいちいち取ってなんかいられないんだ。
考えることはみんな同じ、ほかの同業者の奴らもきみたちのこと週刊誌に売りつけたらしいな。
だが、結果は……参ったねえ。
出版社一社は廃業に追い込まれ、ほかの出版社も吸収合併されるか、廃刊に追い込まれるか。
さすがにやることが徹底してる。偉いことだ。これじゃあ商売上がったりだね。
ま、俺はもともとこの手の仕事がやりたいわけじゃなかったからな、奮起するいい機会になったよ。
それにいいツテが出来たしな。そういうわけで今日限りできみとはおさらばだ。精々今後も頑張んな!」

 言いたいことだけ言って、その男はさっさと踵を返してしまった。

 すごくあっけない幕切れだった。
頭の中を整理すると、つまりはFグループが何がしかの圧力をかけたらしいと理解する。

 それにしても今回のようなことはぼくが知らなかっただけで以前にもあったということだろうか。

「出版社一社廃業……吸収合併に……廃刊……?」

 ゴシップ記事には興味がないほうなのであまり気にしなかったけど、その情報は事実なのだろうか。

──でも、これでやっとあの男に付き纏われなくて済むんだ……。

 安堵したら一気に力が抜けて、ぼくはベットに寄りかかるようにして、バイオリンを持ったまま、ずずず……と座り込んでしまった。
ほう、と胸の奥底から息を吐く。すごく脱力した気分だった。

 なんだかちょっと身体がだるい。

──今日の晩御飯、どうしようかな……。

 そんな生活感溢れた日常的なことを安心して頭に思い描けることがすごく嬉しかった。

 だが、その安堵感も一転した。

「いッ……た……!!!」

 言葉に出来ないくらいの痛みが、ぼくを突然襲ったのだ。

 痛い、痛い、痛い。

「あ……うう……ぐっ……」

 ぼくは蹲(うずくま)って床にごろごろと転がった。背中が刺すような痛い。お腹も痛い。
この痛みがどうにかなるならと何度も転がってのた打ち回った。
身体を丸くしても痛みは取れない。あまりの痛さに皮膚からブワッと汗を噴いて毛が逆立った。

 痛くて痛くて。こんな痛みは経験なくて。
どんな体勢になってもどうにもならなくて、目も開けられないくらいの痛みにトンネルの闇を感じて、出口が見つからなくてすごく怖くなった。

──痛いよ……、ギイ……。

 このままギイに何も言えないまま、会えないまま……。ぼくはどうなってしまうのだろう。

 必死になって携帯電話を掴んで、額の汗が目に染みるのを我慢しながらボタンを押す。
自分の声とは思えないような獣のような呻(うめ)き声が口からもれるのが止まらない。

──ギイ! 早く! 早く! 早くッ……!

 何度目のコールだったろう。痛みで意識がぼんやりとなった時、「託生?」と掠れたギイの声が耳に届いた。

 だが、あまりの痛さにぼくの声が出ない。ぼくは息が思うように出来ないでいた。
少しでも声を出したら、わずかながらでも腹部に力が入って痛みが増長するのだ。

「……ギ、イ……」

 愛しい人の名を呼んだだけで、口から唾液が漏れて顎に伝わった。
うまく口も開けれない。しゃべれない。痛くて痛くてどうにもならない。

 この痛みがなくなるのなら、いっそ殺してくれと言いたくなるほどの激痛だった。

 荒い息遣いが向こうに伝わったのか、すぐさまギイが、「託生、どうした! 何があった!」と大きな声で尋ねてきた。

──声が、出ない……。

 出るのは呻き声ばかりで言葉にならなかった。

 やっとギイに言えたのは、「助けて」の掠れた一言だった。

「いいか託生、電話切るなよ。このままでいろ。いいな。託生、託生、返事しろ……」

──ギイに伝わった。よかった。

 それだけで涙が溢れて。
目を瞑ると電話の向こう側で何かを叫んでいるギイの顔がぼんやりと浮かんだ。

──ギイ、そんなに怒らないでよ。ものすごく痛いんだよ。ごめん。このまま……。

 携帯電話を両手にぎゅっと握りこみながら、丸くなって痛みを堪える。
すでにぼくの意識は白く霞がかかって朦朧となっていた。

 そのうちどこからかドンドンと何かを叩く音がして、痛みを堪えながら目を開けると、部屋のドアがガタガタと揺れていた。

「葉山さん! 葉山さん、そこにいるんですか!」

 複数の男の人の声がして、「う」だか「あ」だかわからない声がぼくの口からわずかに漏れる。
瞬くたびに涙が流れて、背中やお腹が熱くて痛くて。顔中が涙と唾液でべとべとしていて。
そのうち大きな音がして、ドタバタと誰かが部屋に入ってくるのが薄暗闇の中に見えた。

──ぼくの、バイオリン……!

 痛みを堪えながら必死になってバイオリンを両腕で抱え込んで守ろうとした。
すると、乱入者たちがぼくからバイオリンを引き剥がそうと、ぼくの腕や肩を掴んできた。

──これだけは、駄目……。持っていかないで……!

「駄、目……」

 それだけ口にするのも辛くて。汗がまたドバッと吹き出た。

 男の人たちがぼくの周りで何かを言っているのだけれど、何を言っているのかわからない。

 とにかくバイオリンを守らなくちゃと必死に全力で抱き締めていた──。





 気がつくと、白い天井が真っ先に目に入った。そこは見たことがない部屋だった。

「葉山? 気がついたか?」

 声を掛けられて目をやれば、ベッドのそばでぼくを覗き込むようにして見つめていたのは、元ルームメイトの三洲新だった。

「え……?」

 一瞬、既視感と現実が交じり合って、今が過去なのか現在なのかわからなくなった。

「どうして三洲くんが……? ここはどこ……?」

──そうだ。ここは祠堂の学生寮じゃないんだ。

「ここは俺が通ってる大学の付属病院だ。おまえ、昨日急患で運ばれて来たんだよ。
救急車で来たの覚えてないのか? 胃痙攣だそうだ。まったく人騒がせな男だな」

 病院、救急車の単語を聞いて、自分の身体を襲ったあの激痛を思い出した。
同時に今はその痛みがないことにも気がついた。

「救急車……? 誰かが呼んでくれたんだ……?」

 誰だろう、のぼくの言葉は続かなかった。
三洲がすぐさま頷き、「崎だよ」と先に答えをくれたからだ。

「さすがにアメリカから救急車の要請が来たのは初めてらしいぞ。えらく噂になってる。
葉山、昨日、崎と電話中だったのか?
あいつ、病院に無事搬送されるまでは通話を切らないでくれって救急隊員に頼んだらしいぞ。
ちなみにこの病院を指定したのも奴だ。
昨夜突然、俺のところに電話して……。あれはきっと消防署に連絡したあとだったんだろう。
ここだったら俺がすぐ行けるのわかってたのかもな。相変わらず人の都合を考えない奴だよ」

 それから三洲は昨日のぼくのことを話してくれたのだけど、恥ずかしさのあまり、穴があったら入りたくなった。

 昨夜、救急車で搬送されてくる間も、ぼくはバイオリンと携帯電話を抱き締めて手放さなかったらしい。
それだけならまだ笑って聞いていられたのだけど、このままでは治療が出来ないからと無理矢理バイオリンを奪おうと医師たちを泥棒扱いした上、バイオリンを死守しようと半狂乱になって周りの人間から逃げようと試みたというのだから、自分でも信じられない。
痛みで撹乱(かくらん)していたにしても情緒不安定になっていたにしても、これはやりすぎというものだろう。

「葉山みたいに覚えがないってのは本当に便利だな」

 その「便利」という言葉の裏に「いい加減にしろ」という苛立ちが見え隠れして、ぼくは小さくなるしかなくなる。

 ちなみにギイに呼び出された三洲は、ぼくが乱闘を演じていた時にちょうど到着したようで、懇々とぼくを説得して、それでぼくはやっとバイオリンと携帯を預け渡したらしい。

 今、バイオリンと携帯電話はぼくのベッドのそばにあるテーブルの上に置いてある。

「言っておくけど、呼び出し食らったのは俺だけじゃないから」

 聞けば、ギイは三洲新だけではなく章三にも連絡したようで。

「赤池は売店が空いたからって、さっき必用なものを買いに行ったところだ。
もう少ししたら戻るんじゃないか。
夜中に呼び出されたからね、ずっと起きてからふたりともは腹が空いてるわけさ。
ま、この貸しは三倍返しで崎から頂くから、病人は安心して寝てることだ」

 三洲は携帯電話を取り出して、「もうこんな時間だからな。さすがに何か口に入れたいよ」と言った。

 現在、午前八時すぎ。
「夜中の騒ぎで気力も体力も使い果たした」と面前でぼやかれたら、「すみません、ご迷惑おかけしました」と項垂れるしかない。

「もしかして、昨日の夜中から付き添ってくれてたの? 迷惑かけてごめん。ありがとう。助かったよ。
あ、今日も大学あるよね。大丈夫? 講義があるんでしょ?」
「ああ、一般が一限から入ってる。
でもどうせ敷地内だからな、葉山が大丈夫そうなら時間になったら勝手に行くよ」

 この分だと貫徹だな、と呟きながら、三洲はぼくが気がついたことを知らせるため、ナースコールを押して連絡してくれた。

 すぐさま白衣を着た医師らしき男の人ふたりと看護師さんがやってくる。
でも実際、白衣を着てても、ちゃんとした医師は片方の男の人だけのようだ。
三洲があとから教えてくれたのだが、白衣のひとりはまだ大学生で五年次の臨床実習中とのことだった。
三洲が挨拶していたので、おそらく知り合いなのかもしれない。
ぼくの担当医師のほうも三洲に親しげに話しかけていたので、こちらもどうやら顔見知りのようだ。

「俺自身がここに在学してるってのもあるけど。
もともとうちの親戚が病院経営してるのもあって、その関係でこの大学病院とは付き合いがあるんだよ」

 そう三洲に言われても、医者の世界のことはよくわからないので、ぼくは「ふうん」としか応えられない。

 聴診器での診察が終わってから、いくつか問診されて、
「どうやら落ち着いたようですね。でも、油断は禁物ですから一通り検査をしておきましょうか」
担当医師はそう言って、いくつか看護師たちに指示をした。

 早速、血液検査から始まって、有無を言わさず採血された。
さすがに一通りの検査というだけあって、当然それだけで終わるはずもなく、「腹部X線検査、胃内視鏡検査、腹部超音波検査の予約を入れたのでそれまで待っていてください」と指示を受ける。

「今日一日検査入院してもらって様子をみて、何事もなかったら明日退院ということにしましょう」

 そして付け加えるように、「脱水症状も少し出ていますね」と言われて、点滴をすることになった。

 そのうち、章三が部屋に戻ってきて、「よ。気がついたか」と声を掛けてくれたけれど、寝転んだままの状態で腕に注射針が刺さっていたので、起き上がろうとしても動くと腕が痛そうなことになりそうで、とてもじゃないけど動かす勇気がでない。
昨日の夜以来、すごく痛みに敏感になっているようだ。
あの激痛を身体がまだ覚えていて、少しの痛みでも思い出して怖くなってしまっている。

 そんなことを自分を弁護するかのように章三に説明すると。

「そりゃそうだろう。葉山おまえ、滅茶苦茶暴れたそうじゃないか。
そうそう、救急隊員からも伝言があるぞ。
駆けつけた時、余程苦しんでいたようですでに部屋は散らかってましただとさ。
元からおまえの部屋が散らかってたのか、痛くて暴れて散らかったのかはわからんが、救急隊員にすれば、退院して無残な部屋を見て驚いてもそれは自分たちのせいじゃないって言いたいんだろうな。
それと保険証と財布、ここに置いとくから。ああ、保険証だけど、受付には提出しておいたぞ」

 章三はギイから電話をもらったあと、病院にではなく、ぼくのアパートに出向いたらしい。
これもすべてギイからの指示だったようだ。

「救急隊員が家の鍵を抉じ開ける可能性もあるからって、貴重品の保管を頼まれた。
ちなみに僕が具体的にギイから言われたものは、現金と通帳と保険証、あとバイオリンの保管だ。
鍵はかかってなかったし、部屋はそこら中に楽譜が散らばってたし。
泥棒にでも入られたのかって言いたくなるくらいの惨状だったからな。
まさか葉山がバイオリンを抱えて救急車に乗ってるとは思わなかったから、バイオリンが見つからなくて焦ったのなんの。
ギイはギイで電話を一度もらったあとはこっちから何度かけても一向に繋がりやしないしな。
三洲からメールをもらわなかったらもう少しで警察に盗難届けを出すところだった」

 部屋のドアは大家さんが開けてくれた。
救急車を呼びながら、大家さんへの連絡もこれまたギイがしてくれたらしい。
事情を知った大家さんは合鍵を持ってアパートまで駆けつけてくれて、ちょうどぼくの部屋のドアを叩く救急隊員と鉢合わせをした。
お陰でぼくは助かり、そして章三はアパートから病院に向かう時、ぼくが普段使っている鍵で施錠をしてきてくれたのだと言う。

「赤池くんも本当にありがとう。すごく助かったよ」
「それにしても胃痙攣とはね。神経性のヤツか? 葉山、ストレス溜まってるとか?」
「葉山は意外と図太い神経してると踏んでたんだがなあ」

「失礼な。でも、ストレスっていうより何かホッとして、それで急に来たっていうか……」
「胃痙攣はストレスや緊張でなることもあるだろうけど、別の病気の可能性だってあるかもしれないんだから、検査はちゃんと受けとけよ」

「うん。そうだよね、わかった」

 検査入院ということなので、三洲には「何とか大丈夫そうだから。講義に行って」と言うと、「葉山、意外と元気そうだしな。また様子を見に来るから」と彼は鼻息荒く、帰って行った。
「とんだお騒がせ野郎だ」としっかり皮肉を残していくのを忘れずに。

 でも、今のぼくには三洲に何を言われても三洲に言い返すことなど出来やしない。
しばらく下僕だなとか、俺に向かって足を向けて寝られないななどと言われなかっただけまだマシだ。
今だったら思わず頷いてしまいそうな気がする。

「三洲もさすがにあの乱闘振りには驚いてたからな。
葉山は意外と思い切りいいって知ってたから順応は早かったみたいだけどな。
あんだけ暴れられたら普通は引くだろ。精々いろんなところに頭を下げることだな」
「うっ、そんなに迷惑かけたんだ。どうしよう」

「ま、終わったことはどうしようもないさ。ただし、後始末はしっかりしとけよ」

 相変わらず、締めるところはきっちり締める章三だった。
さすがに落ち込んでばかりもいられない。
迷惑かけた人たちには退院する時にでも一言挨拶しに行こうとぼくは心に深く刻んだ。

 その後、ぼくは検査待ちをしている間、章三相手におしゃべりしながら時間を潰した。
章三は「今日はふける」と言い切って、これまた堂々と病室に居座ってくださったので、時間を気にせずいろんな話が出来た。
コンクールのこと。ギイのこと。ストーカーのこと。
ひさしぶりに会ったのもあって、話題は尽きなかった。

「おいおい。ひとつ間違ってたら危なかったんじゃないか?」
「そうかも。でも、結局大丈夫だったら」

「あのなあ。そういう問題じゃないだろうが。
とりあえず今回はうまく納まったようだからいいけど、もう少しその手のことには早めにギイに言っとけよ。
もともとはあいつが原因なんだろうから」
「うん。そうだよね。肝に銘じとくよ」

 結局その日は検査に明け暮れた。腹部X線検査、胃内視鏡検査、腹部超音波検査。
ぼくは今回、バリウムを初めて飲んだわけだが、検査がこんなに辛いなんて初めて知った。
炭酸の粉を飲んでゲップを出すなと言われた時は思わず涙が千切れた。
次に白くてどろりとした液体の入ったコップを渡されて、そのコップの大きさに驚きながら一生懸命飲んだのだが、とてもじゃないが飲みきれない。
「半分でいいですか?」と検査技師に尋ねたところ、「全部飲んでください」と微笑みながらもきっぱりと言われてしまって、医者は鬼だとその時思った。

 やっと検査が終わった頃には、ぼくはもうぐったりしてしまった。
「病気にだけはなりたくない」と章三に盛大に零すと、章三も「僕もあれは勘弁だな」と賛同してくれてので、少しは溜飲が下がったものだ。

 夕方には検査結果を持って担当医師がぼくのところにやってきた。

「特に目立った症状はないようでうね。ですが、やや胃が弱っていますので胃薬を出しておきますね。
どうぞお大事に」

 そう言ってくれた時はどれほど安堵したことか。

「健康って本当に大事なんだね」
「ああ。おまえも好き嫌いなくしっかり食べろよ」

 つくづく祠堂時代に章三に言われ続けたことが身に染みる。
これからは少しでも栄養バランスを考えた食事をしよう。

 当たり前の生活を送ることがこれほど幸せだと思ったことはなかった。

「今回の入院でいろんなことを改めて考えさせられたよ」
「葉山にしちゃ殊勝な心がけだな」

 それから結局、ぼくは検査入院で一泊する予定だったのを切り上げ、早々に家に帰ることにした。
入院の準備も何もしてこなかったので、バイオリンは持っているものの身ひとつである。
検査着から自分の服に着替えれば、すぐに帰れるくらいだ。

「本当に一泊していかなくていいのか? 一応、様子を見たらどうなんだ」
「大丈夫だよ。この通り、すっごく元気。食欲だってあるんだし入院なんてしてられないよ」

 大原教授には検査の合間に連絡しておいた。
簡単に状況を説明しておいたので、明日改めて挨拶することになっている。

「三洲くんにもさっきメールしといたし」

 連絡しなければならないところには全部済ませた。

 着替えるつもりでカーテンを引こうと窓辺に寄ると外が騒がしい。
ヘリコプターだか戦闘機だかわからないが、上空から騒音がするようだ。

──自衛隊かな。それとも報道番組用だったりして?

 だが、今度は廊下のほうが騒がしくなった。
外の異変に気づいた章三とぼくは、「これは何事?」と顔を見合わせる。

「ここは病院だからな。救急のヘリってのもあるから、もしかして急患かもしれないな」
「なるほど」

 などと悠長に話をしていたら、突然、ドアが勢いよく開かれた。
同時に、人が部屋に飛び込んでくる。

「ええっ? ギイ?! どうして……?」

 入室してきた時のギイの厳しい表情は、ぼくを認めた途端、一瞬、歪んだ。
今にも泣き出しそうな顔になる。

 だが、ギイはすぐさま笑顔に切り替えて、
「託生が無事でよかった」
そう言って、ぼくをきつく抱き締めてきた。

「ギイ……。わざわざ来てくれたんだ」
「生きた心地しなかった。おまえ、すごく苦しそうな声で……。声だけしか届かないのはすごく怖いよ。
無事な姿を見るまでは安心できなかった」

「ぼくはもう大丈夫だよ。ほら、この通り。もう退院なんだ。ギイのお陰だよ、ありがとう。
救急車、呼んでくれたんだって?」
「ああ。あれには参った。
東京の一一九に電話かけたら、どちらからおかけですかってオペレータに訊かれてさ。
アメリカからだって言ったらもう少しで切られそうになっちまった」
「イタズラ電話に間違われたわけか」

「章三にも世話かけたな。助かったよ。さすがにボストンからじゃすぐさま飛んでは来れないからな」
「ボストンッ?!」

 つまりはギイは、ぼくが電話してから急遽あちらを出立したというわけだ。

「それにしちゃあ計算が合わないんじゃないか? ボストンからじゃもっと時間がかかって当然だろう?」
「ああ、さすがに今回は奥の手を使ったよ」

 奥の手──。それは自家用ジェット機で羽田まで飛んできたらしい。
羽田からはヘリコプターでこの病院の屋上まで送ってもらったというのだから恐れ入る。

「命に別状はないってあれほどメールしといただろうが」
「おまえの言葉が信じられなかったわけじゃないんだ。
だけど、昨日の夜のあんな託生の声を聞かされちゃ、大人しく週末まで待ってなんかいられなかったんだよ。
それで検査の結果は? どうなんだ託生」

 ギイに両肩を捕まれ、何度もゆさゆさ揺さぶられて、まるで縋りつくようにギイが必死にぼくに問う。
そうされるころで、ぼくはやっと自分の気持ちが追いついた。

──ああ、本当にギイがいるんだ。ここに。ぼくの目の前に……。

 再度抱き締められて、ギイの存在を肌身で実感する。

「会いたかったよ、ギイ」





 その後、退院したぼくが第一にしたことは、大原教授に突然レッスンを休んだことに対するお詫びの電話を入れることだった。
救急車で運ばれた旨をつい口を滑らせてしまったせいか、翌日のレッスンの時、大原教授は大層ぼくの体調を心配してくださって、ぼくはすごく恐縮してしまった。

「コンクールというものは水物だ。競い合う、その張り詰めた空気の中で完璧な演奏を求められる。
完成度の高い楽器の弾きこなしがコンクール入賞の鍵となるわけだが、誰でもそれ相当の正統派的な演奏を完璧にすれば、優勝や入賞は射程圏内だ。
きみだってそういう演奏をすれば優勝を充分狙える。自信を持つことも大切だよ。
ただし、もっと大切なのはコンクールが終わってからの音楽に対する姿勢だ。
正統派が悪いわけじゃない。だが、それだけでもいけない。
コンクールでいい成績を残したところで、音学的、人間的な部分がその後も付随しなければ、演奏家としての成長はそこで止まる。
バイオリンは技術的にも難易度の高い楽器だ。
技術を修めながら、なおかつ音楽的な発想を育てなければ、音は広がらないのだからね。
コンクールや試験に向かうだけの音楽では寂しいよ。
だけど、きみなら自分の信念をもってゆけると私は踏んだんだ。
私がなぜきみを推薦したか。
それは、きみは音楽人の喜びや幸せをその音にすでに見つけているように感じたからだよ」

 この大原教授の言葉は、音楽家にとってとてもずしりと重いものだとつくづく思った。
だが、この言葉を聞いて、ぼくは自分の道が開けるのが見えた気がした。

 それから数ヵ月後のコンクール本選の最終日──。

 すべての演奏が終わったあと、大原教授はぼくのところに来てくださって、当日のぼくの演奏がどうだったかなど一切触れずに、「以前、私がきみに言ったことを覚えているかね?」とそれだけを口にした。

「はい。先生のあのお言葉は一生忘れません」

 そして、大原教授は穏やかに微笑みながら、
「頑張りなさい。そしてこれからもきみの音を広げなさい」
司会者に名前を読み上げられ、舞台へと進もうとするぼくの背をポンと軽く押してくれる。

「きみは私の自慢の生徒だよ」

 ぼくに向けられた眼差しは温かく、大原教授はレッスンの時には一度も見られなかったほどの満面の笑顔でぼくを軽く抱き締め、それから拍手を送ってくださった。

 近くで見たら、少しだけ大原教授の目が潤んでいるのが見えた。

  大原教授はいろんなことを教えてくださった。
バイオリンの演奏以外にも、音楽への向き方や人生かけての挑戦まで。
感謝しきれないほどたくさんのことを教えていただいた。

 その尊敬する恩師から拍手を頂けるのが誇らしくて。

「早く行きたまえ」とわざと素っ気ない態度をとる大原教授が今までにないくらい身近な存在に感じられて。

「……本当に、ありがとうございましたっ!」
「いいから行きなさい。みんながきみを待ってるよ」

「はい」

 スポットライトで明るく輝く舞台へとぼくは一歩一歩踏みしめて向かってゆく。

 ふと会場を振り返れば、前から五列目の中央の席に愛しい人の笑顔を認めて、緊張で固まっていたぼくの頬がやっと緩んだ。

『おめでとう、託生』

 ギイの唇の動きがそんなふうに象った気がした。

 もう一度、大原教授を振り返ると、少しだけ不機嫌そうな顔で「早く行きなさい」と手で合図をしている。

 舞台に上がったぼくは深く頭を下げ、一生忘れませんと誓った言葉を改めて噛み締めた──。





 以後、ウィーンに留学してからも、社会に出てからも、大原教授の言葉をぼくは何度でも思い出しては心に刻んでいる。

 ギイにはギイのやるべきことがあり、ぼくにはぼくの向かうべき道があって。
ふたりがいつも一緒にいられないのだとしても、どちらかがどちらかに寄りかかってばかりの関係ではなく、それぞれがそれぞれにしっかりと地に足をつけて立った上で、ふたり寄り添い、助け合い、ともにありたいと望めたらいい。

 そして、そうありたいとより強く思う時、ぼくはいつも大原教授の言葉を思い出して、歩みを止めずに努力を怠らないようにしようと心を奮い立たせてきた。

 音楽は人生そのものだ。コンクールが終わったからと言ってそれで終わりではない。
人を想うことも同じ。想いが通じ合ったからといって、そこで完結するわけでもない。

 その後も自分を取り巻くすべてのものを大切に育てていかなければならないのだ……。





 誰しものうえにも出会いと別れは訪れ、ひとつのきっかけがその筋道を変える場となり得る。

 小さな石ころでさえ綺麗な宝石に焦がれれば、おのれを磨こうと努力する指針となり、人はいつだって、「歩兵(ふひょう)」から「と金」になれる可能性を見出(みいだ)せる。

 掴むのも望むのも、その心ひとつ。

 心なくして変革はあり得ない──。



 あの七年前の日、ぼくはとても大事な何かをこの手に掴んだ。

 そして、一音大生だったぼくがあの時、コンクールを経験してチャンスを掴んだように、ここにも変革を余儀なくされた人がいたのだった──。





「きみが入院したこと、俺が知ってたからおかしいかい?
ま、あれ以後もしばらくかの御曹司の行動を追ってたからな。それで知ったってわけさ。
これでも途中で投げ出すのは性に合わない性質でな。
言っとくが、ゴシップネタで追ってたわけじゃないぞ」

 ジョン・F・ケネディー国際空港のタクシー乗り場は大勢の人で溢れていた。

 ぼくの腕を掴んだ手をやんわりと放すと、佐貫久敏は早口で、「あの時は悪かったな。仕事とはいえ、申し訳なかった」と言って頭を下げた。

「あ……、いえ」

 確かにぼくは迷惑したし、怖い思いもした。

 そして、目の前の人はあの時よりも凄みを増しているような気がするから今も怖い印象を拭えない。
もしかすると今のほうが七年前よりも迫力があるかもしれない。

 でもそれは年齢を重ねた人間性の厚みが放つ種類の雰囲気で、昔の擦れたような危険を感じるものではないのだと本能的に思った。

「こんなところできみに会えたってのはすごい偶然だな。おそらく今後、こんな偶然は二度とないだろう。
だから、これだけは伝えておきたい。
俺の昔の夢は新聞記者になることだった。社会部のな。
だが、夢破れて、落ちた先はゴシップを狙うしがないルポライターだった。
きみのことを追ってる時、すごく自分でもやるせなかったさ。
こんなことしてて俺はいいのかって、楽しいのかって随分悩んだ。
そんな時だった。知り合いから経済誌のコラムのネタ探しをやってみないかって言われたんだ。
もともとやりたい方面の仕事だったから、それからは必死で財界のことを調べまわった。
かの御曹司が指示したっぽい圧力を間接的にかけられたのは一度や二度じゃない。
だがな、それは経済の動向に関することで、無駄に世間の心配を煽なっていう忠告だった。
参ったよ。読みが偉く的確ときた。
一度だけ、俺は直接崎義一と話したことがある。取材でな。で、終わってからこそっと訊いてみたんだ。
葉山託生を知ってるかってな……」

 話の途中だったが、その時、佐貫久敏がぼくに懸命に話しかける中、横から声を挟む人がいた。

「お話中、失礼」
「あっ! 荷物……! す、すみません。ありがとうございました」

 声を掛けてきたのはぼくのスーツケースを泥棒からわざわざ取り返してくれた人で、ぼくは何度もぺこぺこと頭を下げてお礼を言った。
だが、ふと、「あれ? 日本語?」と、相手が日本語で声を掛けてきたことに突然気づいて怪訝に思う。

「葉山託生さんですね? この方はあなたのお知り合いですか?」
「えっ、と……。あなたは?」

 知らない人の口から自分の名前が出るのはいつだってとても奇妙に感じる。
人の顔を覚えるのは苦手なぼくなので、もしかしたら彼とはすごく前に会っていて、顔を忘れてる可能性がもしかしてあるのかな、とも考えた。
だが、自分の記憶の不確かさに不安が過ぎったのは一瞬で、よくよく考えて、この彼とは絶対初対面だと思い直した。
彼の顔かたちは一見、日本人そのものだが、肌の色は黒人のそれほどではないが、黄色人種のものとは違っている。
だから、彼は日系アメリカ人かもしれないとぼくは思った。
そしてその予想は当たっていた。

「トーマス・黒田と言います。ボスからあなたに会えたら連絡するように支持されてます。
申しわけありませんが、少々お待ちください」

 黒田という姓を聞いて、やっぱり日系人かとぼくはなぜかホッとする。

──日本語が通じるってやっぱりいいなあ。

 トーマス・黒田と名乗った日系アメリカ人は、ぼくと佐貫久敏へそれぞれ視線を投げると携帯電話を取り出し、どこかに電話をした。
それもとても流暢な日本語で。

 周りの人が英語でぺらぺら話している中で日本語を聞くのはすごく奇妙で、少しだけ誇らしかった。
何を話してるのか、きっと周りの人にはわからないんだろうな、でもぼくにはわかるんだよね、というヘンな優越感がある。

「葉山さん、どうぞ。ミスター島岡です」
「え? 島岡さん?」

 目の前に差し出された携帯電話を恐る恐る受け取ると。

「葉山ですけど……?」
『託生さん? ああ、よかった。心配しましたよ。
日本からの飛行機は予定通り到着しているのに、あなたがなかなか出てこないと連絡を受けていたので』

「すみません、ご心配おかけしました。ギイは? そこにいるんですか?」
『いえ、彼は今、会議中で……。すみません、今電話に出るのはちょっと無理なんです。
三十分前まではギイもここで託生さんからの連絡を待ってたんですけど、ちょっと抜けられない会議が入ってしまって。
それで代わりに私が』

「あ、いいんです。ギイが今日忙しいのは知ってるんです。
えっとそれでなんですけど、ここにいる黒田さんって……?」
『ああ、彼はSPです。託生さん専属の』

「は? SP?」
『ええ。崎家の方々との会食の前に、託生さんには一箇所行っていただきたいところがあるんです。
黒田はあなたをそこにお連れするようギイから指示を受けているはずです。
なのでお願いですから、託生さんは黒田と一緒に行動してくださいね』

「でも、ぼくにSPなんて。そんなもの……」
『ここはアメリカですよ、託生さん。それにあなたに何かあっては困るのです。
今現在のあなたのお立場では絶対必要だということをどうぞご理解ください。
それに、これは空港まで迎えに行けないギイからのたっての願いなんです。
どうかSPの同行を認めてください。お願いします。
黒田は日本語が話せますのでご希望があるなら彼に何でも言ってください』

──何でも言ってくださいって言われても……。

 ちらりと自分専属のSPという人の顔を見ると、彼は深々とぼくに向かって頭を下げてきた。

──うわあ、困るよ……。

「じゃ、俺はこれで。引き止めて悪かったな」
「あ……、はい」

 既知の間柄と言っても、親しいわけでもない。見方を変えれば天敵に近い佐貫久敏でる。
その彼が、一瞬、言葉を詰まらせて、ぼくをじっと見た。

「……何か?」
「最後にひとつだけきみに頼みがあるんだ」

「ぼくに頼み、ですか?」

 経済誌編集部にいる彼からぼくに何の用だろう。
ギイへの橋渡しは勘弁してほしいなと正直思いながら、相手の出方を待った。
すると案の定、「ああ。彼に……かの御曹司に」と続けるではないか。

 慌てて、「えっと、ぼくはギイとの橋渡しは無理なので」と先手を打とうとしたら……。
だが、彼のそれはぼくが勘ぐった部類のものではなかった。

「ありがとう。そう伝えてくれないか。俺の人生が変わったのは彼のお陰だからな」
「え? ギイがあなたに何かしたの?」

「まあな」

 わずかにだが、佐貫久敏は照れたような笑みを浮かべた。
だが、すぐさま大人の余裕でもって甘い余韻を一蹴して、代わりに瞳の奥底で計算高い男のそれを光らせる。

「それと、きみたちの婚約報道。もう少し規制を緩めてくれるとありがたいんだが?」

 しかし、佐貫久敏があの時の彼でなければ、ぼくも七年前のぼくではなかった。

「……頼みはひとつだけなんでしょう?」

 これくらいの切り返しはぼくにだって出来るのだ。

「ははは、そうだったな。俺としたことが失敗した。じゃあ、俺はこれで」

 佐貫久敏がすっと右手を差し出して来たので、一瞬躊躇したが、ぼくもしっかり握り返した。

「お幸せに。婚約おめでとう」
「あ、ありがとうございます……」

 そうして別れの挨拶を一通り済ませると、ぼくらの様子を見守っていたぼく専属SPという人が、
「葉山さん。彼が危険人物でなかったからよかったものの、今後はこのような場所で突然誰かに声をかけられても無視してください。
人が多いところでは犯罪者も隠れやすいです」
いかにも豪奢という言葉が似合いそうな立派な車にぼくを案内しながら、そう話しかけてきた。

「はあ、すみません」
「謝らないでください。あなたはボスの大切な方です。
だからご自身を大切にしてくださいと申し上げたのです」

「はあ」

 彼がぼくのことを心配してくれてるのがひしひしと伝わってくるから幾分我慢もできたけど。
アメリカに来るたびにこんな対応されるんじゃあまりこの国には来たくないな、が正直な感想だった。

 聞けば、これからデンタル・クリニックに行って、歯にGPS用小型発信機を埋め込むのだと言う。

──何だ、それは。ぼくは聞いてないぞ。

 裕福な家では誘拐事件があとを絶たない。
GPSで居場所が特定されれば対策も練りやすいのはわかる。

──でもぼくがどうしてこんな目に……!

 その三時間後、ギイと久しぶりに会ったぼくの第一声は、「ぼく、やっぱりアメリカは合わないみたい」のぼやきとなった。

 ぼくごときのそんな一言で、「どうしたんだ、託生。もしかしてマリッジブルーか?」と騒ぎ出すギイと、「何か不都合がありましたか。ご希望にそうよう努力しますから」と慌てる島岡さんは似た者同士のいいコンビかもしれない。

「ギイと結婚するのがこんなに大変だとは思わなかった」
「受諾したこと後悔してるのか?」

「そうじゃなくて……」

 こんなことを言ったらギイが悲しむかなと思ったのだけれど、ぼくとギイの仲で燻るような隠し事はしたくなかったから、
「Fグループっていうバックグランドがすっごく邪魔。ギイを否定するつもりはないけど、ぼくにはいらないよ」
そう思い切って言ってみた。

──ギイ、困った顔をするかな。

 そしてやっぱり想像したとおり、ぼくがそう口にした途端、ギイは俯いてしまって。
唇をギュと結んでいるのが見えたから、ちょっと心配になって屈んで俯いたギイの顔を覗き込もうとした。

 すると、そのうちギイの肩がピクピクと奮えはじめて。

「ギイ……?」

 ぼくが呼ぶと、ギイはプッと噴き出したかと思うと、「あーっ、はっはっはっ」と思いっきりお腹を抱えて笑い出した。

「ギイ! 何だよ、その態度! 笑うなんて失礼だろ!」
「だって、託生があまりにも託生らしくて。おまえ、全然変わらないから……」

──何なんだ、いったい。ぼくがぼくでしかないのは当たり前じゃないか。

 目尻に溜まった涙を拭きながら、ぼくがムッとしているのを横目で見たギイは、またもや「ぷッ」と噴出して、再びぼくの不興を買っていた。

 ありがとうと伝えてくれと頼まれていたけれど、こんな状況で言う気にはなれない。

「ギイ、ぼく喉乾いた」
「はいはい」

「お腹も空いた」
「それはちょっと待ってくれ。あともう少ししたら本宅に向かうから。向こうでディナー用意してるはずだ。
疲れてるなら肩でも揉んでやろうか?」

「んー。どうしようかな」
「託生くん、今はギイくんに甘えてなさい」

 折りしも島岡さんはギイに言われて飲物を用意しに部屋で出てしまってる。
久しぶりの逢瀬だし、この際だから甘えてしまおうか。

 ギイは意外と肩を揉むのがうまい。
ギイはぼくに揉んでもらうより、ぼくを揉むほうが好きらしい。
バイオリンを弾いているとどうしても長時間同じ姿勢でいることになるので肩や腰が痛くなる。
そんな時、ギイは自分も疲れているだろうに、ぼくの身体をほぐそうとしてくれるのだ。

「気持ちいい〜、極楽極楽」
「託生、親父臭い」

「ウルサイ。ギイは黙って揉んでなさい」
「ハイハイ。でも託生サマ、黙ってるのはオレの性に合いません。
おや、首のあたりがとても凝ってらっしゃいますよ。
ほかにもご希望がありましたらどうぞおっしゃってください」

 んん〜、と気持ちいい声が口から漏れて、ちょうど飲物を持って部屋に戻ってきた島岡さんに聞かれてしまって、くすくす笑われてしまった。

 ちょっと恥ずかしくなって誤魔化すように、「そういや今日、ギイのすごさがつくづくよくわかったよ」とぼくが言うと。

「へえ、どこらへんがすごいって?」

 ギイが楽しそうに話に乗ってきた。
島岡さんまでが、「すごく興味がありますね」と興味津々の様子を隠さない。

「えっとさ。よく飛行機我慢できるなあって。
ほら、ぼくなんてアメリカ来るのでさえヒーヒー言ってるのに、ギイはちょくちょく乗ってるじゃない。
だから尊敬する……って、ふたりとも何笑ってるの?!」

 沈没して笑い出すギイと、肩を震わして笑う島岡さん。

──もう、このふたりは……!

「託生、最高」と褒めれても、ぼくは全然嬉しくなかった。

「好きだよ、託生」
「あっそ」

 ぼくも強くなったものである。

 冷たくプイッと無視してやったら、ギイがチュッとキスしてきた。

「ギイ! 島岡さんいるのに!」
「いえいえ、どうぞお構いなく。ギイは今生の春、真っ最中ですものね。お好きなだけどうぞ」

 まったくもって、この上司にして部下である。

「ホントにねえ、Fグループの今後が心配だよ……」

 そうして、このぼくの呟きを拾っては、またもやくすくす忍び笑うふたりなのだった──。

                                                         おしまい


material * NOION



*** あとがき ***

最後までのお付き合い、ありがとうございました。

珍しく続きものです。
「最後の砦」のその後のお話です。
ちょこちょこっと現実的におかしなところがあっても笑ってお許しください。

婚約中のふたりという設定ですが、物語のメインは大学二年の頃となってます。
アメリカと日本を舞台に、
将棋の「歩兵」が「と金」に成るようにチャンスをモノにしてば夢を叶えよう、というテーマでまとめてみました。

アメリカなんて一度も行ったことがないのにどうしようと思ったのですが、何とか書き終われてよかったです。

ここまでいい加減な設定のお話を最後まで読んでくださり感謝します。
このお話を少しでも気に入ってくださったら嬉しいです♪

最後に、このお話は、
原作「タクミくん」シリーズの文庫本「プロローグ」までの設定での未来編となっていることを明記しておきます。

by moro



moro*on presents


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